un capodoglio d'avorio
2002年12月28日(土) |
2002年極私的芝居ランキング(後半) |
部屋で食器洗ってたらシンクに携帯落とす。あっという間に液晶ブラックアウト!ヤバッと思ってソッコウAUショップに駆け込む、でも、絶望的。ああ・・・(「水没事件その後」は明日以降に続く)。その後憔悴しきって、前の職場のアルバイトくんたちの忘年会に顔を出す。ぬまにいの結婚&おめでたにびっくし。おめでとう!
さて、ランキングの後半、ベスト3の発表・・・!の前に、特別賞から行きたいと思う。
特別賞 フキコシミツルとロイヤル室内バレエ団「フキコシ・ソロ・アクト・ライブ」@シアタートラム:☆☆☆☆ これは演劇と呼べるのか、コントと呼ぶべきなのか、まだ少し迷ってしまう。一つだけ確かなのは、この吹越さんの一人舞台は、脚本(ネタ)でも、台詞(シャベリ)でもなく、身体で成立しているということだ。それこそがツボなどか。「双子ネタ」はいま思い出しても、ヤバいくらいの破壊力。ひたすらナンセンスなネタを支える、不条理な肉体、それは筧利夫のそれよりもはるかに研ぎ澄まされたものだった。もう一度、野田芝居で彼を見てみたいなと思う。野田秀樹に受けた賛辞もうなずけると言うものだ。今年いちばん笑った舞台(参考→DOKA'S DIARY 8/18)。
さて、それではいよいよベストスリー!
第3位 青年団「冒険王」@駒場アゴラ劇場:☆☆☆☆☆ (参考→DOKA'S DIARY 1/30)
いっさいの破綻をきたさない、鉄壁の完成度を誇る青年団だが、この舞台はいつにもまして完璧だった。1980年のイスタンブールの安宿が舞台の会話劇、当時の世界情勢を踏まえて激動の東欧にあって、ふわふわ浮き草のように漂う日本人バックパッカーを活写。そして単なる20年前のセンチメントに終わらせないのがこの劇団であり、幾重にも重なっていく「たわいのない」会話の向こうに浮かび上がるのはこの21世紀現代社会の影絵。かつてバックパッカーだったどかは、5年前の記憶をたどりながら、しんみりしんみり。
にしても、この、クォリティ。「こころ余りてことば足らず」って在原業平だっけ?それをいまやってるのは、歌人や詩人ではなく、演劇人平田オリザだ。山内健司の軽妙かつ正確無比な「たわいなさ」を見聞きすることは、もはや悦楽の極みになっちゃったどか。若手の大庭裕介も、水際だった「普通さ」を見せたなあ。今年いちばん余韻にひたった舞台。
第2位 青年団「東京ノート」@東京都現代美術館特設会場:☆☆☆☆☆ (参考→DOKA'S DIARY 11/24)
同じく青年団。岸田戯曲賞作の再演、美術館のホールという戯曲の設定をそのまま活かした、美術館内にあつらえた会場での公演で、もうこの雰囲気だけでやられ気味どか。「冒険王」とは対照的に、これは未来の話。普通に考えたら、未来を舞台にして「いまヨーロッパは大戦争です」だなんて設定を押しつけられたら「おいおい聞いてへんよ」って鼻白むのが普通。でもそこはオリザ。この虚構の壁をやすやすと飛び越えてしまう演出をつける。美術史専攻のどかにも、学芸員役の志賀さんの語るフェルメールについての説明は完璧に思える。またひらたよーこさんの軽妙かつ適切な「だまり方」には脱帽する。
そしてその重層的に織り込まれたメッセージから広がるイメージは素晴らしい。現代社会の本質への解釈をその下敷きにしている「冒険王」に対し「東京ノート」はあくまで個人がそれぞれ抱える哀しみへと、そのイメージは降りてくる。フェルメールの哀しみはガリレオガリレイの哀しみ。それはオリザの哀しみであり、青年団の芝居を観に来た私たちの哀しみなのだ。いちばん哀しかった芝居だな。
第1位 つかこうへい「熱海殺人事件モンテカルロイリュージョン」@紀伊国屋ホール:☆☆☆☆☆ (参考→DOKA'S DIARY 6/23他)
こんな世の中だ。みんな癒されることばかり望んで、自らの影を打ち消してくれるほどに光りかがやく偶像を求めて、かつ自分があがめているその偶像を少しでも汚されることを恐れ、ヒトの血を求めてゲーム感覚の格闘ショーに一喜一憂して、でも自らの血には決して触れず、自分の内ではなく外で、なにもかもさばこうとする。本当に大切なことは外じゃなくて、内側にあるのに。
自分が傷つけられたっ!って何かにあたってしまう前に、自分自身が何かを捨ててしまっていることに気づきたい。自分は癒されたー!って何かにすがってしまう前に、自分自身で何かをすくい上げたことに気づきたい。その気づくための「きっかけ」、つかこうへいが舞台を演出する目的があるとすれば、その一点のみだとどかは思う。ただつかが準備する、外ではなく内へ内へというベクトルは実は大変な労力を要するものであり、並の役者では耐えきれず自壊してしまう。そんな舞台は出来の悪い内輪もめを眺めているような気持ちの悪いものでしかない。
けれどもこの「モンテ」は違った。阿部寛の毅然とした「華」がつかの台詞を完全に飲み込んだ上で演出を追い越してさらに加速させるという離れ業を演じた。さらに主要登場人物を、阿部の「華」に身体を張って立ち向かえる力感と速度を持った三人に限ったことで物語の「表層」を完全に破綻させた上で物語の「本質」を結晶させることに成功したのだ。ラストシーン、阿部は自らの心の中で棒高跳びの試技に挑む。その姿こそが、どかが演劇を見続ける理由なんだね。
つかこうへいは決して、時代遅れの劇作家ではない。つかこうへいは決して、ひとりよがりの演出家ではない。人間の内面、その奥底に眠るか細くとぎれそうな一筋の水脈を注意深く探り、そこから一滴の光る水をくみ上げることの出来る数少ない天才なのだ。その「井戸掘り」の作業を、もっと、筧や銀之丞や阿部チャン、山本亨や成志、春田サンや平栗さんがフォローしなくちゃ。
ねえ今こそしなくちゃ、でしょ?
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