un capodoglio d'avorio
2002年12月09日(月) |
バルセロナ・ピカソ美術館展@上野の森美術館 |
昨日のつづき。せっかく上野まで来たんやし、きょう(12/08)で終了してしまう展覧会は行っとくかあ。と思い、上野の森美術館を目指す。上野公園を歩きながらすごい、イヤな予感がした。
予感的中。美術館前にうねうね曲がりくねった人の列、列、列。おおおお、マジかよぉ・・・。さっきのウィンスロップは全然そんなこと無かったのに「ピカソ」という名前だけで全く日本人ときたら、と悪態つくも観たい絵があったから仕方なく並ぶ。かなり、寒い。寒空の下、70分待ち。やってられない全く。
↑やあっと入り口が見えてきたあ(ここまでで1時間)!
入る。とりあえずピカソ14歳の時の作品「初聖体拝領」だけが目的。でも、当然ながら館内も朝8時台のJR中央線の混み具合に匹敵するくらい。壁に沿って分厚い4層ほどに重なった人の列、進まない。すでに半分キレてたどかは、小品とかを横目に適当に流しつつその絵の前まで来る。ここもすごい人だかり、忍耐強く10分ほど待つとようやくキャンバスが見える位置に到達する。やれやれ。
・・・パブロ・ピカソ「初聖体受領 The First Communion」
なんだか聞くところによると、中学だか高校の美術の教科書に載ってるらしい。どかはでも、電車の中の張り広告で初めて知ったの。んで、その広告で見た限りでは「そんな大した絵かぁ」と思ってたら、大した絵だった、見たら。
ピカソのことは「嫌いではないよ」という程度のどか。最初は嫌いだった。でも<キュビズム>の悦楽が分かるようになってから、段々抵抗が減っていった、どかの中で。次々と猫の目のように変わっていったスタイルも、今ではどの時代も面白いと思う。でも<青の時代>よりも前に、こんなに完成度の高いスタイルがまだあったんね、すごい。
次から次へ新しいスタイルへ乗り換えつつ、かつその新規に開拓した分野でも誰にも負けない完成度を達成して。ピカソの生きざま自体が既に、アートだ。でも生きざまをアートにするんてどうよ、とか思ったり。なんか才能を持たなかった負け犬の遠吠えだけど、一つの所に踏ん張ったらどんなピカソになるんやろね、と想像してしまう。
そ、特に、この「初聖体受領」みたいなスタイルを突き進んでみたらどうなってたんだろう。まっとうなスペイン式リアリズム。ベラスケスやゴヤの伝統に則った筆致。構図もそれら巨匠に負けず劣らず洗練されてかつ力強さが。そして色遣い。あの黒と白の対比は、ほんっとにベラスケス風で大好きだ、どかは。目の水晶体の奥底で快楽の爆竹がバチバチ言ってる感じ、じぃんと痺れてくる、気持ちいい。
まあ、見られて良かったのかな、あの絵だけでも。あとはどかの忍耐の限界を超えていて小品やデッサンとかはほとんど見られなかった、おばちゃんやおじちゃんが、したり顔で、デカい声で、うんちくもどきの講釈をたれるのを耳元で聞きつつ身動きが取れないのは我慢ならない。すごい、人口密度だった。ブロイラーの養殖みたい。
でもなー、絶対、展覧会として見たらウィンスロップのが数段上や思うけどなあ。日本人って、ピカソの絵を見に行くんじゃなくて「ピカソ」っていう固有名詞に吸い寄せられてるだけちゃうんかなあ。はあ、もぉ、絶対、平日のできれば朝に、美術館は行ってやるっ、と心に誓ったどかだった。
一夜明けてきょう、東京は雪化粧。そらあ、雪も降るっちゅうねん!並んでたら寒かったもん、まじで、ほんまに、ごっつぅ。夜、耳がちぎれそうになりながらメイロウくんとチャリでガッコに向かう。キャンパスは普通に美しかった。
↑一日中降ってたね、雪。
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