un capodoglio d'avorio
2002年11月08日(金) |
Rd.16 SPAIN/Valencia |
最終戦は再びスペイン。 そしてレースよりも何よりも、どかの心に響いたのは、
原田哲也、引退
このニュースだ・・・・茫然自失失失。 ああ、そうなんやー・・・
93年、原田は全日本チャンプの肩書きを持ちGP250ccクラスに参戦し、 その年にワールドチャンピオンまで一気に上りつめる、デビューイヤーにだ。 それまでコンチネンタルサーカスでは日本人は揶揄させる対象だった。 曰くファクトリーやスポンサーの後ろ盾があるから実力も無いのにGPを走る。 そんな風に見ていた欧州プレスの度肝を抜く、才能の発露だった。 ちなみに次の年にはGP125ccで坂田和人がチャンピオンになり、 この世代は日本人ライダー第一次黄金期を創出したと言える。
GPライダー原田哲也のどかが考える特徴はこんな感じだった。 1:タイトで切れ味抜群のシュアーなライディング。 2:冷静沈着、頭脳明晰、レース中の駆け引きは天才的でドッグファイトにめっぽう強い。 3:マシンのセッティング能力がきわめて高い。 4:明確なライバルがその時々に存在し、関係は激烈だった。 5:完璧主義者、自分にも他人にも要求度がきわめて高い。 ・・・・こんなところかな。 彼はデビューイヤーをヤマハで戦うのだが、明らかにエンジンパワーの劣るTZ250Mで、 ホンダのモンスターNSR250を打ち負かしていく様は快感だった (原田はホンダファンで本当はNSRに乗りたかったのだ、 それをバカなホンダはさして才能のない岡田を優先してしまい、 あたら天才の芽を危うく摘んでしまうところだったのだ、 このサブストーリーが当時の原田ファンを熱狂させたのは言うまでもない)。 彼のマシンはコーナリングマシン、直線ではNSRのスリップについて、 そして勝負はいつもコーナー、このレースプランに沿ってマシンはセッティングされる。 マシンの力量を、知恵と技術と勇気で覆していく原田の姿に、 だんだんコンチネンタルサーカスは気づく・・・
また原田はライバルにも恵まれていた、それはいつもイタリア人。 ロリス・カピロッシ、そしてマックス・ビアッジとのバトルは、今でも語りぐさだ。 ロリスは93年の最終戦まで王者を競い合った相手であり、 その後原田のチャンプを卑劣な「故意の接触事故」で奪ったこともGP界では有名。 またマックスとのライバル関係も熾烈で、アプリリアのエースである彼に負けた後、
ビアッジに勝てないのではない、アプリリアに勝てないのだ。
と言う名セリフは当時のGPプレスを痺れさせた。 マシンのパワー任せで走るのではなく、 知恵と技術と勇気で走ってきた原田のセリフだからこそ、 負け犬の遠吠えではなく、リアリティを持ってGPフリークの心に響く言葉になったのだ。 ライバルライダーが常にイタリア人であったにもかかわらず、 そんな原田の求道的な姿勢はイタリア人にも熱烈に認められて、 カピロッシなんかよりもずっと人気があったのだ、彼地イタリアでさえ、原田は。 もちろんイタリアのみならず、ヨーロッパ全土で知名度はきわめて高く、 さらに日本人で初めて、他国のファクトリーのエースライダーにもなった。
原田哲也は、GPに携わる全てのヒトの考え方を整え直した。 エンジンパワー至上主義ではなく、もっと他に戦う余地があることを、 そしてそれは精神の領域に拠るのだということを、 全ての関係者、フリーク、プレスに知らしめたのだ。 どかは原田がチャンピオンを決めた93年最終戦を見ながら、 涙が止まらなかった。 それはこの希有な天才の精神があまりに美しくかっこ良く、 そしてあまりに凛としていたからだ。 あのレースを観た人生と観なかった人生は変わってくる、 そないに思わせるくらい、彼のパッシングは絶対的ななにかを漂わせてたんよ。
|