un capodoglio d'avorio
2002年10月21日(月) |
遊◎機械/全自動シアター 「THE CLUB OF ALICE」2 |
「あのときもし、こうしていれば」と自分を振り返る瞬間は誰にだってある。 ちなみにつかこうへいが「熱海殺人事件」というタイトルで、 いくつもバージョンを重ねて役者をかえて上演してきたのは、 この瞬間に発生したそれぞれの「後悔」をヒトがいかに乗り越えていくのか。 それを常に役者の身体で世間に示したかったからに過ぎない。
鴻上尚史は10年間封印公演の「ファントム・ペイン」において、 劇作家という職業の宿命とも言えるこのヘビーな主題に、 往年の戦友である役者たちとまっこうから挑んだ。 そこでヒトはその時々で歩みが近づいては離れていく、 離れていく間際、閉まろうとする電車のドア、 一歩踏み出してホームに降りて彼女のその腕を取っていたら・・・ 鴻上は既に「失われたもの」に触れる術がもう無い事を、 いま嘆き続けるのはしばし辞めようと優しく説いた。
あのときあの瞬間にホームに降りていたとしたらどうなったか・・・ もしそうしていたら、今ごろ「失われたもの」はどう過ごしているだろう・・・
触れる権利は無くしたかも知れないが想像する権利は無くしたわけじゃない。 想像力こそが、絶望の淵に瀕したヒトたちの穏やかな救いなのだと、鴻上は説いた。 さて、高泉と白井はどういう結論を出したのだろう。
鴻上と比べて高泉の戯曲では「痛み」がより身体的に迫ってくる。 孤独について常に思い悩み、それに対して繰り言を述べ続ける浅野温子(アタシ)は、 皮膚がひきつるような痛みを体現する。 そしてその「痛み」は、自分を責める後悔と周囲を呪う怨嗟とがぶつかる衝撃。 そして狂騒のワンダーランドの果てでアタシを待っているのは・・・ 「漠然とした希望」だ。
もしかしたら、またいい出会いがあるかも知れないし・・・ もしかしたら、またいいことが起こるかも知れない、し・・・
このアタシの台詞は周りに向けられているのではなく、アタシ自身への言葉。 後悔と怨嗟の無限のスパイラルを断ち切るシンプルで淡い希望。 この希望を心の底から肯定する事が出来れば、既にそこは絶望の淵じゃないよ・・・ この台詞に到達するまでにてっていしてアタシの中の「衝撃」を描き出したので、 この最後のアタシの台詞は印象的。 後悔してるからって他人におもねる「妥協」はヤだし、 後悔してるからって「孤独」がいいのって開き直る嘘もイヤ。 でも「希望」くらいはもっていてもいいでしょ、ね? という感じかな、遊◎機械。
第三舞台にしても遊◎機械にしても、多かれ少なかれニュアンスが後ろ向きに見える。 でも、実は決してそうじゃない。 鴻上は「想像しろ」とは言ったが過去の思い出に「沈潜しろ」とは言っていない。 あくまで、今という時と平行するパラレルワールドをイメージしてみよう。 そう言っているのだ。 高泉&白井にしたって「希望」を抱いて引きこもりなさいとは言っていない。 そのささやかな「希望」とともに、さあ、外に出て行きましょう(しんどいけど)。 と言っているのだ。
そう考えると前向きな戯曲で、でも実は戯曲自体が前向きなのではない。 「ファントム・ペイン」の最後の長野里美のモノローグの明るい響き、 もしくは「THE CLUB OF ALICE」の最後のアタシに向けられた登場人物の祝福、 「おめでとう」という口々に発せられる響き。 それらが紙一重で戯曲を絶望から救っている事がすごいことなのであって、 それが優れた芝居の優れている所以なのであって、 どかが劇場に足を運ぶのがなかなか辞められない原因だ。
↑雨の青山円形劇場・エントランス(暗いっすね)
|