un capodoglio d'avorio
2002年10月12日(土) |
日本総合悲劇協会「業音」2 |
松尾スズキにとって、芝居は明らかにイデオロギーである。 この作家にはとめども尽きせぬメッセージがあって、 そういう意味ではわりと「古い」タイプの劇作家であると思う。 「業音」というタイトルはもちろん「轟音」とかけられている。 そして昨今、もっともえげつない「轟音」とは何だろうと考える。 そんなの、だって、一つしかないでしょう・・・ 9.11に、ツインタワーが崩落した瞬間の、あの「音」だ。 あの「音」がどこから来て、どこに行くのか。 それをこのぬるーい劇作家が作家なりにとらえて再構成したのがこの戯曲だ。 そして実際、ほんのわずか数秒だが、荻野目慶子が劇中、 松尾から虐待を受けている間、映写されたのは9.11の例のシーンだった。
売れない芸能人「荻野目慶子」が車を運転中に携帯メールをしていて、 運転を誤って歩道に乗り上げ松尾の妻、志摩を轢いてしまう・・・ この冒頭のエピソードが、どこから来ているのか(何故起こったのか)、 そしてどこにたどり着くのか(何を示唆しているのか)を追っていく。 救いようのないエゴと貧困のせめぎ合いの中で(実に暗示的なのだが)、 「神が存在する必然性」という問いが実にくだらないエピソードの中で焦点となる。 売春、性病、恐喝、詐欺、性交・・・・ あらゆる下劣なエピソードが軽妙な笑いに包まれて放射されていく。 それは例えば「聖戦」だとか「戦争」であるとか、 大仰なイメージからは100万光年もかけ離れた陳腐なイメージ。
でもそんな「ぬるい」現実なんだよ、所詮これも。 どうせ「ぬるい」くせにそんな大げさな「言葉」でダマさんでくださいよ・・・
かつ・・・
「ジハード」だの何だの、ヒトの存在を超越したところでえらそぶってるけど、 所詮全部、人間があがきもがいて生きてるのが偉いんすよ、分かってんのん?
そんな感じ? そして松尾はこの一連のエピソード<エゴと貧困の必然>を、 食物連鎖のそれに例えて、その頂点に位置する人間も所詮排泄物を処理してもらうんだ、と。 その志摩の決めの台詞を踏まえた上で戯曲のクライマックス、 すべての「業」の落としどころ、集約されるところを、 主演女優の「お尻の穴」だと高らかに宣言するのな。 文字にするのも憚れるくらい、ハレンチで下劣なあのクライマックスは、 でも、逆説的に、高い理想をたたえた志のある素晴らしいシーンであるとも言えるのだ。
松尾スズキはそんな彼にとっての精一杯のメッセージを掲げるに当たり、 いつものレベルでバカをやっていたのでは「恥ずかしい」と思ったのだろう。 だから精一杯、自虐的に、バカを徹底して「手段」として行ったのだ。 だから冷静に判断すると、大人計画スタイルが微妙に崩れているし、 いつもの冴え冴えとした笑いのセンスも切れが薄れているところがある。 「過激な下品」の合間に見えたそんな劇作家の「隙」、それは焦燥と倦怠だと思うのだが、 そこがどかはこの舞台への唯一のとっかかりで救いに見えた。
芝居は「イデオロギー」だ、誰が何と言おうと。
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