un capodoglio d'avorio
芥川賞受賞作、読み終える。 確実に強度の増した文体と、破滅的に広がっていく妄想という名のイメージ。 この人はどこまでいくのだろう?
要するに一人の男の友人が絵描きで「何たら」という賞を受賞、 その男はそれが妬ましくて自分もやってやろうと奮起するのだが、 まず画材を買うお金が無く、当のライバルに無心に行く、が。 というのがプロットらしきもので、 でも実際の小説はもっと煩雑なイメージがひしめいている。 ちらっと呼んだことのある、ジェームス・ジョイスの作品みたい、と思ったり。
あの残像を青空に。 描こう。
ストーリーが必要なんだけれども、すべては青空が基調だ、 この青空を俺は感じていたい(共に「きれぎれ」町田康)。
自らはベクトルの向上を望むのだけれど、それが一向に叶わない。 というかむしろ、周りから見ると自分の没落を意図しているようにしか、 まるで見えないっぷりのスピードで堕落。 堕落していく自らを含めた俗世から見上げた青空(=精神世界?)は、 一瞬美しく、すべてを包み込んでベクトルを変えてくれるかと思いきや、 主人公はこの後、猛烈にしっぺ返しを食らってまた、落ちる。 その後精神世界での救いを懇願しイメージの世界をさまよい歩くも、 紆余曲折あって俗世への志向を結局は諦めて呑まざるを得なくなる、が・・・
川。 その川の畔に大観覧車。 土手の上の道路を走る自動車の前ガラスに反射する光が、 クラクションの音が、 排気ガスの香りがここまで、 こんな嘘の神社にまで届いている。 あすこには水がある。 言葉がある(「きれぎれ」町田康)。
怒濤のような煩雑かつ熾烈な言葉を連ねたイメージ世界の果てに、 この転向を用意するすばらしい戦略。 主人公と同一化したこの作家の特異な文体の効果は、 読者を否応なく真っ暗闇のジェットコースターに巻き込んでいくこと。 巻き込まれた読者はもう自らの意志や感覚や感想とは無関係に、 横溢する町田の言葉の雨を飲み干さなければならない。 それはとても辛いこと、というか、途中で読み終えずにやめるヒト、 結構いると思う、このヒトの作品は。 でも。 作家への信頼があればそのジェットコースターは決して途中で レールが切れていないことが分かる。 安全バーにしがみつきつつ、目は閉じないで暗闇の向こう、 黒く光るその一点を見据えられる。 実際、このすべての希望と思われた「大観覧車」は、 近づいてみるとチンケな子供だましの代物なのだが、 それでもその観覧車の下で、男は現実世界にかろうじて踏みとどまる。 イメージは暴走し、妄想は破裂し、下降没落破滅へのベクトルは止まらないが、 それを極めつつ、極まりつつ、でも外見はつくろいつつ。
最初からネガティブなスタート地点に立っていて、 後ろ向きへ猛ダッシュをかました作家のクライマックスは、 そこに「立ち止まる」だけで果てしない上昇気流を生むほどのマジックを含んでる。
江國や仁成のそれとは100万光年も離れた読書体験だ、これは。 疲れるけれど、も。
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