un capodoglio d'avorio
ヒトがヒトを拒否するとき、もしくは拒絶するとき、 「する」ヒトと「された」ヒト。 どちらがより辛いかと言えば、それはもちろん「された」ヒトだ。
でも時々、独りよがりのバカがいて、 「いやあ、やっぱこっちのが辛いんだよなー」とか、 「相手の気持ちを思うとやりきれないっすよ」とか、 アホなことを言ったりする、アホか。 こんなアホは嫌い。
断じて、断頭台にかけられても、誓って言うが、 「された」ヒトより「する」ヒトが辛いことなんて有り得ない。
何故か。
それはヒトの想像力は無限ではないからだ。 想像力はその人の努力と才能と訓練次第で、 確かにどんどん広がりはする。 しかし、それは無限ではない。
これが理由だ。
「される」ヒトにはだから、第三者がガンバレって言うことも憚れる。 でも憚りながらであれば「ガンバレ」 って言っても許されるかもしれない。
この「かもしれない」だけが救い。
「ガンバレ・・・」
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