un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2002年08月17日(土) マグリット展@Bunkamura

疲れが結構極限までたまっていたらしい、
昼過ぎまで体動かず。
なんとか布団から抜け出して、顔洗ってシャツを羽織って、
渋谷を目指して井の頭線に乗った。
Bunkamuraザ・ミュージアムに着く、なんと入場券に並んでる。
はああ、並ぶのキラーイ。
でも7分くらいで入れる、なんだ、大したこと無い。
一昨年のフェルメール展in大阪で、ドカは三時間半並んださ
(思い出したくもないけど)。

さて、マグリット。
ドカは実はあんまし好みではない、マグリット。
でも日本人にはすごい人気がある気がする、ヨーロッパの人たちと比べても。
マグリットの嫌いなところは、かなりドカの中で明確でつまり、
「ギャラリーにクイズをしかけてくるその横柄な態度が嫌い」だ、はっきり言えば。
別にシュールレアリスムが嫌いなわけではなくむしろ好きで、
ダリもミロもエルンストもクレーも、
マグリットと同じベルギーの巨匠デルヴォーなんかごっつい好き。
逆に言うと、マグリットだけが引っかかるのだ。

でも人気が出るのもよく分かる、だって誰にも分かりやすいものな「分かりにくさ」が。
絵に全然興味の無いヒトだって、マグリットの絵の前に立てば、
何が書いてあるかは分かる、直接的な意味で。
さらに、そこには何か隠された画家の意図があることも簡単に分かる。
というか、その意図を観る者に押しつけてくることこそが彼の芸術だものな。
好きな人はそれを押しつけられても平気で、
絵の前でボォっとクイズを解くことが楽しいのだろうが、
そもそも絵画ってそういうものなん?
そんなんただの記号、もしくは符牒でしかないやんか。
もちろん優秀なルネサンスやマニエリスムの作品にはそのような符牒がちりばめられている。
が、それは二次的な付随的な要素であって、それを取り払っても作品として成り立つからこそ、
400年の月日を超えて今日にまで生き残っているんやと思う。
でもマグリットは違う。
謎解きを「手段」ではなくもう「目的」としてとらえている。
画家自身は「見る人がいろいろな思念を巡らせてくれれば良い、正解は無い」
なんて言ってるけど、嘘だと思う、やっぱり。
それほどにカンバスの上に彼が敷いたレールは深遠だけど明確だから・・・

デルヴォーとマグリットの違い。
たとえば「死」という概念。
それをマグリットは「棺桶」で描く。
デルヴォーはそれを「骸骨」で描く。
たとえ稚拙でも、後者が好き。
前者はドカにはあざとく感じられて仕方がない。

展覧会自体はすごい良いと思う。
マグリットの二流作しかないのかなと思ってたら、結構良いのが来ていた。
昔ベルギーの王立美術館で観た懐かしいのもあった。
二つだけ、そんな「マグ嫌い」なドカでもジンっとくるのがあった。
やっぱり「空と雲」を使うのは反則だよな、この人の専売特許ではあるのだけれど。
ごめん、訂正しよう、
「マグリットも、時々、すごく、良い」。


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