un capodoglio d'avorio
2002年08月09日(金) |
野島伸司「この世の果て」4 |
最終話、観終える、しばし、呆ける。 4年前の自分は、何も、分かっていなかった。 いや「何も」というのは違うな、少なくともこのドラマには、 何か特別なものがあると気付けたことだけは、評価できる。 4年前のどかの観終えた瞬間の感想はこうだった、すなわち、
「恋愛は何でもありなんだ、理由なんて、求められない」。
これを総て観てこの結論しか得られなかったかつての自分が、 耐えられないくらい幼いと思う。 いまのどかなら一言で感想を求められたなら、こう言うだろう、
「唯一の例外を除いて愛は愛のみで存在し得ない」。
・・・
相手に何かを求める愛は、それ自体「自己愛」を含んでいる。 「優しさ」が至上の価値とされたバブル前夜、 「プラトニックラブ」が標語となった世紀末、 野島は巷にあまりにもやすく溢れる「愛」を一掃するため、このドラマを世に問うた。 つまり「愛」は生やさしいものではなく「君たち」が「愛」と語る物は全て、 ほかの付属物に補われてようやく体裁を保てる不完全な精神なのだ、と。 その付属品がつまり「馬」であり「孔雀」であり「虎」であり「羊」だったのだ (ここで言う「羊」とは、自分が愛されたいという欲求を含んでいる)・・・ そんな巷にあふれる「愛」と呼ばれる物を否定しきった後に、 野島は自らの「愛」を定義し得たかというと、それは適わなかったというしかない。 そのベクトルを追求し続けることをその旨とされた登場人物達は、 みな、つぎつぎと壊れていってしまうのが、このドラマのプロットだ。 砂田なな(桜井幸子)を一途に思う三浦純(大浦龍宇一)は投獄され、 ルミ(横山めぐみ)を一途に慕っていた仁(松田勝)は自ら両目をえぐらざるを得ない。 そして、まりあも・・・ 盲目のななを救う代償として法外な金額をまりあに要求した眼科医吉田も、 その人生に闇を抱えて生きてきたことが最終話に明かされる。 彼は植物人間と化した妻と20年暮らしてきたというエピソードだ。
これが私に与えられた運命なんだ。人間は愛だけで生きるんじゃない。 運命を受け入れて生きるとき、より穏やかな幸せを掴めるかもしれません。 もうこれで何かにもがき苦しむことも無い(最終話「未来を君に捧げる」)・・・
このサブキャラクターの一言の重みに、4年前の自分は気づくことができなかった。 その後の自分の経験と、価値観の推移によって初めて、今だからやっと、 「この世の果て」と言われる場所がどういう場所なのか分かった。 それはやはり、唯一の安息地である箱船から、 漆黒の海原に身を投げるとき初めて出現する場所。 「愛」という精神が無力化するその向こうに、 「運命」という黒く鈍く光る物質に身を委ねる場所。
「無償の愛」、まりあは文字通り聖母をそのイメージに背負い、 第十一話で覚醒剤中毒となった士郎くんの身体をベッドに縛り付け(磔のイエスのように)、 体を張って禁断症状の著しい彼を更生させようとする。 バックに流れる賛美歌、その美しい響きとは対極にある、むごい映像、叫び声、断末魔。 運命、この世の果て・・・
この世界では、もう僕は自意識に苦しむ事も、 失った何かを取り戻そうと苛立つ事も・・・ まりあ、僕は君を失うことで君を取り戻したんだ(最終話「未来を君に捧げる」)。
なるほど、あー、そうかー。 やっと、分かったよ、そうかあ。 「愛が愛のみで存在し得るのは、それが消えていくこの世の果てでのみ、だけ」。
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