un capodoglio d'avorio
2002年07月14日(日) |
村上春樹 「神の子どもたちはみな踊る」 |
三日前、下りの総武線、阿佐ヶ谷あたりで読了。 久しぶりの村上春樹、読み始める前になんだか緊張した。 「いまの自分で村上春樹を味わうことができるのか?」 大げさな身構えかも知れないけれど、 仁成や江國を読み始める時とは明らかにテンションが違う。
どかは基本的に短編小説は好きではない。 いちいち、その都度、その小説の世界に心を溶かしていく作業が面倒くさいからだ。 長編小説は最初の導入部分で骨が折れるけれど、その後は小説世界の中でたゆたうことができる。 短編小説はそれに比べると、いささかせわしい。 それでも村上春樹ならば、短編でもどかは、読む、うん、読む。 絶対に外れがないという全幅の信頼によるのだろう、それに短編嫌いのどかにも分かるくらい、 彼は短編小説の名手だ。
阪神大震災の衝撃により、ヒトの内面、奥底に隠れていた「闇」が露呈してくる・・・ そんな六編を集めたのがこの本。 けれどもそれぞれの登場人物は自分の内に潜む「絶望」とそれぞれなりに格闘を始める。 そんな共通点が、バラバラのストーリーには隠されている。
あまりにも有名な「春樹節」の文体は、これまでにない完成度を示し、 そのさりげないけれど実は強度の高い文体に織り込まれたのは、 「ハッピーエンド」への飽くなき執念。 面白いなあ。 本当に格好いい。 「阪神大震災」は確かに大きな衝撃だった。 あの瞬間、どかは二度目のセンター試験を終えて二次試験はどこに願書を出そうかな。 と思いながらうつらうつら夢を見ていた。 突き上げるような衝撃は永遠に続くかのように終わらない。 怖いのはその衝撃自体ではなく「終わらず続くのか?」という<永遠>が怖かった。
そんな突拍子もない絶望がこの世にあるとしても、 もっともっと深い絶望が人間のなかにはハナからあるのだ。 その「開き直り」のスタンスを手に入れてようやく作家はあの未曾有の悲劇と対決することができた。 そしてその対決に、紙一重で、本当にきわどいところで勝利した。 KO勝ちでもない、リングアウトでもない、フルラウンドどつきまわしてまわされて、 挙げ句の判定で村上春樹は辛くも勝利した。
まずはこの話に出口をみつけなければならない(「蜂蜜パイ」より)。
最後の一編のクライマックス、主人公は自分のなかの「袋小路」が現実化してしまったことに対して、 明確な決意を固める。 何が何でも最後をハッピーエンドにするのがスターの華だ、と語ったつかこうへいのように。 その決意は次の文言で締めくくられるのだ。
たとえ空が落ちてきても、大地が音を立てて裂けても(「蜂蜜パイ」より)。
|