un capodoglio d'avorio
2002年07月11日(木) |
台風一過のカフェでつらつら |
もすこし「視点」の話。
地平線があって、消失点があって、その一点にむかって物質を並べると不思議な効果があることを、 550年ほど前にイタリア人は考え出した。 それが「遠近法」と呼ばれる技法。 遠近法はあくまでも人間が恣意的に生み出したテクニック、 二次元の平面に擬似的に三次元を表出させる魔法である。 中世のスコラ的バインドから解かれた人間が、自意識を拡大させて世界の解釈に乗り出した。 という説はどかは片手落ちだと思う。
ならばなぜ、宗教改革が始まった150年後、彼らのご自慢な「遠近法」は歪みだしたのか。 「遠近法」に必要不可欠な要素の一つは地平線。 人が拠って立つ地面がしっかりしていないところではその自意識の拡張は不安定になる。 美術の中の遠近法も然りで、スコラ的バインドを嫌ったと言っても、 教会の存在に裏打ちされていた当時の市民は、 知らず知らずその空気をカンバスに反映させてしまったのだ (断っておくがどかはマニエリスムやバロックアートを嫌いではない、むしろ好き)。 その先の美術史はこの筋で言えばある意味分かりやすい。 ついに地平線をスポットライトの向こうに消してしまったジョルジュ・ド・ラトゥールやレンブラント。 地平線を淡くぼかして消してしまった印象派達。 そもそもの視界を徹底的に分解してしまったキュビズムとピカソ。 うん、分かりやすい。
さてじゃあ「俯瞰」が持つ構造的視点は何を意味するのだろう。 それは一見、自らの自意識の拡大により世界のあり方をはかろうとする、 究極の「遠近法」のように思える。 が、視点が高くなるにつれて地平線はどんどん遠くに消えていく。 そもそも、つまるところその視界を得るためには人は地面に足をつけていられない (皮肉だと思う、ラピュタを作った人がどんどん高いところに登ったのだ)。
翻って魚眼的視点は、地面(水中)に潜ってそこから上をみた視点。 もちろん地平線は見えないが、そもそもそこは地面よりも下なのだ。
「視点」は宗教だ。 それは世界の解釈。 どかはマクロな視点よりミクロな視点が好き。 細部に神はやどる。 たとえばケルティックスパイラルの末端の渦、その微細なカーブにもいるし、 駒場アゴラ劇場で観る青年団の役者達、そのあまりにナイーブな演技でつくため息の余韻にいる。 $500,000の海外送金申込書や¥50,000,000の小切手にはいないと思うんだ。
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