un capodoglio d'avorio
一昨日の日記の続き。
「俯瞰」というのはつまりこういうことだと思う。 腐海がこの世に生まれてきた理由を、人類を絶滅に追いやる張本人としての性格から解放し、 地球全体の壮大な歴史の中で語る構造性のこと。 もしくはタタラ場という古代製鉄工房をセル画のなかに落とし込み、 自然と人間を隔てる臨界線に現代の人類を取り巻く「出口なし」を投影する構造性のこと。
「魚眼」というのはつまりこうだ。 花田花男が読売巨人軍に入団し、9回裏ツーダンフルベースで代打としてコールされるが、 周囲の罵詈雑言に圧倒されて立ちつくすも、息子茂雄の姿に自己を取り戻し空を見上げた時の空。 もしくはピンポン(もーすぐ映画ロードショウ!)のペコが、膝のけがを押してインハイ予選に出場、 仇敵ドラゴンからセットを獲った時のピンポン仮面の決めポーズ。
別に説教クサいとか教訓的だとか言うのではなく、問題はどこに視点を置くのかだ。
シロが言った最後のセリフ。
もちもーち、こちら地球星日本国シロ隊員。 おーとーどーじょー。 今日もこの星の平和はキチンと守りました。 どーじょー。 この星はとても平和です。 どーじょー。 おーとーどーじょー (松本大洋「鉄コン筋クリート・三巻」)。
これは決して脳天気な夢見がちな現実逃避路線の言葉ではない。 「俯瞰」で最大公約数的な把握をすることも大切だけれど、 でも魚の目から見た世界には確かに直線はなく、その視界の中にすべての不幸と幸福が詰まっている。
シロ隊員は自らの中に「平和」を作ることができたのだ。
ソコカラ ナニガ ミエル?
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