un capodoglio d'avorio
高校生の頃、必死に理論武装したかったあの頃のどかには三つの柱があった。
哲学者ジャン・ポール・サルトルの「実存主義」。 詩人石原吉郎の「ラーゲリ的言辞」。 政治学者丸山真男の「政治的思想と行動」。
石原はかなり異質だがあとの二人は結構通底するものがあると、今でも思う。
きょう会社の「上の人」と軽い議論になった。 仕事の進め方がテーマなのだけれど、 一瞬にしてどかの今の会社に対する姿勢が、図らずも浮き彫りになってしまい、 互いが互いの動揺を隠すために議論のテンションを半オクターブ上げる必要があった。 もはやどかは今いる会社に「目的」は見いださない。 かろうじてあるとすればそれは「手段」。 自分のなりたい自分になるために必要な時間、場所、空間。 けれどもそこで自分の自己表現の場を見いだすことはきわめて難しい、うん、難しいな。 それは人並みにふつうに仕事はしてるし、一応<国際>にもたどり着いた。 でもこの時間はあくまで手段なのだと、 言い聞かせることが唯一自分の「人間の質(byつかこうへい)」を維持する道な気がする。 でも一方では今日言い合いになった「上の人」を尊敬もするな。 ちゃんとどかの目を見て話をしてきたし、だからつい私も本音が、ねえ。 私の本音、それはつまりこういうこと、二者択一。
A: 自分が信号無視をしても決して事故にならないような交通法規の整備 B: ほかの人が信号無視をしても自分は決して信号無視はしないという決意
たとえばの話だけれど。 でもきっとそういうことなんだと思う。 「上から見る俯瞰的視点」よりも「下から見上げる魚眼的視点」が好き。 鉄コン筋クリートの「宝町」を、なぜ松本大洋がパラダイスにし得たのか。 俯瞰的視点を選べば宮崎駿の「高み」に行けたのになぜ彼は魚眼的視点に固執したのか。
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「手段」と「目的」。 「俯瞰」と「魚眼」。
「金獅子賞」をもらうよりも「虹組」に入隊したいんよ。
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