un capodoglio d'avorio
2002年06月24日(月) |
つか「熱海殺人事件 モンテカルロイリュージョン」2 |
山口アイ子は砲丸投げの選手であり、自分のコーチである立花を竜飛岬の浜辺で殺した。 その山口アイ子を熱海姫浜の波打ち際で殺した大山金太郎は、 その立花殺しも自分で被ろうとする。 しかしふんぞり返った伝兵衛の前で水野朋子と速水健作は、その大山を追いつめていく。
水野 いいですか、山口アイ子さんが浜辺に流れ着いたヤシの実でも拾って、投げて殺したとしたら、 アルゼンチンの巨人ブリスベン・F・ワイズの23メートル50の世界記録を抜いてるんです。 大山 それがどうしたんだ。 速水 金メダルが取れる距離だよ。 水野 そうです、もしアイ子さんがモスクワに出てたら金メダルが取れた距離なんです。 自白したらどうです、アイ子は殺しましたが世界記録を出したんですって言ったら、 供養にもなるじゃないですか。
この水野のセリフは実は後半の浜辺のシーンで彼女扮する山口アイ子の口から再度語られる。
大山 アイちゃん! 山口 でもでもでも、その位置からウチのいた場所までは25メートルはあったばい。 金ちゃん!そん距離がどういう距離かわかるね。 うちらの夢、アルゼンチンの巨人、ブリスベン・F・ワイズの記録に勝った距離ばい! うちがアトランタに行けたら金メダル取れる距離ばい!
この劇中、もっともテンションが上がるシーンの一つだ。 ふつうの演出家なら決めセリフを小出しにしたりせず、最後までとっておくものだ。 だが、つかは違う。 中盤、劇の展開部であらかじめ一度聞かせておき、観客の心の片隅にその言葉を置きに来る。 それがつか演出。 そしてこの繰り返しは、ある条件が整った時には、絶大なインパクトをもって観る者に迫る。 それは役者のテンションが繰り返しの弛緩を補ってあまりあるほど高かった時だ。 怒鳴ると言う意味ではない。 静かに語っても、ゆっくり話しても、自らの狂気を渦巻かせて行けばそこにはリアルな場ができる。 つかはその場を作る自信があるからこそ、このさりげない、けれども危険な賭に出られるのだ。 「熱海」の代名詞である「浜辺のシーン」だが、内田有紀はここでは踏ん張っていた。 「銀ちゃんが逝く」の小夏よりも「飛龍伝2001」の神林よりも、山口アイ子はよかった。 そしてそれは阿部寛の木村伝兵衛が最後を必ずハッピーエンドに導いてくれる「華」があるから、 と無防備に役に没頭できたからではないかと思うのだ(これまでは「華」はほとんど彼女一枚だった)。
そうしてラストのシーン、十三階段を上り首に縄をかけた伝兵衛が、 幻のロスオリンピックに出場し、6メートル88の「鳥になる」記録へ挑戦する。 4年前、ほんっとに立ち姿と身体が美しかった阿部ちゃんも今、 少しずつ老いを包含し、体のシルエットも4年前とは変わった。 上半身裸で舞台のセンターに一人立つこのシーン、このシルエットの差は致命的・・・ かと、最初思ったのだが、それは杞憂。 なぜなら観客の目はもはやその体には行かないからだ。 すべては彼の目! あの何が何でも「鳥になってやる」という伝兵衛の狂気と、 そして何が何でも「ハッピーエンドにする」という阿部寛の狂気故に。
伝兵衛は結局、首をつられるし水野朋子という一人の女性の愛に報いることもできない。 けれどもこれは紛れもないハッピーエンド。 生命を全うする幸せからも、自分に思いを寄せる相手に応える幸せからも、 そして自分が思いを寄せる相手に応えてもらう幸せからも見放されたところでなお、 彼は自らの狂気のみを恃みに「鳥に」なれたのだから。
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