un capodoglio d'avorio
2002年05月20日(月) |
池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」 |
前世紀初頭、ドイツの美術史家であるフランツ・ローが、 20年代のポスト表現主義の新傾向を差すために創出した単語。 そしてその後40年代後半、ベネズエラの小説家アルトゥロ・ウスラル=ピエトリによって、 折から台頭したラテンアメリカの小説のやはり新傾向を差すために使われた単語。 それが「魔術的リアリズム」である。 足して二で割る式の定義で言えば「日常的な現実性」と「非日常的な幻想性」の融解。 さらに直裁的に言えば「具体的な日々の描写の積み重ねが幻想的な全体の世界を描き出す」とか。 2000年のどかが読んだ本の"best of the year"となった、 G.Garcia Marquez "CIEN ANOS DE SOREDAD"(ガルシア=マルケス「百年の孤独」) は、この「魔術的リアリズム」に則った代名詞的な名作である(すっごい面白い!長いけど)。 さて、前置きが長かったが「マシアス〜」は池澤流の「魔術的リアリズム」である。 つまり政治・経済・官僚・娼館・神話・伝承・呪術・亡霊がごった煮な風合いの「ながああい」小説なのだ。
「スティルライフ」において池澤は染色学・天文学についての知を文学に活用した。 「真昼のプリニウス」においてそれは、火山学であった。 かつて物理学を大学で選考した作家はこの作品においては、植民地支配〜世界大戦〜冷戦における、 島嶼国家の成立史を下敷きに豊かな、あまりに豊かな物語を立ち上げる。 そしてなによりどかが唸ったのは、どれだけ話が大きくなっても筆致の極め細やかさが一向、 落ちることがなかったことだ。 それこそが小説を魔術の色彩に染めあげる決め手である。
世界を分析するのでは無く、綜合すること。
知識による神話を拒否し、身体による実感を選択すること。
自らの足を洗う時の流れの飛沫と、生命の海へ返上する自分のちいさなエゴと。
池澤のテーマは、どれだけ物語の器が大きくなっても、基本的には変わりはしない。 自分の世界が周りの世界に包まれ庇護されているという思い込み、 決して庇護はされていないと気付き、精いっぱい世界に対し自分の輪郭を刻もうとする行為。 そうしてそれに失敗し、世界は自分とは無関係に並立してたっていることに気付いて行く。 ナビダード民主共和国第二代/第四代大統領のマシアス・ギリもそうだった。 現世の卑俗な政治・経済の領域において優位な地位を気付いた彼は、 しかし島古来の神話・呪術の領域より制裁を受け、失脚に追い込まれる。 失意のマシアスは自室でロウソクを灯し亡霊を招いて対話を持つ。 亡霊は友に対して静かに語りかける。 そのセリフは一見、突き放したような冷たさがあるが、でも、実はほのかに優しく、 もし友人と仲たがいをしたり、会社で上司と衝突したり、 不幸にも恋人と海を隔てて別れなければならないとき、 きっと他のことばよりも「フェアー」に響くのだろう、そのセリフ。 池澤夏樹は「フェアー」な作家だ、ようやく、彼の本質が見えて来た気がした。
この世界では、個人はきみが思っているほど個人ではないよ。 生きた者、死んだ者、たくさんの人間の考えや欲望や思いが重なりあって、 時には一つの意志のようにふるまうこともある(池沢夏樹「マシアス・ギリの失脚」)。
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