un capodoglio d'avorio
2002年04月15日(月) |
江國香織「神様のボート」 |
やられた・・・
江國香織は退屈だ、僅かなさざ波。 江國香織はキザだ、鼻につく体言止め。 この作品も、読みはじめてからすっごい時間がかかって、 それはどかどかが劇的に忙しかったのもあるだろうけれど、 それだけじゃなくて彼女の文体への拒否反応と物語への軽い失望があったのだろう。 と、日記で報告して終わりにするつもりだったのに。
きょうの会社帰りの中央線の中で最後の数ページを読んでいて、涙ぐんでしまった。 ああああ、やられた。 すっごい、悔しい。 半泣きだったもんな、ラッシュにもまれながら。 でもでもさ。 鼻につくんだよ、この人は、大体さあ。
ペダルをこぎながら、ロッド・ステュアートをハミングした(「6.夏休み」より)。
なんで「ステュアート」やねん! と突っ込みを入れたくなるやんか「そこはスチュワートでええんちゃうんかい!」ってさあ。 百歩譲って「スチュアート」だ。 なあんて、そんな些細なところにこだわってしまうのはきっと、どかどかが江國を嫌いだからでは無く、 やはり紙一重ではずされてしまうことへの歯痒さの裏返しなのだろう。 でもそういえば、ラストの「衝撃」を予感させる予兆はあった。
一度出会ったら、人は人を失わない(「9.秋の風」より)。
とか、
あのひとがかつてたしかにこの世に存在し、私を愛してくれたということを、 示す証拠は何一つない(「15.2004・東京」より)。
とか、どかにとって「スンっ」と思えるほのかな感情の流れがあったことは認める。 重ねて繰り返すが、ほとんどは退屈な、半ば失敗作とも言える小説だと思う。 失敗とどかが言う最大の根拠はナラティブが二人居るわけだが娘・草子の語りに現実感が希薄である点だ。 あんなにませた江國節を使う小学生女子がどこにいるんだ。 でも悪い意味で曖昧な印象を引きずる作品の後書きで、作家自身は語っている。 「これは狂気の物語です」であり、「いちばん危険な小説」だと。 そこは確かに認めざるを得ないな。 恋愛の破滅的な側面を抑えたタッチで描くと必然的に、 狂気をたたえた世界観になっていくもんな。 その世界観こそ、どかが江國を切ることの出来ない理由であり、一番好きな点なんだろうな。 「破滅的な狂気」こそ。
やられた直接の箇所は、最後の草子から葉子への手紙と、ラストシーンだった。 読み返すと危ないから読み返さないもーん。
そして、この小説の構造は村上春樹の「スプートニクの恋人」に酷似している。 「スプートニク」はラスト、泣いちゃったもんな。 この二つの作品にやられてしまう自分は、きっとかなり本質的に病んでいるんだと思う。 いいんだけど、全然。
江國はもう一度、また何かを読んでみよう。 とりあえず次は江國から離れる。 この作品は、読んで良かった。 あやうく途中でやめてしまうところだったけれど、 最後まで読んで良かった。 既読江國作品の中では一番良かった。
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