un capodoglio d'avorio
2002年04月14日(日) |
プラド美術館展@国立西洋美術館 |
ごっつい、いい天気。 だったので、ついつい、凄い人出であるのは分かっていても上野公園に足を向けてしまった。 そう、行ってきました "OBRAS MAESTRAS DEL MUSEO DEL PRADO" !! 実際かなりの人出で最初は受け流せたものの、だんだんストレスになってくる。
さて内容だが、この前に来たオルセー美術館展なんかスカプウのプウくらい、どかどかはいいと思った。 エルグレコ、リベラ、スルバラン、ムリーリョ、そしてべラスケスにゴヤ! もともとどかどかは、スペイン絵画が大好きで、特にスルバランやゴヤは本当に凄いと思う。 そして、ディエゴ・べラスケス。 べラスケスの絵を、素直に楽しめる目を持つことができて良かったなあと思うくらい、 そのくらいべラスケスは好き。 その割にまだプラドは行ったことが無いのが情けない。 ピレネーを超えるだけの元気があのとき無かったんだよなあ、ちぇ。
電車の中でも見られる「セバスティアン・デ・モーラ」も間違いなく西洋美術史上屈指の肖像画だが、 どかどかはべラスケスのもう一枚「彫刻家ファン・マルティネス・・・」の前でぼうっと時間を過ごした。
立っている彫刻家がこちらを向いているだけの絵なのだけれど、とても気持ちがいい。 べラスケスの魅力の一つは「黒と白」なんだと思う。 その鮮やかな対比は目の奥にじんじんと響いてきて視覚をダイレクトに撫でてくる。 また一方で彼は、描く対象の人物に鋭く肉薄していく才能もあった。 深い精神性をたたえた彫刻家の表情の描写は胸に静かな共感を生まずにおらない。 この視覚的快楽と人間的共感の間を行ったり来たりたゆたえることの、なんと幸せなことだろう。 昔はべラスケスの絵って何がいいのか分からなかった。 今となっては特に目新しい部分の無い、普通の平凡な絵だと思い込んでいた。 いつの頃からだろう、今では自分の中ではレオナルド/フェルメールと同列に鎮座する至高の存在だ。 この変化ってロンドンでウォレスコレクションを観たときだったっけ?
今回のスルバランは「聖エウファミア」が好き。 感情表現を極めて抑えた表現は17世紀のものなのに、なぜいま、こんなに新しいのだろう?
ムリーリョは月並みだけれど「無原罪の御宿り」。 画集で幾度と見たムリーリョの代表作だがあんなに大きいとは思わなかった、良い。
さて今回の展覧会のメインディッシュだったゴヤ。 なんだかディスプレイが彼の人生をいかにもトレースしてます的で、ヤだなあと思ったり。 つまり夢も希望も持って画業のスターとを切った彼が主席宮廷画家まで登りつめ、 そして虚栄の現実や悲惨な戦争を知り聴覚も失い絶望していくという「分かりやすい」物語。 でも、確かに、そうなんだろうな。 「日傘」に見られる一点の曇りも無い溌剌とした色彩構図、高揚感はあくまでピュアで壮快だ。 そして晩年の「ミルク売り娘」は陰鬱な色使い、かつての大胆軽快な筆致も鳴りを潜めている。 でも。 その娘の頭上から微かなひとすじの光が、本当にわずかに降り注いでる。 この「救い」にゴヤが自覚的だったとは思わない。 きっと彼は無自覚に朦朧と筆をとったのだろう、でもだからこそ、 この絵はプラドの一角を占めるだけの傑作になったのだろう。 「巨人」なんかよりもずぅっと説得力に満ちていて、いい、うん、いいな。
いい展覧会だと思う。 これ以外にもヨルダーンスやティントレットの佳作もあったし。 ストレスフルじゃない平日午前中に行きたいな。 でも無理なの、国際業務部勤務じゃ。 あー・・・・ ちぇぇ。
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