un capodoglio d'avorio
2002年03月23日(土) |
いのうえひでのり「天保十二年のシェイクスピア」2 |
<続き>
大きなぐるぐるうねる物語の中で、それは運命という言葉で言い換えられるかも知れないけれど、 人は自分の人生しか生きてゆかれないし、いろいろ見えてる気になってはいるけれど、 実は本当に自分の周囲しか見えていないから、ベストの選択というのは最初から不可能な仕組み。 でもそれぞれが自分の居場所で権謀術数をこらしてみたり、恋人に精一杯プロポーズしたり、 妻を愛人に頼んで殺してみたり、金に目がくらみ樽の中で溺れ死んだり、 それが結果として物語を前に押し出す燃料だし、物語も彼等のいちいちに華の瞬間を準備していく。
ラストには、本当にみ〜んな死んでしまうのだけれど、不思議と暗い気持ちにならず、 生き生きとした彼等の表情が目に残っている。
そこに選択の余地がありそうで全くない、絶望のレールの上をひた走っていたとしても、 そのジェットコースターに身体をはって乗っていることが、 きっといいことなんだ。
あ、もう一人の主演・沢口靖子の印象がほとんどないのは身体を張ってないからかな。
観にいって・・・うん、まあ、良かったかな。 井上ひさしの「こまつ座」に行きたいと思った。 それがとりあえず、どかの中で次につながりそうな点だ。
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