un capodoglio d'avorio
2002年03月21日(木) |
チャルトリスキ・コレクション展@横浜美術館 |
この絵のことは学生時代から知っていたが、生涯、見られないだろうなと思っていた。 クラクフというワルシャワから電車で3時間もかかるポーランドの田舎町にはたどり着けない。 そう覚悟していたのだ。 逆に言うとそこまで明確に意識せざるを得ないほど存在感のある作品だった。
"Lady with an Ermine" by Leonardo da Vinci レオナルド・ダ・ウ゛ィンチ「白貂を抱く貴婦人」
ディエゴ・べラスケス/ヨハネス・フェルメール/エドワード・マネ/エゴン・シーレ、 そういった最もどかが好きな画家たちの中にあって、それでもレオナルドはなお、 絶対であり、至高であり、永遠であり、融解であり、凍結。
例えばウィーンのウ゛ェルベデール宮にあるシーレの名品「死と乙女」の前では、 どかはヒリヒリするような自意識の引きつりを、目よりももっと奥の場所で感じる。 それは痛み。 自分の輪郭を浮き立たせ、自分の周囲をフィルムのネガのように反転させ、 そうして気持ちが収束していき自らのまん中で小さなコアとなっていくのが分かる時間の経過。 それが私の「シーレ体験」。
レオナルドはそれとは全く違う体験である。 絵を見ていたはずの自分が、そこでは消滅していく。 温かい感動(それは例えばべラスケスの歴史画の前に立ったとき)もなく、 静かな酩酊(それは例えばフェルメールの室内画の前に立ったとき)もなく、 切ない共感(それは例えばシーレの自画像の前に立ったとき)もなく、 知的な快楽(それは例えばマネの人物画の前に立ったとき)もなく、 あらゆる感情の流れはそこからきれいに削除されて空っぽな自分がまず残り、 だんだん自分の輪郭が展示室いっぱいに拡散していく。
横浜美術館でも最初は、眼球はせわしくカンバスの細部を丹念に追っていた。 当時のミラノ宮廷で流行したスペイン風の衣装。 解剖学の知識に裏づけされた説得力に満ちた白貂を抱く右手。 その腕に抱かれて唯一鑑賞者と眼差しを合わせる機敏そうな貂。 当時のはやりであると思わせる、じつは奇抜なヘアスタイル。 そういったディテールをつぶさに追ってはいくのだけれど、それで何かを印象を持つのでは無く、 そこにそうしてあるものを、正しくそうであると認識していく。 ただ認識していく中でだんだん自分が自分で無くなっていき、焦点はカンバス表面からカンバスの少し奥、 そしてそのイリュージョンの中へと移っていく。 そう、正しくそれがそうであると認識することだけでもう、十分なのだ。
レオナルドは、ただ「リアル」なのだ。 でも人類は、このレオナルドが500年も前に達成した「リアル」についに追い付けなかっただけなのだ。 よく誤解する人がいるが「リアルな絵」イコール「写実的な細密画」と捉えたり。 全然違う。 そんなことを言えば「写真」が一番写実的でそれは人の手が及ばない領域の精密さをほこるかも知れない。 そうじゃなくて、写実的なのが「リアル」なのでは無くて、 それは例えばオーロラのブレークアップに接してその余りの浮き世離れした現象に、 恐怖と感動がないまぜになっていた自分が気付いたら涙をながしていたりすること。 例えばつかこうへい原作の「犬を使う女」で山崎銀之丞演じる村川が、 ヒロインをかばいながら壮絶に死んでいくシーンの長科白に、 最初は「何発銃弾受けたら死ぬんやお前は」と笑いつつも気付いたら人目を憚らず号泣しているときとか。 表層的な類似性や近似性なんかではなく、 大切なのは何の解釈も注釈も挟まずに、そこに確かに自分以外の何かがあると信じられること。
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