un capodoglio d'avorio
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2002年03月05日(火) 江國香織「流しのしたの骨」

ずっと借りていた本、昨日の深夜3時に職場でようやく読み終える。
ストーリーは父・母・長女・次女・三女・長男と1匹をつつむ
「たくさんの平穏」と「わずかな緊張」の日常が3女の視点から描写される「家族」のお話。
どかは吉本ばななが大好きで「つぐみ」は大好きな作品の一つだがこれは江國香織の「つぐみ」だと思った。
でも、辛くなったときに読み返すのは元祖「つぐみ」なんだろうな。

4姉妹のキャラクター付けが絶妙に上手でこの作品はもうそれだけとすら言える。
「つぐみ」との関連で言えばキャラクターのイメージが、
「そよちゃん」プラス「こと子」=「まりあ」で
「しま子ちゃん」プラス「律」=「つぐみ」だと思う。
この公式が頭に浮かんだ時、スゥっとこの小説が描こうとする、
「生」の実際と「死」の香りが目の前に具体的に立ち上がってくる気がした。
特に「つぐみ」のエッセンスを受け継ぐ次女(しま子ちゃん)と長男(律)のエピソードが好きだった。

去年の夏から江國は結構まとめて読んできたが、特にらぶーっにはならなかった(気配はあったが)理由は何だろう。
「冷静と情熱の間」をふまえた上であえて言うと、江國にクライマックスは存在しない。
あの大ヒット作品は江國の作品の中ではかなりドラマチックな展開に違い無いが、
辻仁成の全てが揺れている描写と比べると彼女の特性がいかにステイブルかが分かる。
・・・というか苦手なんだろうな「ドラマチック」が。
それは別に江國香織という作家の欠点ではもちろん無いし、
どかもだからといって彼女への評価が高まらないのではない。
実際辻よりは数倍小説書くの上手だと思うし、じっさい当世一番人気の売れっ子作家だし。
例えば芝居、ドラマチック「つか芝居」もステイブルな「青年団」もどかは両方大好き。
だからそういうところでどかは作家を差別しない。

問題は文体にあるんだと思う。
例えば村上春樹や吉本ばななの文体が明快に個性的だが、
江國の文体も巧妙だがやはりかなり個性的だ。
硬質で瀟洒で体言止めを多用、端正でいつもどこか緊張している感じで、
「キザ」と言ってもいいかもしれない。

  着替えてお茶をいれる母の横にがん首をそろえて、律と私は母が口をきるのを待った。
  うす桃色の萩焼の急須から、ほとほとと音をたてて落ちる玄米茶。

こういう部分を読むと「ああ、いかにも江國」という感じで、
少し鼻白む思いがどうしてもしてしまうほどの、強烈な自意識。
一方たまに「あ、これはいいかも」と思う描写にも出会える。

  自分の生まれた月だからか、私は二月という月が好きだ。なんといっても他の月より短いのがいい。
  毎年いつの間にか過ぎてしまうなところもいいし、正しく寒くて安心な感じがする。冬の最後の月。

やはりこの体言止めは限りなくナルシスティック、
でもでもどかも二月は好きだしこの表現も好き。
だから紙一重なんだと思う、彼女のセンスは嫌いではないが、
あまりにも強力に彼女のエゴを反映した「客観描写」はどかのエゴと中途半端に近い為、
流して読むのも難しくて集中して読み込むとひっかかりを感じてしまう。
頁をめくる度に微妙なレベルで緊張を軽く感じているような、気分。

紙一重で自分のベストには入ってこない作家、江國香織。
でも、気になるからもすこし読んでいくかもしれない。


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