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2001年08月22日(水) つか「新・飛龍伝 〜Let the River Run」<摩擦熱と自傷行為>

(続き)


内田有紀という女優は確かに、手足が長く瞳も大きく舞台映えするスタイル。トレードマークのショートカットから、ロングへと髪ものばし、それを振り乱して殺陣に挑む姿形はうるわしいと思う。でも、どかはこの女優、つかこうへいの戯曲には少なくとも向かないのではないかと思う。軽い、あまりに軽すぎるから。少なくとも他人へ感情を向けたときのそのベクトルが、あまりに薄く細く、たとえば神林の桂木順一郎や泊平助への恋心が全く伝わらなかった、どかには。前年の「銀ちゃんが逝く」の子夏役よりはさすがにセリフ術が上手くなったと思うけれど、でも感情が乗らないセリフだから、泊にも桂木にも届かないでそのまま浮いたまま。

つまり、2001年の神林はひたすら自己完結していた、それはそれで、確かに全共闘委員長、リーダーとしての神林の孤独に繋がる要素でもあるし、つかもそのあたりを狙って、あえて桂木や泊とのからみのシーンを薄めにしていたのでは。別にそんな神林が「ナシ」だとは思わない。桂木や泊の間にあって、ひたすら軽快なダンスステップでクルクル回って自分を抱きしめている神林でも、「アリ」かもしれない。けれども、小川岳男にとってはひとつの足枷になったのは確かである。自分の感情を神林に向けて石(意志)を放っても、それは断崖の向こう、漆黒の闇に飲み込まれて反響の音すら聞こえない。相手は何も、返してくれない。

恋心というベクトルをもがれた小川岳男@泊平助は、だからどうしてもセリフに艶っぽさが無い。それは、彼自身の役者の資質(愛嬌の無さ)のせいだけではなく、そもそもその対象(内田有紀)が勝手にナルシスティックに自然消滅してしまったからでもあるのだ。いきおい、泊平助のセリフは全てがデッドエンドを感じさせるたまらなく切ないものになる。観客との距離の取り方もまだ拙い小川だから、なおさら観客はそのデッドエンドを押しつけられて切迫さを身に沁みて感じる、半ば息苦しいほどに。

例えば劇後半、神林が機動隊の配置図を盗み出すために泊の部屋に潜伏しに来たことがバレて泊がキレる有名なシーン。これは、神林と筧@山崎一平のバージョンと一見同じようなセリフが続いているのだけれど、観客が感じる印象は随分異なる。山崎のシーンではお互いがお互いへギリギリの感情をぶつけ摩擦が生じ、その熱がどんどん暴走していき臨界点を超えた果てに観るオーロラに観客は涙を流す。しかし泊のシーンは、摩擦は発生しない。神林も泊もお互いがお互い、やりきれない思いをただ自分自身の中でどんどん暴走させ、その2つの運動が最後まで全く重ならないことへの空しさ切なさやりきれなさ、そこに観客は立ちつくすのである。山崎・神林のシーンが、相手を思いきりぶん殴るときに自らの拳を切って流す血だとすれば、泊・神林のシーンは、どうして良いのか分からず出口も見えない自傷行為の結果の血である。どかはあれだけ良いセリフが並ぶあのシーンで、泣くことがとてもできなかった。

さすがにこれでは、とつかこうへいも思ったのだろう。必死の改訂作業の果てに、キャバクラ嬢マリという全く新しいキャラクターが戯曲に挿入される。また、学生のなかに機動隊に通じたスパイがいるというプロットも新しく生まれる。自己完結だけでは生まれないグルーブ感を何とか補完したいというつかこうへいの責任感の結果、もともと極めてシンプルな劇構造が、どんどん複雑化していった。どかは実際、一度観ただけでは全てのプロットを理解することができなかった程。結局、当たり前だけれど、このような改訂は「逃げ」の一手でしか、無い。

他のキャストはどうだったのだろう。春田純一@桂木順一郎は、いつも通りの定点として安定感と重さを形成、内田の軽さと相まってさらに印象的。京都大学委員長・赤塚クンは、北とぴあではちょっとイマイチだったかなあ。セリフがなかなか通らなくて、小川岳男に続き大抜擢されたつかの期待の重圧に負けてた風(しかしあっくんは、大阪公演で華麗に復活したらしい)。日大委員長・嶋サン、ねずみ・山本サンは、2人とも相変わらずの滑舌の悪さでイマイチ。全共闘陣営の中では黒川クンと吉浦クンがまだ、良かった気がする。第1機動隊隊長・武田サンは、松葉杖をついて痛々しかった。やっぱ身体の芯がどうしても決まらないから、いつもの説得力は生まれない。

じゃあ、この2001年の「飛龍」、どこにどかはカタルシスを見いだすことができたのだろう。唯一、どかがグッと来たのは、桂木と泊の友情だった。愛嬌のカケラもない朴訥な仕事人間・泊と、弱さと強さを併せ持つエリート・桂木の間のホットラインだけが、この舞台を辛うじて惨敗からすくい上げるひと筋のエンジェルズラダー。ここだけは空しい自傷行為の自己完結ではなく、傷つき傷つけ合う摩擦熱があった。

70年代に生まれた「飛龍伝」が80年代を飛び越えるとき、伝説の名石・飛龍が失われた。そして、世紀末を飛び越えるとき、この戯曲は全共闘委員長・神林美智子すら落としてきてしまった。既に神林がいなくても成立する舞台になってしまった。それでも、どかは、この舞台における桂木と泊のホットラインは忘れないだろう。そして、お人形チャンでしかない神林を前にして、上げた拳をどこに降ろせばいいのか分からなくなってひたすら自らを殴り続けた後半の小川岳男の鬼気迫る「自傷行為」は、忘れようと思っても忘れられない。

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この舞台ののち、小川岳男は舞台役者としてさらにスケールアップし、北区の枠にはもはや収まりきらないほどの存在となる。相変わらず愛嬌は無いけれど、彼の誠実さとそれが極まった時の狂気は、唯一無二のものである。常軌を逸するほどに迫力ある木村伝兵衛を演じ、銀之丞演出の「寝盗られ宗介」にて、現役つか役者代表で客演し、そして2003年には早稲田大学委員長・泊平助として「飛龍伝」に帰ってくる。

内田有紀と言えば、この次の年、内田有紀シリーズの vol.3 として「熱海殺人事件・モンテカルロイリュージョン」の水野婦人警官役で舞台に上がる。そしてここで初めて、彼女の舞台における存在理由を獲得することができる。神林や子夏のような華を背負った主役ではなく、それを阿部寛の伝兵衛に譲って脇にはいることで彼女は彼女なりの輝きを放つ。特に、山口アイ子の演技は、本当に本当に、良かった。

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にしても。

泊平助という新キャラクター。金看板に「新」の一文字を付け加えたこと。そこには、観客への責任感と小川岳男への心遣いというつかこうへいの心情が透けて見えると思っていた。でも、つかの中に最も大きい気持ちを占めていたのは、筧利夫への愛情だったのではないだろうか。筧がつかの元に帰ってくるまで、「飛龍伝」と山崎一平は無傷で保存してあげたい。こういう優しい愛こそが、最も大きな理由としてあったのではないだろうか。この2年後、大阪厚生年金会館にて上演された舞台の完璧さを観て、改めてどかはそう思ったことだったよ。


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