ますみちゃんところの触発文章。 なのに誰に宛てたのかさっぱり分からない。
音楽記者が書いたことが本物で、他のが全部嘘になるんだとしたら、その時点で「音楽」は、終わってしまって良いと思う。 言葉だけで言い表せるなら音楽である必要はなくて、音だけで言い尽くせるのなら「歌うたい」は不要だ。
でなければ、なんで歌で泣けてしまうってことがあるのだ? って思うから。 なんでだかわからないけれど心震わす、心臓に「クる」って感覚を味わってる理由を、誰かに代弁してもらった所だけですまない、「何か」があるから、人は「ライブ」に行くのだろうなって思うのでした。 自分の心の中と、どんぴしゃりの表現文章を発見するのって、かなり確率低いことです(笑) それならむしろ自分で書くよ。って。 雑誌でこの人がこう言っていたから、この歌の解釈はこうだよって言われて、誰がどうして納得できる?(反語) 自分の心に「キた」ただそれだけで、本当はいいはずなんだって思う。 でも、だけど、自分の心にわだかまってたもんをぶち破ってくれるなり何かが心に根付いたとしたら、それを何処かに還元できるなら、その行為を否定する理由なんかありはしないのです。
国語の現代文のテストで、「筆者の言いたいことを記述しなさい」と書かされるみたいに、だけれど、筆者自身がそのテストで満点が取れないってことがあるように、筆者の仕事ってのは「作品」を書き終えた時点で終わるのだと思いました。 作品として表に出た以上、誰にどんな解釈をされても否定はできないと思う。
インタビューを読んでしまうと、そこに「解釈」という名の「枠組み」ができてしまって、妙な事言うけど、自分の心の中でクリエイター的な部分での自由に翼を広げられなくなるなら、作曲者自身が「この曲はこう解釈してくれ」って言ったって知らんぷりしても良いってのが私の考えです。 音楽聞いてるヒトそれぞれの中で消化されたり消費されたりするものだから。
それでも、好きなアーティストの言葉は大事にしたいと思ってしまうのです(それは単なる愛) ライターさんの感じ方はその人の中の言葉に換言した分、なんらかの「編集」行為が生じてるもの。 アーティストさんの「言葉」と「音楽」だけ信じてればそれで良いって思うのだ。
だって、なんか色んな雑誌で曲に関してレビューとか批判的な文章書かれてたの読んだとき、自分の中ですげえ大事なものが(他人にとって大事かどうかってのは人それぞれで当たり前なことだけれど)足蹴にされたみたいで嫌だったもの。 周囲の人があれこれ言った事全部、雑音で、自分の好きな音が聞こえなくなると思った時期あったし。 好きなものに関しては、それを好きでは無い人、むしろ嫌いとおおっぴらに主張してしまってる人とは、決して相容れられないものだと思ったりするのです。
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これも中学んときの知り合いの言葉の受け売りなんだけどね。 今は結婚している彼女の、言葉一つ一つが私ん中にしっかり残ってしまってるって話。
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