なにがって、あとは神頼みくらいしか思いつかないことだろう。(苦←苦笑とか言って笑ってられないので「ニガっ!!」て顔してると思ってください。読み方は、ニガ。)(苦虫噛みつぶしたことないのでそんな顔は出来ん。普通は吐き出すだろう。慣用句に文句言っててもしょうがないけど) 根拠マイナスの自信と、事実と経験に基づいた不安とで押しつぶされそうだ。 努力なきところに栄光無し!(栄光・・・)ってことも学問に王道無しってことも重々無理は承知で理解してるつもりなんだけど(何言い出してるんだ)それでもやらないのはなぜか。 もう意地でも受かってやらね!くらいの勢いですか。 なんか、諦めというよりは意地になってないか? こんな意地は要らない・・・。 心の中で信じてる神はいなくとも、ピンチの時に思わず「かみさま!」って思うような微弱ながら縋るものがあるのもなんだかなという。 実際なんかしてくれてるわけではないんだろうけど。 こっちもそんなに信心深くないからそんなもんでしょ。
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夫れ、学は通のために非ず 窮して苦しまず、 憂えて意(こころ)衰えざるが為なり 禍福終始を知って惑わざるが為なり 荀子 +++
つまり勉強するのは物知りになるためだけじゃなくていろんなことに迷わないためのものなのよってな意味と自己解釈してます。 「過保護な大人たちー愛情過多が引き起こす心の病ー」松村紀高という本の中で引用されていた文でした。この本自体面白かったのでメモしてあったらしい。3年前に読んだ本。
昔の人の言葉はこんなにも的を得ておるというのに何故同じ過ちを繰り返すのかのう。。。と嘆息。 私ががんばりきれないのは性格か?
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