柴山は3人掛けのソファーに大きく体を広げて独りで座り、背広のポケットからマルボロメンソールを取り出し、ジッポで火を点けた。カチッという音がロビーに広がった。当然だった。深夜一時過ぎに訪れる人間はあまりいない。こんなとこに予約もなくよく入れたと柴山自身感心したくらいだった。 −この金をどうするか・・・− 明らかにその格好とは不似合いなボストンバックを見ながら一口目の煙を吸って、吐いて思った。 −犬(ケン)にはわるいがな、この世界はそんなに甘くない− 犬は柴山の舎弟だった。本当の弟のように可愛がった。出会いは何だったか忘れたが、この組に入っていた柴山が犬を拾ったのだった。 組長の犬井に無理を言ってまで犬を組に入れたかったのはいつか組を裏切ってしまおうという心積もりがあったからだ。そのための犬だったと言ってしまえば容易いが、途中そのことを思い出すこともない程、犬を可愛がった。まるで兄弟だった。兄弟のいない柴山には犬の存在はとても大きく、本当の弟のように見えていた。 −今、こうしていられるのも犬のおかげだな− 感謝したが、もう犬はこの世にいない。犬井も。柴山だけが残った。組の連中も全ていない。ただ組の金に手を出し、犬を使った柴山だけが残った。 「柴山様」 呼ばれる声で現実に戻った。タバコを灰皿に捨てる。誰もいないロビーに煙がゆっくりと徘徊している。空に向かうのか、どこに向かうのか分からない。カウンターの方へ向かった。 「お部屋の方、1533になります。」 と、しっかり7.3分けして、いかにもという出で立ちのボーイが鍵を差し出した。柴山が受け取ると、 「ごゆっくりどうぞ」 と、綺麗にそろった白い歯を見せた。
金ならある。これからどうするかだった。柴山には考える時間が必要だった。誰かが敵討ちにくることはない。だから宿泊の手続きも本名で記入した。もともと小さな組だったし、麻薬の売買だけでどうにかしていたどうにもならない連中の集まりだ。組員は犬と柴山で全員殺した。・・・いや、犬がほとんどだ。 柴山が犬だけに切り出した話・・・・・・・・ 「二人で金を盗んで逃げよう」
15階からの眺めは最高だった。今まで人の道を外してきたばかりの柴山でさえこの場所は最高の様に思えた。ベイブリッジ見渡せるスイートルーム。星が綺麗な夜だ。汚してきた右手は簡単には綺麗にはならないが、この場所にいればいつかは・・・という気持ちもなくはなかった。いつだろうか、犬の言葉を思い出した。
「柴山さん、裏の人間は裏でしか生きられないんすかね?」 部屋の電気を消して1時間ほどベイブリッジを眺めていた。雲のない綺麗な夜空。そんな綺麗な空の下で今夜もドロドロした「生」は地面を這いつくばっている。上を目指したが、もう今は何も思わない。裏の世界で生きていく自信すらない。朝日と共に隠れる様にして家に帰る。まるで月の様に。 眼下に広がる大きな観覧車を見て独りつぶやいた。 「気質に戻りてーな」 おかしな言葉だった。似合わない言葉だった。いくら自信がないと言えども、そんなことを口にすると実際おかしくなって柴山は笑った。が、すぐに悲しくなった。自分のこれまでが今日という日で全て流れてしまえば、と思った瞬間にそれは無理だという答えが出てしまったから。体の力が抜けていくようだった。 誰のために光っているのか、まるで他人事の様に光り続けるネオンの世界。皆、笑いながら今日という日を楽しんでいるのだろうか? 柴山は思った。 −やはり、未練があると− 思い出してクローゼットにある背広の右の内ポケットから1枚の写真を取りだした。 ・・・世界で誰よりも愛していた女と、その子供・・・ 運命にはあらがえない。 だが、現実を受け入れられない。柴山は飽きることなく見つめた。そして、 「どこにいるんだよ!返事してくれよ!俺は、おまえ達を・・・」 言葉が出なかった。自然と涙が頬を伝う。その後に、 「ちきしょう!ちきしょう!」 何度もこの夜をうらんだ。 もうこの世にはいない二人を今でも愛している。柴山にはどうすることもできないが、人間としての心が残っていた。 「残ったものが心ならいい」 独りごちた。
壮大に広がる楽しい世界。子供を間に入れて一緒に歩きたかった。柴山は夢を見た。観覧車に乗る夢を。幸せな顔をして。星の輝く夜空を見ながら。仲良く3人で観覧車に乗る夢を。柴山にはもう、朝も夜も訪れはしなかった。
DOGING2 FIN
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