演劇「贋作・罪と罰」  2008年12月22日(月)
※レビュー関係の長文すいません。ケー帯読者の方、すいません。手加減するつもりが毛頭皆無。つらつらします。

12/20(土)
劇団スケッチブック「贋作・罪と罰」(原作/野田秀樹 演出/武富洋陽)

野田秀樹の演劇について何かを言おうとすると一番骨が折れるのが言葉、言葉、言葉言葉言葉言葉言葉…とかくセリフに込められた言葉の連鎖、言葉の銃撃が無数に飛び交っている点。また、複数の次元の世界がパラレルで入り混じることも多々あり、そこでも言葉の音韻や連鎖が次元同士の接点になっている。つまり台詞を覚えていないと後から野田作品について書くのは難しい。
個人的にはどうしても一番書きたくなるのが、物語の構造、放たれた言葉の銃弾の数々の中で光るものども、絶叫されたあの台詞の一言一句、なので、そこは反則ながら戯曲集の到着を待つことにする。とてもではないが私の頭で覚えられるようなものではない。
もちろん出演者のハードで元気いっぱいの動き、叫ぶように絞り出す激情、独白や、その他画面構成の特徴など、挙げるべき点はいくらでもある。が、やはり私は野田作品については言葉に注目したい。そこが出口のない無限回廊の始まりになり、彼の手中で踊らされてしまうことは間違いないが・・・。困ったことに野田秀樹の術中に完全にはまってしまった私は、台本を手に入れて一言一句を眼で追っても、「活字では言葉が死んでいて標本のようだ、だめだ、DVDを買おう」等と更に深みに落ちてゆきそうな気がする。恐ろしい。

この中毒性というか、もう一度振り返って目を耳を凝らし、やきもきするような手の付けられない部分の解釈をしたい、と、思考の欲求を喚起させられるのが野田作品の味だと思う。観た瞬間においても凄いが、観た後に、作中での意味深な台詞の指すものや、史実と創作の入り混じる不思議な接点についてなど、色々口にしたり書こうとすれば謎だらけで言葉にならないことが多い。何度も読み返し、観返してようやく謎が解釈されてくる。それが面白い。
最近観たニナガワ演劇(「ガラスの仮面」「表裏源内蛙合戦」)とはそこが真逆だ。演じられたことをまるのまま受け取って、ああ素晴らしい、楽しかった、で一回で終えられるのが最近のニナガワ演劇だが、野田秀樹の作品はあまりに多様な要素からなる迷宮で、一度通過しただけでは味わいきれないものがある。

とは言え、これまでの「キル」「透明人間の蒸気」「半神」に比べれば、「贋作・罪と罰」は言葉の銃撃による被弾はずっと少なかった。迷路ではなく、むしろ定まったストーリーが軸になっている。題名からも解るようにドストエフスキー「罪と罰」のストーリーを踏まえたもので、登場人物、事件、粗筋などの設定を帝政ロシア時代から、原作が書かれたのと同時期である幕末の日本へ移植。
「罪」「贖罪」「理想」「思想」「人間が生きるとは何か」というテーマを巡り、様々な立場の人間が入り乱れる。力による討幕を志す者。幕府を守る者。その場の生活の安定を願う者。己の力を行使しながら虚無的な者。誰とも異なる革命を模索する者。ただ周囲の波に乗る者。

『超人には、人類のために既成の道徳法律を踏み越える権利がある・・・・』という原作の主人公・ラスコーリニコフの抱く論理を受け継がれているのが、江戸開成所の塾生・三条英(さんじょう・はなぶさ)だ。彼女による金貸しの老婆殺しと、その事件の追及、そして討幕の決起という動乱の中で、「思想を持つ者」と「持たざる者」、「理想を実行する者」と「理想に酔うもの」との対比、混線が繰り広げられる。

強い思想を持ち、理想を実行に移したがために、殺人事件の犯人となり苦しみ続ける三条英。人間の罪と贖罪についてを体現する、裏の主役。
三条に対し「あなただけは、理想を実行に移すことのできる私の同類だ」と語る、金満にしてニヒリズムの漂う大地主、溜水石右衛門(たまりみず・いしえもん)。
三条を追い、彼女の精神を冷徹に追い詰める捜査官・都司之介(みやこ・つかさのすけ)。
三条の身を気遣いながらも、討幕のために動く志士の一人、才谷梅太郎(さいたに・うめたろう)。その正体は、志士らとも幕府とも異なる立場から、金による無血革命を画策する坂本竜馬。単独革命の達成と刺殺死という物語上のクライマックスを体現する、表の主役。
彼らの奔走と衝突が、命を奪い合い、時代を変える極限の状況を生み出す。ラストは血を流さず死者を出さない、豪華絢爛、視界が埋まるほどに降り注ぐ金貨で徳川将軍が天下に額づく。革命の達成だ。才谷/竜馬の言う「革命」は、本格的な貨幣制度・資本主義経済の先鞭を導入することによって、直接的に身体の傷付け合いを回避し得る闘争があることを示した。
他の連中は「誰かが立てば・・・」と、周囲を見回しながら適当なスケープゴートと英雄の訪れを待ち、それらしき者が現れれば追従する、炎上する、というだけ。このあたりに、作者の大衆に対する厳しい批判が見えて面白い。

残念な点があるとすれば、表の主役たる才谷/坂本竜馬のキャラが薄いことだ。物語の根底に流れる、人間の理想と罪と贖罪についての問いは全て三条英がその身に受けることになる。物語のほとんどは三条英を軸に、周囲の人間らとの対比が為される。
才谷/竜馬は終盤の討幕シーンに至ってようやく活躍する。他の革命派の志士らが気炎を上げる中、幕府と志士の間で走り回り、二重スパイのような立場をとって双方の動きを制する。そして三条英と引き合わされることになり、彼女に贖罪のため地に額づきなさい、自分が殺したと言いなさい、と諭す。役目としては重要な位置にあるが、どこかインパクトで他のキャラクターに負けているのは単に登場頻度が低かっただけか、いち同士に過ぎない「才谷」という凡人に化ける時間が長すぎたためか。ちょっと残念。


ここでまた困ったことがある。それは、私がどれだけ言葉を費やして色々考えて書いても、それは野田作品について書いたことにしかならず、この演目を演じた劇団スケッチブックに対しては何も触れていないに等しいという点だ。上の批評めいた文もそう。触れているのは原作の構成であって劇団員についてではない。
なのでスケッチブックに触れようと思うと、彼らの動きや発声、演出方法について話さないといけない。だが私は恥ずかしい話ながら演出をとやかく言えるほどは知らない。比較対象がそもそも狂っていて、他に観た体験からすれば劇団新感線や劇団四季、ニナガワ演劇だ。どうしたらええのん。これは難しい。まして、出演者(佐々木氏)の努力や苦労も傍から見て多少知っているだけに中途半端な評論など口にする気もない。

なので思考は棄てて簡単な感想にとどめさせていただく。

相変わらず元気で、よく動いていた。よく動きながらも観客席に突っ込まないようセーブするのはさぞ難しいだろうと思った。そんなに広くない舞台で、6〜7人が入り乱れての殺陣あり、端から端まで駆けたり吹っ飛ぶ演出あり、スペース的にぎりぎりだった。逆に大きな劇場より難しいのではと感じたぐらいだった。最前列に座ったら、もう役者が目の前。見上げないと顔が見えない。

キャストから
団長の武富氏が演ずる、三条の母/老婆おみつ、上手かった。この人は前から多彩な役柄の出来たが今回は更に幅が広がった気がする。「三条英の母」は、珍奇な喋り方をする初老の婆で、公家の出でありながら落ちるぶれた経歴を持つため栄華や安定した生活への執着が根深い。同時に、それらが満たされると安定した精神を取り戻すのか口調が穏やかになり、まともな思考で話をする。強弱の付け方が難しいキャラだったと思うが、うまく演じていた。

かねしろ氏演じる、三条英の妹・智(トモ)、こちらも予想外の熱演で驚かされた。絶叫も、歓喜から悲嘆、絶望まで感情を幅広く持って挑んでいた。今回実は最も幅の広さを要求されたのでは。担当配役の名だけを見ると地味な脇役だが、実は前〜中盤はコミカルで無知な大衆の代表役として、最後には初めて生じた拒絶や「許せない」「愛せない」という強い実の感情により相手を殺しかかるまでの炸裂を見せる。

佐々木氏の演じた才谷/竜馬は、これまでスケッチブックが取り組んできた野田演劇に通じる、野田的ヒーロー相変わらずの路線にあった。にも関わらず割と影が薄かったのは、野田自身が「罪と罰」のコンテンツは重視し、幕末という時代設定に移植したものの野田的言語魔力で加工せずに置いておいたためだろうか。このあたりは演出の仕方で全く異なる印象に変えられるものだろうか。見せ所は終盤に来て一気に多かった。
「金貸しの老婆殺しがなぜいけないのか?私はこんなに正しいのに」「理想の下に集った同志だったはずでは?才谷、よくも裏切ったな」こうしたどこにもやり場のない問い掛けで絶望にあった三条英を諭し、「人殺しって、暖かいんだなあ!」と抱き締め、観る者の心の琴線に否応なく触れられる。それが竜馬の役どころであった。今回は難しかったと思う。才谷は現代の優しき男性ども殿方の代表者なのだ。視野が狭すぎるぐらいに各々の事情に即した幸福論でガチガチに縛られ、あるいは無知で、不自然に頑張り過ぎて倒れてしまいそうになる「女性」を「まあ、難しい理想を考えるより、まあまあ!」と大らかに受け止める。現代のパパ、それが才谷だったと感じた。(もちろん、竜馬も)
思えばラストで、三条英の老けこんだ母が、重複演出の延長で、老けこんだ徳川慶喜にすり替わる点も同じく、徳川→女性と設定をブラした上で、才谷/竜馬は特に何も言わず「そうら!!!」と気前よくありったけの金貨を降らせる。そこに理屈や理念、言語化できそうなものはない。突き抜けた大らかさで相手を包む所作は変わりがない。これは現代の優しい男性と頑張り過ぎる女性のコミュニケーション論でもあったのか?

ともかく、人間の理想と心理・倫理・現実的意識とが葛藤する姿をずっと見せられた後では、感動によるカタルシスよりむしろ、人の業は何処へ行くのか? 人の正しさはただ、己が罪を独白し良心を呼び覚ますというキリスト的懺悔などというあまりに普通な答えによって回収されてしまうのか? などと問い掛け続けてしまう。感動よりも、人間の業への問いと答えを考えてしまう。その気配はあった。そこで二つに裂かれた主役の片割れである竜馬が、獄中の三条英と重なりながら刺殺されて絶命するシーンは、恐らくやり方と実力如何によってはもっと感動するのかも知れない。それは憶測の域を出ない。
しかし相変わらずの動きの良さだった。刀を初めて握った男が繰り出す奇妙な太刀筋、二重スパイとして討幕軍と幕府軍の間を縫って飛び回る姿、下らぬ闖入者により刃を突き立てられる瞬間。彼ならではの、生命力のある動きだったと感じた。さすがだ。

思い付き、感じたことを書き連ねなければ、すべてがツルツルとした無に還るような気がしたのだ。日常生活は恐ろしい。様々な記憶や衝撃をツルッとさせてしまう。演劇に触れ、別世界、別次元へ心身を拉致されたいと願うのは、せめてもの抵抗か。


語り過ぎた気がする。いや何も語っていないに等しいとも思う。とにかく心を惹き付けられた証拠だ。しかし本当はもっと色々書きたかった。書いても書いても無駄な気がするが書きたい。どこかで止めないと言葉はインフレを起こして無価値になる。もっと絞らなくてはいけない。本当は。まあ私などには永遠に「本当」なんて来ないから、いつまでも垂れ流しで十分だろうけど。




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