摂氏百度誤謬  2005年08月09日(火)
青く透明な氷がばきばきと水の分子の動きを止めて、そこにあるすべての水分子が氷と化してしまう、その音とともに、おれの世界は摂氏零度を下回る語彙で回りだす。


ダフィネルリンベガ。偽造ミートボール。非フィリピン系ロシア人。生カステラ焼きカステラ冷やしおはぐろ赤ちんこ。グリフォンの呪い。スコータイ朝の変態。はまぐりの脱毛。知人の結婚の引き出物に贈る土鍋と傍迷惑。優待券で観覧車。ゴムをダムにつめてバム鉄道。アパ万章。はぐう。


おれはこの世を彷徨う一個の瞳となり、速度感だけが網膜の奥で疼き、きりきりと光の刺激が獰猛な盲人だった頃の若き狼の日々を思い出させる。あたたかい米のめしを食えるようになったのはいつからだ!貴様は目玉だ!ただの瞳だ!忘れたのか!貴様は人の愛やおんなの体の良さよりも先に、視界に入る高密度の構造に全ての快楽を捧げていたのだ!生きる意味すらも投射して!


氷はそして外界との接点から再び溶け始め、今度は太陽を直に見詰めすぎるあまり、急激に高温へ向けて目盛りがカーブを描く。摂氏百度で誤謬が始まる。


救急車が襲ってくる。早く乗れと手を差し伸べる。時速百キロで私と並走しながらそんな。白くて甘い感触がする。解除を命じられた日本刀が抜き身で時速三百キロを出しながら追い抜いていく。蛍光灯に群がる蛾を蹴散らしてアトラスのカブトムシが黒光りする体で羽音を立てる。高速道路は終わり、田舎の民家の居間に移る。霞を食って年を経てきた老婆が怪しい音を立てる。それはキリギリスと人間の相の子を呼ぶための合図音だった。老婆は山盛りの大麻を勧めてひゃあひゃあと笑う。私はそれを時速百キロで通過し、景色はまた一変する。高級娼婦が旦那衆の指名を待つ控えの間で一人の婦人が「私、風水に凝っているの」と黄色い財布を出して、自慢げに笑う。それは風水ではなくいんちきだ、いんちき商法に引っ掛かっているのだともう一人の若い女が言う。馬鹿にされたと思ってその婦人は小銭入れをパチンと開けて「なによ、わかいだけのくせに」と小銭をぶち当てる。不意の銭投げを食らった若い女はきれて「御用だ!」とわあわあ喚く。その薄暗い一室の光景も私は時速百キロで通過する。次に現れた光の中には私の愛した人が居た。彼女は遠く離れた私に、暗闇の中で右手をすうっと振り下ろした。視界が真っ二つに割れ、私は自分の内向的な速度が完璧に切り裂かれるのを知った。辛うじて残った視界の感触の中で、彼女はもう片方、左手を宙にかざし、無言で静かにまた振り下ろした。速度をなくした私は今度は光を失い、あらゆるものが暗闇になった。彼女は見えなかったが、彼女は両手を重ね合わせて心臓に鼓動を送るような形でそっと私の存在に向けて一拍を打った。それは私からあらゆる異常な温度を奪い、私を現実の現世へと送り返した。

おれは生身の体で正気の自分を以って目を覚ました。夢をもっと見させてくれないのか。摂氏の異常な世界が一瞬一瞬で垣間見せるおそろしく愉快なあれやこれを愉しませてはくれないのか。それに耽溺するおれは大切なものから別れを告げられるだけなのか。ならば構うまい。おれは全身のカロリーを妖気に換えて、高野山の修行坊主のふりをしてこの眼球に妙な速度感を集中させた。溺れてしまえ!盆の過ぎた太平洋で!かつおのえぼしの えじきに なるがよいわ! おれは一気呵成に再び摂氏百度の誤謬へと立ち戻った。わああ わああああ。だああ。だうあー。



※ 作者は いやなことがありました。




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