浮き沈み日記。

2003年10月18日(土) 診察クロニクル

昨日の診察を覚えている限り、何を話したか書きとめておこう。

だいたい診察の前日か、当日にこの日記を見返す。
そして2週間の間、何を考えて行動したのかを思い出す。
だいたい思い出せる範囲内だが、まったく覚えてもいないときもある。

診察。
医者の苗字が変わったってことは、、昨日も書いたな。
結婚でもしたのかなーって思ったんだけどすっかり聞くのを忘れた。

年金申請用紙に清書するさい、手が震えてミミズがラインダンス踊るから、
痙攣止めとして「ミケラン」を出したが結果はどうだった?と言われる。

効いたような効かないような、よくわからない。
でもコレだけは自分で、自分の言葉で書き表さなければならない。
っかー、自分で収めた年金がもどってくるんだからがんばらねば。

改めて。
自分は中学生の頃から小説家になりたかった。
文学を習いたかった。
でも親や兄からの無言の圧力が入り、高校にしても「遠い私立に入られるとお金がかかってしかたないから困る」と遠まわしに言われた。
そういわれたら公立行くしかない。
オマケに自転車か徒歩で行ける距離で。

絞り込まれた公立1校は情報処理科があった。
そこの学校で演劇に打ち込み、知事賞をもらった。
パソコンのプログラムも簡単なモノは作れるようになった。
兄も自転車で行ける公立へ行き、某電鉄に就職した。

もちろんイイコちゃん、だった。
兄弟ともども。
だからまわりの近所からは「イイ兄弟ね」と言われた。
(私が住んでいた県は私立よりも公立の方がよく見られる傾向が強い)

パソコン関連か、演劇関連、文学部のある大学か専門学校に行きたい。

けれど言える状態でもなかった。言う気も起こらなかった。
選択肢は、そこには何もない。
諦めて仕方なく就職して貯めた大学費さえも渡すことになったのだから。
(未来のフローチャートが崩れていっていることを気づかなかった)
卒業してからすぐさま就職する、ということがコトバを交わさず当然なことのように思えた。

何か資格はとらなきゃ、と思い仕事をしながら看護学校へは通った。
もちろん自費。給料天引き。
そして、しばらく病院で働いた。
音楽療法に興味を持った。でも専門学校にいかなくちゃならない。
残念ながらそこの学校は働きながら行くことは授業上、無理だった。

99年、兄が失踪して初めてのパニック発作が起こった。
しばらくは落ち着いていて、一時期のものだとてっきり思っていた。

今度ははじめて「思い出す」フラッシュバック。同時に襲い掛かる不安。
とても働けた状態じゃない。
死のう、と思ったはじめての時期である。
去年の4月はじめの出来事。

働かないと、家は誰が切り盛りするんだ?
兄はヒキコモリだった。夜勤で朝帰ろうと、日勤で夕方帰ろうと、いつでも自分の部屋の扉を閉めたままベッドから動こうとしなかった。
母はその様子を大変に悲観した。
最初こそ持ち前の力強さで私を励ましていたが、さすがに今までの私たち兄弟をオンナ手1つで育ててきた疲れがドッとでたのであろう。

母が自殺未遂を起こした。

母は責められない。私が働かないと。
だからますます自分は働かねば、と思った。
兄も母もどうにもならないのであれば、私一人が働かないと。
働いて、ずっと働いて、夜勤やって、遅番やって、早番やって、、、。
病院は不規則な労働時間である。
その間、死のうとは思わなかった。
ボーナスは差し出した。それが当たり前だった。
大学へ行きたい、などとは思わなかった。

去年の4月中旬。

私が壊れ始めて、仕事が無理になった。
兄がようやく立ち上がってくれて働いてくれるようになった。
母もパートながら働いてくれるようになった。
医者にアンタは仕事ダメ!って言われても、働かないとなぜか心配だった。
申し訳なく思えた。
そのときから、死神がカマをかかえているのがハッキリと想像できた。
どうすればいい?働け?働くな?

ちなみに未だに兄と母は言う。

「働けるようになるといいね」

うん、そうだね、、、と簡単に答えられない私がいる。

大学へ行く、というフローチャートが復活しつつある私もいる。

そこまでベラベラっと喋り、医者からの返答は明日。だって長いもん!



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蓮華 [MAIL]

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