再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 「オールライト」GPへ。

さて、「オールライト」最後の旅前GPである。
どんな作品もそうだが、まぁ、クローズする時が来るわけで、終わりたいわけではなく、終わっていく。いろんな事情やら、状況やら、理由があったりするから一概に言えやしないのだけど、
しかしいろんなことのあった公演班である。
骨折あり、眩暈あり、骨折あり、役替あり、あわやの脳出血あり、急遽の代役あり、スタッフ替えあり、万全!で、肉離れあり。
奇跡的なのは、一度もステージに穴があかなかったこと。
そして、その後の疑似家族ブームを先取りした感のある、ある意味荒唐無稽な脚本、
ボブ・ディラン再ブームも先取りした、乱暴ながらも愛情溢れる構成、
ある種のファンタジーながら、それを「生活」とゆうカテゴリーで魅せていくために、
舞台上の「人としての存在の仕方」が殊更に追求された。正に現場とスタッフで創り上げた世界。その先の高みを覗くこと、その為にしっかり地に足をつける事。これが、まぁ、驚くほどに難しい。。
人物はそのセリフを喋るために、感情を人のセリフ関係なく、心情を立ち上げるのではないと、わかっていても繰り返す堂々巡り。
本当に、音階で覚え固定化されたセリフの恐ろしいほどの塊り。ほぐすに難あり。変化するに準備されない、開かれない可能性。
でも、作品がつまらない訳でないとゆう、ジレンマ。
結果そこに寝転んで、最後の変化するとゆうエサを他人が与えてくれるのを待ってみたり。わからないを言い訳に続けたり、
で、その事を演者として突きつけられたり、突きつけたり。
結果皆優しいので、ホントにヒトリで向き合わなきゃいけない所に介入してしまう人としての在り方も。そこに実は大いなる人間味とゆうヒントがある。
そうゆう意味で全体が大人になりきれることはなかなか難しかったけれど、
この作品に携わった人の、ビフォーアフターは、単純に場数と経験を積んだ、のとも雲泥の差がある、と思っている。

私自身も、1月の足利、2月頭の養成所「人形の家」、2月終わりの椿組、3月終わりの「クテーラン」と、全ての作品の世界観、表せられ方の違い、信じる表現方法の違いの中にあって、結局は、どこにどう存在して、表立って反応してこない客先の一番後ろにいて固唾を飲んでその世界を見守っている人にどう届けるのか、何を魅せるのか、何を根拠に喋るのか、模索しながら、だからこそ、四年で終わってしまうけれど、それだけの時間を費やせた作品創りの大切さを今更ながら感じている。
もっと、共通理解を共通言語(テンションとかゆうコトバでなく)を増やし広げるための努力の必要
よく言うところの、

人は無くなるとわかって、初めてその大切さを知る、である。

最初の旅初日、長野だった。今回も長野から。
その時のタワゴトー

「芝居は本当にナマモノである。
退廃的な唄になろうが、
大切なセリフが飛ぼうが、
その場に在るかどうか。
である。

そこに在る俳優さんが息づいているかどうか。
共感力を武器として、その世界に観る人をちゃんと巻き込んでいくこと。」

ー言っていることは何も変わらない。動かないことがあるから、言葉が多くなっているのだ、動かす為に。

そしてこれは、
すっかり息抜きはこれになった落語通いの中で、談春が言っていた。

ただ家で噺を口にしているのは稽古じゃないんだよね、いや、お客さんには申し訳ないんだけど、こうやって千人の人を目の前にして、そこで演りあってはじめて、この場がホントの意味で稽古なんだし、そのホントの稽古の数をやってる事が、自分を育てててるんだなってね。(この10年で自分がテレビにも出るようになって、いかに変わっていったか、曲解あり笑)→その後、だから他のやつはダメなんだと続くのだけど(笑)

もちろん、もうあれだけの名人になっているからこその言葉ではあるけれど、同じ時間を、ホールとゆう空間で、人の想像力を借りて牛耳って、その相手は一度として同じではないって意味では同じである。
稽古の質が問われている。
他人の前で変われない人が散見する。(変われないのではなく、心が動かない、のか)
一人ならできる、のかもしれない。
でも、僕らは、人が、他人が見てくれて共有してくれるからこその表現者で、
多くの人の目があるからこそ、心を豊かにJUMPさせることができるのだ。
人に見守られていることをハナから失くすなら、それは表現ではない。
の、かもしれない、と最近強く感じている。
自分の100点ではなく、他者の想像力と出会って、どこまでも幅と奥行きの広がっていく在り方。(そもそも自分の満点を目指す時点で、目的がちがう)

そしてその準備にかける心、身体への探究心。
役への、その瞬間の自分への興味、問いかけ。

最近、可能性についての、舞台上にあるものへの、
要求が細かいと言われたりするのだが、

それって、当たり前だと思うのだが…

各セクションの専門家が、きちんと専門の仕事をし、世界を観客の前に提示するのだ、
演者は役と人間の専門家としての探求(探究)を怠らず。

さて、場当たりだ。
ぬかりのない準備をして、残すところ20ステージ未満の新しい学生さんたちとの一度きりの出逢いを。
圧倒的、であれ。
(とこの午前中に、音響卓がクラッシュするとゆう事態のあることも併記しておきましょう(苦笑))
肩肘張らずに。

2019年05月27日(月)



 『クテーラン人びと』劇評。沖縄タイムス掲載。

新基地対立 根底に沖縄愛
/劇「クテーラン人びと」
/ゲート前 複雑な感情描く

2019年4月12日朝刊芸能23面芸能
 新基地建設を巡り、米軍基地のゲート前に集う人々の心情を描いた劇「クテーラン人びと」(脚本・伊波雅子、演出・藤井ごう)が3月29〜31日、国立劇場おきなわで上演された。「辺野古」を題材に、現在進行形で変化する基地問題を、ゲート前に座り込む人、対峙(たいじ)する警察官それぞれの視点で切り取った。打たれてもへこたれず笑い飛ばす人々のやるせなさ、基地建設への複雑な感情をゲート前の日常や何げない会話を通して鮮明に伝えた。主催・エーシーオー沖縄。(学芸部・天久仁)



 沖縄の海辺の村が舞台。作品は米軍基地のゲート前で旧盆のウンケーを迎える人々の描写でスタートする。カマボコが好きな宮城(城間やよい)、初老の新吉(高宮城実人)、元高校教師の知念(吉村直)とその教え子のイズミ(古謝渚)、「カイヨーハク」と呼ばれる若者(島袋寛之)ら個性的なメンバーは世話好きで明るく、沖縄のどこにでもいそうな面々だ。

 人々は日々、ゲート前に座り込み、新基地建設に抗議の声を上げる。トラックの搬入に伴い、機動隊に排除される姿は実際の現場そのものの臨場感がある。

 場面の転換では一転、機動隊の側から見た視点に移り変わる。「トラックを入れて満足か」と問い掛ける元教師の知念に対して、教え子の機動隊員、キセ(島袋寛之・2役)は「今は立場が違うから」と言い放つ。ウチナーンチュ同士が黄色いテープを隔てて向かい合う場面は、断絶や分断の象徴として映される。

 カイヨーハクが大型台風の襲来で新基地建設の作業が止まるという夢を見る場面や、毎日ゲート前に通っていた宮城がある日「自分探しの旅に出る」と抗議行動をやめる姿は、一向に解決しない基地問題そのものを表しているようで痛々しい。

 一方、「新基地(しんきち)反対」のシュプレヒコールを聞いて心を痛める新吉のやりきれない表情や、警察官に取り囲まれたら「エア・カメラ作戦」で相手の顔写真を撮影するよう呼び掛けるクラウディア(新城カメ)らゲート前に集う人々の素朴で人間らしい言動に、会場から笑いが起こった。

 脚本を書くにあたり、伊波は政治的立場を超えて「沖縄が好き、という意味では(異なる立場の人が)互いに共感するところがあるのではないか」との考えを込めたという。基地問題に真っ向から取り組みながら、藤井の演出にはエンターテインメント性が強く打ち出され、各場面にちりばめられた既視感は、ある意味で沖縄県民が持っている「うちあたい」のようにも捉えられた。

 テーマは重たいながらも「ぼくたち、クテーランからね」というカイヨーハクの台詞には、ゲート前に集まる人々の気持ちが集約されているようだった。


2019年04月12日(金)
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