再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 『島』作者堀田清美さんの文章。。

昨日と明日のあいだ
堀田清美

 …自分の生み出した一つの作品が、このようにいつまでも命を持ちつづけて、それを観て下さった人々がまた、自分達の生命と未来の幸福について考え、語り合うときけば、作者である私は、死んだおふくろの言いぐさではないが「それを思うとの、胸がいっぱいで、またねられんのよの」である。
 (略)
 …私はそもそも、劇作家になろうと思って芝居を始めたのではない。終戦後の、あの空白状態にあった工場で、「天皇陛下のために!と教育されてきた僕達青年は、今度こそ、自分達の意志と行為で、自分達のための人生を築こう」というお互の気持ちから、「何とかして生きたい!」という言葉に憑かれたように、島崎藤村の『破戒』の脚色、上演から、職場の同僚と家族にみせるための芝居を始めたのである。終戦の翌春、丑松を演じた舞台の上から感じた、家族ともどもの感動を、私は一生忘れることが出来ないだろう。専門家としての生活に入っても、あの時の真剣さだけは後生大事に持ちつづけたいと思っている。観客の心と共に生きるということである。
 (略)
 …「島」のテーマは、「生きたい」ということであり、「健康に働きたい」ということである。人間の素朴な、最も大切なこの願いこそ、「島」がうけいれられていることの大きな要素だろうと思う。「人間は働くためにこの世へ生れてきた」と教えたのは故郷の島であり、「働く人々こそ主人公である」と最初に教えてくれた人が土方与志先生である。「人をふみ台にしてえろうなろうと思うな、人を泣かせてええことがあろうかい」と言った私の母は、国中の客席にいるにちがいない。平凡な、あたりまえの働く人間が、芝居の主人公になるものかどうか、「島」は私の演劇上での、ひそかな挑戦でもあった。…

堀田清美(ほったきよみ)

1922年〜2009年。
広島県・倉橋島の出身。
1945年日立製作所亀有工場に入社し、演劇部を創設。「子ねずみ」「運転工の息子」などを発表、自立演劇運動を推進する。1955年12月号の『テアトロ』に「島」を発表。1954年12月に劇団民藝に入団したのち、これを改稿して1957年、同劇団で上演、第4回岸田戯曲賞を受賞した。

(青年劇場HPより)

一瞬の光で命を失うことのない様に 私の全てをかけて 一つの戯曲を書きました
「島」 これが私の精一杯の斗いです 私の願いをこめて「島」をあなたにおくります

2018年11月29日(木)



 青年劇場『島』大千穐楽。。

「島」大千穐楽。
浜北文化センター。
静岡初日近辺に観て、最後をやっと。
オープニングから観たかったけれど、前件があって、二幕途中から駆け込む。
自分の仕事のターニングポイントだった作品。
演出とゆう意味が自分の中で大きく動いた作品。
8年かけて(とはいえ初演は3・11より前で、四年たっての旅立ちだったわけだけど)現場で積み上げた集大成、また20数ステージの客席と出会って、どうなったのか、感慨のようなものがドッとやってくるのか…
とも思っていたのだけれど、実際は
終わり。とゆうよりは、
終わらなかった、やっぱり。
だった。

全体が作品の質を識り、
最後だからもあって、余計なこと抜きに同じ方向を見て積み上げる折り重なる確信、太さ。

それでも観ながら思うのは、ダメ書きをしないだけで、ここはこう、あそこはこう、そしたらもっとこう。次のステージの事に頭がいく。
もっと面白くなる。

結局「島」は初演で到達させることのできなかった地点、その「もっと先」の地点に8年経って漸く来て、そこまで来たら、やっぱり「もっと先」があるのだと知った。
不条理劇みたい。
でもきっとこれをモノづくりと呼ぶのですね。

もういいよとなって終わるのか、
惜しまれながら終わるのか、
そりゃあ後者の方がいいとは思いながら、
この確信の中でどうして終わるのかなぁ。。
まあでも、
9年前の初動から関わってくださった全ての方々に感謝します。
今でも忘れない初演初日の静謐につつまれたサザンシアターから数えて136ステージ。
もっと密度が濃く、それ以上の回数やっている印象がありますが、ステージを観てくださった皆さま、ありがとうございました。

堀田清美様
「島」は皆様の手によって生まれ
皆様の手によって育まれ
やっとここまで来ました
ここまで来ても
世の中はどうも学が描いた方向とは違う方へ方へと流れていきます
まだまだこの作品の力が
堀田さんの強い思いが必要な時代です
また近いうちに

感謝


2018年11月28日(水)
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