再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 修了公演パンフレット戯言。。

演出の戯言

演劇とは不思議なものだ。
そこが「北欧の街」である、と宣言すれば日本のこんな板橋区の環七裏が「ノルウェーの片田舎の温泉地」にもなれば、小さなちゃぶ台と畳があれば、「上京してきた学生の話」にもなるし、ついこの間、この空間は「アメリカに海外赴任」している日本人たちの悲喜こもごもが展開していた。女子が男子を演じること、ハタチ過ぎの若者が老人になるなんてこともザラにある。
想像力のチカラをかりて、
世界を創りだすことができるのだ。
そして、俳優は世界を生き、旅し、体験し、発見し、そしてそれを観客と共有する。

そこに『生きる』ことが重要だ。
役それぞれの蠢く人生の一点が目の前の舞台上で交錯し、ぶつかり合い、変化していく。
だから存在同士の『心の交流』がちゃんとそこに在ること。
肌の『触れ合い』がそこに在ること。
俳優自身の想像力が『豊か』であること。
人物たちが『呼吸』していること。
表現者は忘れてはならない。

さて今回、俳優クラスの集大成は近代演劇の父、イプセンの『民衆の敵』。
この難儀な課題に、「私は僕はこうゆう風に解釈しました」の発表なんていらない。「難しいセリフを一生懸命正しく喋ってます」なんて姿はいらない。目一杯心と身体と頭を駆使して、世界を生きぬくこと。その果てに、人間の本質みたいなものがお目見えしますかどうか。

寝る間も、バイトも、プライドも色んなものを削りながら、コロナ禍に寒さに見舞われながら、まさに心血注いで創ってきた面々。でもここからが本当の出発。
少し長旅です。狭いところで恐縮ですが、最後まで彼らの旅を一緒にお楽しみください。


藤井ごう


上質なフィクションは『今』を鋭くあぶり出し、時代を見通すことができる。
今回、俳優クラスとのモノづくりの中で、古今東西の物語って所詮イプセンの掌中なんだよな…なんてことをアラタメテ発見してみたりして… どこかの国の現在地が、百年以上前の作品から見えてくる。

2021年02月20日(土)



 恐れずに。

修了公演の追い込みの時期にも入ってきた。
早く全容が見えて、の時期でもありながら、なかなかそこに行きつく前の状態が続く。

大概の場合、引っ掛かってくるのは
「自分」を「使っている」か「否か」である。
どうも演劇というのはまだまだ「段取」をつくって「役」をつくって、「自分」を置いておいて(つまり自意識というものと大きく関わってくるのだと思うけれど)「別の人物になって」「感情をつくって」、その後起こることを知っているキャラクターたちが、舞台上の「状態を説明する」「受けた感情を説明する」ことになっていることの如何に多いことか。
そして稽古は「それらしきセリフをそれらしく喋る」ことに終始する。
「嘘」を蔓延させる。
今、目の前で行われていることを見ず、用意してきたものに集約させる。
もちろん、全てに渡ってライブ。とはなかなかいけないし、所詮虚構ではある訳だけれど、
作りごとだけのおままごとでは真実の瞬間など絶対に獲得できないし、客席との想像力という武器をつかった共犯関係(舞台上でおこる虚構を互いに信じようとする関係)も機能しない。
「自分」を置いておくことなどできないのだ。
役を演じる、生きるには「自分がその場を感じる」という行為ぬきには語れない。
「役」の好き嫌い、「本」の好き嫌い、「本にある世界」の好き嫌い、「相手役」の好き嫌いその「物語」の信じられる信じられない、全て、「個人」の「経験」や「知識」に基づいて感じられ、解釈される。
その上で、いかに「自分とのちがい」を意識し、「こんなこと言わない」をあくまで「自分は」とちゃんと感じ、「こういうことを言う」人物であると「乗りこなして」いくのかだ。一番真実に近いところは「体験」や「経験」に基づく自分の「身体」「無意識」が行動のヒントになるのだ。

先人がこんなことを言っている。
「演技は本質的には非常に単純だ。
  ある目標を持って舞台に上がる。何かを欲する。
欲するものを追求し、得ようとするさまざまな戦法や戦略を持つことだ。
 そうすれば何が起こるかわかる」
俳優はある場面における登場人物の目標を知らなければならないが、それは俳優にどうのように演じるのかを教えない。「それがその間に追求すべきものの指針を与えるのだ」程度の多少はあっても「どのように」は変化しうる。
「何を求めているかは分かっているが、どのようにそれを手に入れるかは、実際には即興なのだ。」

稽古での目標は、作品に対する「内面の構造と規律を創り出し」それによって演技が一種の「統制された即興」になることだ。
そう、「統制された即興」。だから客席もドキドキする。次がどうなるか、固唾をのんで見つめるのだ。
ここ最近「オールライト」を筆頭に、このことを求めてきていた。

おそらく最大の問題は、ほとんどの俳優が何をすればいいのか、特に外面的な点で何をすればいいのか、演出家・監督に言われることに慣れ、そういうものだと、決めてくれると捉えていることだ。俳優は試してみる、危険を冒す、提案する自由の権利を持っているのに。
近代演劇は戯曲を解釈し、より正しい役づくりを目指してしまった(正しいってなんだろう…)。それによって「正解」「不正解」のテストやクイズに慣らされた日本人は「不正解にならないよう」気を配ることが一義になった。
だがしかし、重要なことは「より豊か」で「より面白い」ことで正しい解釈を乗せることでもないし、その豊かさや面白さは

『俳優の個性によって変わってくる』

ものだ。演劇は、今その場で正に起こっていることなのだ。その場、相手にいかに集中できるかなのだから。

つまるところ、
演出家を先生と思うと、思考が止まってしまう(それ以上の追求を辞めてしまう・他の可能性について考えない)とはよく言ったもので、これが問題だし
あくまでも自分で考え扱い、他人の意見を受け入れ取り入れながら、自分の体験として育てるべきだ。
「わからない」で済ませて見なかったことにする。
「わからない」ならば表現者ならば「追求」するしかないし、
「わからない」ままで済まさない、逆に言えば「わからない」ものに対してこうだという真理を見つけ、そのわからないものの姿を「提示」するのが表現者だ。

イプセンをあらためて若い衆とあーでもないしながら、
彼らに「自分の頭で考える」ということを示唆しながら、このご時世に表現の「プロ」になろうとしている彼らと毎日を稽古場で過ごしながら、
自分の持っている現場について改めて感じている。

表現という場を盗られるような機会も増えてくる中で、
もちろん、生活の補償なり、なるべくダイエットして無駄を省く形が必要なことはよくわかる。でも、僕らの本懐はそんなところにはない。
あくまでも自分を磨いておくことだ。
この現状について、
今について、
ここにいる自分について、
何をするか、すべきか問いかけ
よく見ておくことだ。自分を周りを社会を世界を。
ちゃんと感じて、それを感じる自分を蓄えておくことだ。

壮大なムダに思えることが、輝く一瞬を創りだす。
稽古場だけで変化が起こる訳ではない。

本番が近いからと焦るな、がむしゃらになって自分に足りないものを取りにいこう。稽古場は失敗を重ねていい場所だ。いろんなことが起きていい場所だ。
恐れずに。


2021年02月01日(月)
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