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■ 「オールライト」GPへ。
さて、「オールライト」最後の旅前GPである。 どんな作品もそうだが、まぁ、クローズする時が来るわけで、終わりたいわけではなく、終わっていく。いろんな事情やら、状況やら、理由があったりするから一概に言えやしないのだけど、 しかしいろんなことのあった公演班である。 骨折あり、眩暈あり、骨折あり、役替あり、あわやの脳出血あり、急遽の代役あり、スタッフ替えあり、万全!で、肉離れあり。 奇跡的なのは、一度もステージに穴があかなかったこと。 そして、その後の疑似家族ブームを先取りした感のある、ある意味荒唐無稽な脚本、 ボブ・ディラン再ブームも先取りした、乱暴ながらも愛情溢れる構成、 ある種のファンタジーながら、それを「生活」とゆうカテゴリーで魅せていくために、 舞台上の「人としての存在の仕方」が殊更に追求された。正に現場とスタッフで創り上げた世界。その先の高みを覗くこと、その為にしっかり地に足をつける事。これが、まぁ、驚くほどに難しい。。 人物はそのセリフを喋るために、感情を人のセリフ関係なく、心情を立ち上げるのではないと、わかっていても繰り返す堂々巡り。 本当に、音階で覚え固定化されたセリフの恐ろしいほどの塊り。ほぐすに難あり。変化するに準備されない、開かれない可能性。 でも、作品がつまらない訳でないとゆう、ジレンマ。 結果そこに寝転んで、最後の変化するとゆうエサを他人が与えてくれるのを待ってみたり。わからないを言い訳に続けたり、 で、その事を演者として突きつけられたり、突きつけたり。 結果皆優しいので、ホントにヒトリで向き合わなきゃいけない所に介入してしまう人としての在り方も。そこに実は大いなる人間味とゆうヒントがある。 そうゆう意味で全体が大人になりきれることはなかなか難しかったけれど、 この作品に携わった人の、ビフォーアフターは、単純に場数と経験を積んだ、のとも雲泥の差がある、と思っている。
私自身も、1月の足利、2月頭の養成所「人形の家」、2月終わりの椿組、3月終わりの「クテーラン」と、全ての作品の世界観、表せられ方の違い、信じる表現方法の違いの中にあって、結局は、どこにどう存在して、表立って反応してこない客先の一番後ろにいて固唾を飲んでその世界を見守っている人にどう届けるのか、何を魅せるのか、何を根拠に喋るのか、模索しながら、だからこそ、四年で終わってしまうけれど、それだけの時間を費やせた作品創りの大切さを今更ながら感じている。 もっと、共通理解を共通言語(テンションとかゆうコトバでなく)を増やし広げるための努力の必要 よく言うところの、
人は無くなるとわかって、初めてその大切さを知る、である。
最初の旅初日、長野だった。今回も長野から。 その時のタワゴトー
「芝居は本当にナマモノである。 退廃的な唄になろうが、 大切なセリフが飛ぼうが、 その場に在るかどうか。 である。
そこに在る俳優さんが息づいているかどうか。 共感力を武器として、その世界に観る人をちゃんと巻き込んでいくこと。」
ー言っていることは何も変わらない。動かないことがあるから、言葉が多くなっているのだ、動かす為に。
そしてこれは、 すっかり息抜きはこれになった落語通いの中で、談春が言っていた。
ただ家で噺を口にしているのは稽古じゃないんだよね、いや、お客さんには申し訳ないんだけど、こうやって千人の人を目の前にして、そこで演りあってはじめて、この場がホントの意味で稽古なんだし、そのホントの稽古の数をやってる事が、自分を育てててるんだなってね。(この10年で自分がテレビにも出るようになって、いかに変わっていったか、曲解あり笑)→その後、だから他のやつはダメなんだと続くのだけど(笑)
もちろん、もうあれだけの名人になっているからこその言葉ではあるけれど、同じ時間を、ホールとゆう空間で、人の想像力を借りて牛耳って、その相手は一度として同じではないって意味では同じである。 稽古の質が問われている。 他人の前で変われない人が散見する。(変われないのではなく、心が動かない、のか) 一人ならできる、のかもしれない。 でも、僕らは、人が、他人が見てくれて共有してくれるからこその表現者で、 多くの人の目があるからこそ、心を豊かにJUMPさせることができるのだ。 人に見守られていることをハナから失くすなら、それは表現ではない。 の、かもしれない、と最近強く感じている。 自分の100点ではなく、他者の想像力と出会って、どこまでも幅と奥行きの広がっていく在り方。(そもそも自分の満点を目指す時点で、目的がちがう)
そしてその準備にかける心、身体への探究心。 役への、その瞬間の自分への興味、問いかけ。
最近、可能性についての、舞台上にあるものへの、 要求が細かいと言われたりするのだが、
それって、当たり前だと思うのだが…
各セクションの専門家が、きちんと専門の仕事をし、世界を観客の前に提示するのだ、 演者は役と人間の専門家としての探求(探究)を怠らず。
さて、場当たりだ。 ぬかりのない準備をして、残すところ20ステージ未満の新しい学生さんたちとの一度きりの出逢いを。 圧倒的、であれ。 (とこの午前中に、音響卓がクラッシュするとゆう事態のあることも併記しておきましょう(苦笑)) 肩肘張らずに。
2019年05月27日(月)
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