スカーレットの心のつぶやき
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この数日GYAOで無料の映画を見続けている。
夜に二本見ると12時を過ぎてしまっていて
また寝不足になってしまった。
一番良かったのは「くちづけ」
また「箱入り息子の恋」も良かった。
「瞬」も自分が彼女の立場だったら・・と考えてしまった。
GYAOは見逃したテレビドラマを無料で見えるので
楽しんでいたが無料の映画は何か得した気分になる。
アップロードは違反だとCMが流れるが
見ている人もダメなんだろうと思いながら
これは違法ではないからいいやと思ってみている。
「くちづけ」は精神的障害を持った人たちが
集まる自立支援センターが場面で
障害を持つ娘と父の話に
他の純粋な人たちがからんで
涙を誘う映画だった。
まるで舞台を観ている気がした。
なんでかな・・と思って考えた。
場面がこの家に限られているからだ。
そこへ登場人物が入れ代わり立ち代わり入ってきて
ふつうのトーンより大きな声で話す。
まるで叫んでいるように思えるのは
映画というより舞台を観ている時と同じ
セリフを観客にぶつけているようだからかもしれない。
昔、娘が演劇部で公演をしていたころ
大阪まで観に行っていたが
その時に感じた感覚と同じだった。
娘にlineで紹介した。
時間があったら観てみてと。
この映画で考えさせられることも多かった。
障害者を持つ親が
自分の子を残して死ねない。
子供が浮浪者になり犯罪者になるのではないかと思うと
一人で生きていけない子供を残して死ねないと思う。
そして子供を殺してしまう。
殺人はいけないと思うが
こんな場合の殺人は
ちょっと違う気がする。
世間でも起きている犯罪だが
この場合、加害者に情状酌量がされる。
私がもし親だったら?
反対に娘だったら?
観ていて苦しくなった。
映画は楽しく笑える映画が良いかも。
2015年09月28日(月) |
幸せは3メートル以内 |
ある人が言った。
「幸せは自分の3メートル以内にある」と。
先日終わったNHKの朝ドラ「まれ」でも
主人公が夢について
自分の周りにあるもので
家族と共に食事ができること
友人たちに囲まれて暮らせること
そんな中にあると言っていた。
幸せについては「青い鳥」ではないが
結局身近なものの中で
有難いと思えることなのだと思う。
亡き母が生前よく言っていた。
「毎日が平凡で何もないのが幸せ」なのだと。
若い時にはなんだそんなこと
つまらないじゃないか!と思った。
何かわくわくすること
ドキドキすることがほしい
同じことの繰り返しの生活なんていやだと思っていた。
でも、今、年をとって
母が言っていたことが分かるようになった。
特に今は夫の闘病がある。
私にとって決して平々凡々とした暮らしではない。
若い時のように
平々凡々としていない今が良いとは思えない。
変わったことのない
現状維持が如何にありがたいかわかった。
だから
幸せも3メートル以内にあることも理解できる。
自分が幸せだと思えればそれが幸せなのだ。
大きな夢や幸せを求めるのはやめた。
毎日が元気で暮らせることが
一番の幸せだと今は思える。
今朝は曇っていたので
この間から気になっていた
裏の芝生の雑草刈りと
花壇の草抜きを
2時間弱かけてし終えた。
機械つかって刈り
鍬で掘り起こして根っこから草を抜く。
この作業を二時間弱したら
倒れそうなくらいに疲れてしまった。
朝のうちにしてよかった。
9時ころから晴れてきて
暑くなってきたから
この時間ではやる気が出ない。
パーフェクトには出来ないけど
これなら外から見ても見苦しくない。
刈った後を除草剤をまいた。
3か月に一度薬をまいていたら
あんなにひどく伸び放題にはならないはず。
仏壇の父も喜んでくれるかな?
シャワーをして汗を流して
さあ、これから家の中の掃除をしよう。
今朝1時25分から3時20分までの
「朝まで生テレビ」を久しぶりに見た。
夜中で見るのもなかなかできないのだが
今朝のは潮匡人さんが出演されると知ったし
安保関連法案に対しての
SEALDsの奥田さんが出て
学生デモと日本のこれからの民主主義がテーマだったので
関心があったのが理由だ。
結論はSEALDsの奥田さんが
他の人の議論についていけず
中身のない空っぽな人だったとわかったことが
夜中に起きて見ていた利点だった。
潮さんが話したことは
みんな当然のことであり
小林よしのりさんが言っていたこと
自衛隊が軍隊なのか?
日本の現憲法下では
自衛隊は違憲であるということ
尤もな意見だった。
国際政治学者の三浦さんという女性
この人が一番無難な意見を言っていたが
SEALDsの人は理解したのだろうか。
民主主義については
民主主義の悪の面を再認識した。
民主主義は多数決の原理が存在する。
例えば間違ったことが多数だったら
それが通るということで
怖いことだと思う。
SEALDsのデモについては
民主主義で国民の意見を反映する手段だというが
私にはただのお祭り騒ぎに思える。
日本は議会制民主主義なのだから
国民が選挙で選んだ国会議員が
決めることが正しくないとか
間違っている、国見の意見を反映していない
国民投票が必要だという意見は間違っている。
国民なんて流されやすく
確固たる意見のない人は
多くにつく流行に乗ることが多い。
だから国民投票結果が是ということは言えない。
失敗することも多々あると思う。
まあ以上のようなことを考える機会にはなった。
眠らずそのまま起きていて
アズキの散歩も家事もしている。
きっと今日は眠いだろうし疲れるだろうなあ・・・
昼寝でもしようかな。
2015年09月25日(金) |
川島なお美さんの訃報 |
昨夜は本当に早く布団の中に入った。
午後7時半前だったと思う。
疲れたし本も読む気力もなく
テレビも観る気もしないから
早寝をしようと思ったのだ。
枕元にはスマホを置いて寝ている。
消音モードにしていたスマホに
ニュースが入ったようでバイブ音がして目が覚めた。
画面を見てみると
川島なお美さんが亡くなったと表示されていた。
三週間ほど前
彼女がテレビに出ていたのを観ていた。
黒いドレス姿の彼女が
痩せ方がひどくて見ていられないくらい
痛々しい感じがした。
肝臓の中にある胆管にガンが発生する
体内胆管がんだったらしい。
胆管がんも肝臓の外なら発見もしやすいが
肝臓の中の胆管に出来たときは
はじめは症状もないようで
わかったときには遅く進行している場合が多いらしい。
彼女はきれいな人だ。
その美貌が激ヤセで可哀そうなくらいになっていた。
骸骨に少しの肉と皮があるような
異常な痩せ方だった。
今月初めに見たときに
もしかしたら亡くなるのではないか?と思った。
だから、昨日の訃報はやはり・・という思いがした。
まだ54歳。
若い。
これからまだまだ活躍出来ていただろう。
彼女がガンの摘出手術をした後
抗がん剤治療も放射線治療もせず
食事療法だけで頑張っていたらしい。
女優として最期まで頑張りたいと思ったのだろう。
女優魂はすごいと思う。
私は正直言って彼女を好きではなかった。
でも、彼女の普段の素顔の様子を聞き
ご主人を大事にし仕え女性として妻として
仕事以外にも頑張ってきたみたいで
偉いなあと思った。
日本では亡くなった人のことを悪く言わない風習がある。
亡くなればどんな人も神、仏さまになると
思っているからだ。
悪人も善人も死ねば皆同じということだ。
彼女が一度だけ弱音を吐いたことがあるらしい。
自分の病気が治るのか?つぶやいたことがあるとのこと。
どんなに強い人でも気弱になって当然だ。
彼女がどんな気持ちで逝ってしまったのか?
考えると胸が痛くなる。
彼女の死は残念でたまらない。
心よりご冥福を祈る。
合掌
7月31日に七か月ぶりに退院したが
8月18日に再入院していた夫が
今日退院した。
再入院する時は一週間か長くて二週間の予定だったのに
結局一か月以上の入院となってしまった。
最近ではつまらないの言葉を聞くようになっていた。
今日、一応退院出来て本当に良かった。
これで、毎日往復40キロの道のりを
運転して行くことをしなくて済む。
その分楽と言えば楽だ。
このまま夫の状態が安定して
11月の娘の結婚式に出ることが出来たら良い。
病院に居るよりは家の方が自由だし
精神的には良いはず。
また体調が悪くならないことを祈るばかりだ。
私は昨夜眠れなくて
前に医者からもらっていた
かゆみ止めの薬を飲んだら
やはり、今回もさっきまで効いていて
気分が悪く眠たい状態だった。
結局私には合わない薬というわけで
いくら眠れなくても飲むのをやめよう。
夫が退院したから
食事のことが大変だ。
私一人なら本当になんでもよかったが
そういうわけにもいかない。
頑張らないと・・・
今日は9月23日、秋分の日
秋のお彼岸の中日だ。
良いお天気。
気持ちの良い朝を迎えた。
秋は大好きだ。
私が生まれた季節だからもあるが
なんといっても爽やかで
気持ちが引き締まって
食欲も出てくるし
何処へ出かけても楽しくなりそうだ。
今日は親友の誕生日。
私よりもちょっと早く64歳になった。
メールでおめでとうの言葉を
絵手紙を描いて送った。
彼女の誕生日はいつも祝日で忘れることがない。
秋分の日、
昼と夜の時間が同じで
これからだんだんと昼が短くなり
夜長を楽しめる。
毎朝4時前に行っていた
アズキの散歩も
最近は5時になった。
前は5時は明るかったけれど
この頃はまだ薄暗い。
長袖でないと肌寒い気がする。
日中はまだ暑さが残ってはいるものの
汗をかくことがなくなった。
そろそろ裏の芝生の雑草を刈らないといけない。
夫が入院しているから
忙しくておまけに暑かったから
なんだかんだと理由をつけて
そのままにしていたが
もう限界に近くなった。
夫が明日退院する。
これからどうなるかはわからないが
一応退院できてよかった。
夫が退院したら
私にも時間ができる。
もう少しだけ涼しくなったら
雑草刈りをしよう。
今朝は玄関に国旗掲揚をした。
青い空に日の丸がとても美しく旗めいている。
夫が一週間の予定で入院してから
18日の金曜日でひと月になる。
ベッドの上で過ごす夫の気持ちを思うと
言葉も見つからない。
慰めの言葉なんて何になるというのか。
このところの良くもなく悪くもない状態が
いつまで続くのか?
退院してもまた再入院の繰り返しの人生。
私よりも五才若い夫は
まだこれから自分のやりたいことを
することが出来るはずだった。
病との闘いが
夫の人生において三分の一を占める結果になろうとは
誰が想像していただろうか。
私が知り合ったころの夫は
痩せてはいたものの
健康体に思えたし筋肉もそれなりについて
男らしい体格だった。
でも、今は一日に少しだけしか歩かない状態で
体の筋肉も大分減ってしまった。
人の一生はいつ来るかわからない
自己の最期の瞬間に向かって
一歩一歩近づくものだ。
ゴールが来るのが早いか遅いかの違いで
それぞれの人の人生が変わってくる。
昔から人生50年と言われていたが
今ではその倍になっている。
もうすぐ敬老の日もやってくるが
日本は世界一の長寿国になった。
100歳以上の人もびっくりするほどの数だ。
その一方で若くして亡くなる人も多い。
この差はどこからくるのだろうか。
生まれる前からわかっていることだと
知人は言っていた。
わかっていることを
自分だけが知らないということは
理不尽のようで幸せなことなのかもしれない。
自分の最期がいつ来るかわかっていたら
人は懸命に生きないかもしれない。
最期のゴールが見えないからこそ
毎日を不安なく過ごすのだから。
その意味で夫はどんな風に思っているのか
そばにいる私にも何もできない
今日も夫は朝を迎えた。
20代の教え子に司法試験問題を漏えいした
法科大学院の教授が問題となっている。
司法試験はとても難関で
合格して司法の道に進みたい人たちにとっては
どんなことをしても合格しなければならない。
そんな司法試験の試験問題を
教え子の女性に教えた教授はよかれと思って
彼女に教えてしまったのだろうか。
してはいけないことはわかっていたはずだ。
過去に似たような問題が起きたときは
諮問する立場にあったと聞く。
何故教え子に漏らしたのか?
邪推すれば何か特別な関係があったとも考えられる。
変な想像もしていまう。
名誉棄損だと言われるかもしれないから
これ以上のことは言わないが
私と同じことを考えている人も多いと思う。
彼女は被害者かもしれない。
教えてもらわなくても合格していたかもしれない。
でも、今回の事件で
教え子は今年の試験の判定から外れた。
そして、先の5年間は受験資格が持てないとのこと。
もし、教授から話を持って来られても
彼女がきっぱりと断ればよかったのだ。
断れない理由があったのだろうか・・・
受験した人たちの気持ちを思うと
怒りが生まれるのもわかる。
そして、司法試験そのものへの懐疑も生まれる。
あってはならないことが起きたということだ。
教授の責任、罪は重い。
私は今、私自身のことも含めて
いわゆる親子の間に
何があったかでその人が生きていく道が
違ってくることを学ぼうとしている。
母と私は一卵性双生児と言われるくらい
一心同体で離れられない親子関係だった。
今思うと異常だと言われても仕方ない。
私は母をこの世で一番大事だと思い
母もまた私を一番と思ってくれていた。
と、考えていた。
しかし
最近、いろいろな本を読んでいるうちに
本当にそうだったのか?と疑問に思い始めた。
私が母なしで生きていけないと思ったのは
19歳の時だった。
それからは母を心配させることばかりをしたが
母はいつも私のそばに居て
私の心を支えてくれていた。
そして、母の晩年は私だけが居てくれたら良いと
母の口からそんな言葉が出るくらい
母と私の間には隙間もなく
誰も入り込む余地のない
堅固なものとなっていた。
では
私が幼いころはどうだったのだろうか。
悲しいかな、私には三才ころまでの
母の記憶がない。
覚えていることがないのだ。
母にだっこされたのか?
母と一緒に出掛けたのか?
母に本を読んで寝かせてもらったのか?
何も記憶にないのだ。
母は私を愛してくれていたのだろうか・・・
そんな風に思うほど
母の記憶が欠落している。
母が生きているときに
私の幼いころの話を
もっと聞いておけばよかった。
つくづくそう思う。
もし
母に愛されていなかったのなら
母に疎まれていたとしたら
なるほど
私の形成されたパーソナリティーに納得できる。
母が命の限り
私を愛し慈しんでくれていたとしたら
こんなことを思うのは申し訳ない。
ごめんなさい。
後悔している。
大事なことを話してもらっておけば
今ごろにこんなことを思う必要などなかったのに・・・
人が何かしようとしたとき
何かをしようと思うとき
何を優先的にすべきか?
優先順位を考える。
では
今の私にとって優先順位一位は何か?
考えなくてもわかるように
夫のことだ。
入院中の夫が前のように
健康体には戻らないにしても
家で過ごせるくらいに回復し
退院できること
そして家での日々を私が共に支えること
これが私の優先順位一位のことだ。
わかっている。
誰に言われなくても
わかっているのだ。
だから
私が今の活動の責任者として頑張っていることを
やめれば済むことなのだ。
それはわかっていて
私の心の中ででも
八分目は固まっているのに
決断できないのはなぜだろうか。
良いように言えば
ある意味責任の重さだ。
私が生み育てた子供を
見捨てる気がするのだ。
子供と違って
愛情があるわけではない
愛着とも違う、
うまく言葉に言い表せないけれど
妙な責任感が
私のこころの中にあり
放り出すはめになることが
あまりにも無責任に思えるのだ。
もし、私が手を引いた後
どうなるのだろう・・と思うと
決心がすぐそこまで来ているのに
ここから一歩が踏み出せないでいる。
情けない。
私がいなくなったとして
なんとかやっていくはずだ。
私がいないといけないと思うこと自体が
尊大でうぬぼれとも思われるだろう。
ちょっと大きな勉強会が
いよいよ来週の日曜に
あと一週間後にせまってきている。
この後をどうすべきか?
考えは決まりつつあるのに
決断して伝えることをためらっている
自分がいるのかもしれない。
とにかく
何かをするときには
これが私にとっての優先順位一位なのかどうかを
考えてやっていかねばならない。
裏の雑草がまたまた生い茂った。
雑草の力ってものすごい。
一か月放っておくと伸び放題。
そろそろまた刈らないと。
そう思いながら9月になってしまった。
この数日の雨で土が柔らかくなっているから
抜きやすくなっているはずだ。
でも
まだ今日も雨。
明日は用事があり時間がない。
言い訳をしているような気がするが
出来たらきれいにしたい。
そのうちそのうち・・とおもいながら
ここまで放っておいた自分がいやになる。
せっかく充電式の草刈機を買ったのに
二回使っただけだ。
来週には思い切ってやろう!
水も栄養もやらなくても
あれだけ伸び、力つよく生きている。
私は雑草は大嫌いだけれど
草に生まれたのだから
必死で生きているのだろう。
温室の中で育つ華やかなランの花に比べて
なんと健気なのだろう。
雑草のように生きたいなんて
決まり文句だけれど
これだけの力があれば
どんな逆境にもめげないで生きていける。
食べ物も粗食で良い。
ただ見栄えがかっこ悪くても
それをよしとする勇気があれば。
ただ元気で生きていける。
進歩はない。
でも負けない。
そんな雑草人生もまた良い。
スカーレット
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