スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次過去未来


2012年09月26日(水) 寂しい・・・

私にとっては、唯一血のつながった叔父が

一昨日の夜、亡くなったと連絡が入った。

叔父は満87才、私の母の弟だ。

叔父は松山の少し奥に叔母と二人で住んでいた。

心臓が悪くなってからは

それまでは元気でバイクにも乗って買い物もしていたが

それも、できなくなっていた。

二年前に母が亡くなった時も

叔父はお葬式にも来れない状態だった。

今年の夏、お盆に行ってみようと思いながら

それもせず、電話をしてみたが

つながらないので、叔母と話すこともなかった。

今月に入って、義母や夫がこういうことになり

私も叔父のことが気になりながらも

行くことができなかったことが

悔やまれてならない。

叔父は海の特攻の生き残りだった。

だから、叔父の家に行った時に

その話を聞いてみたが

叔父は戦争反対、天皇陛下を悪く言うので

私もそれ以上、話す気持ちにもなれなかった。

叔父には叔父の考えや気持ちがあったのだろうと思う。

叔父は腕の良い大工だった。

昔の大工さんは自分で設計もして建築していたから

私は誇りに思い尊敬もしていた。

耳が遠くなってからは

会話もスムーズにできない時もあったが

それでも、たった一人の血のつながった叔父だったので

私はとても好きだったし

母が生前には弟のことを心配していたのを知っていたから

もっと、叔父のためにしてあげることがあったのではないかと

悔やまれて仕方がない。

今夜が御通夜で明日がお葬式だ。

一人残った叔母の気持ちを思うとたまらない。

叔父の冥福を心から祈りたい。


2012年09月25日(火) 二人とも順調に回復

自転車事故から20日が過ぎた。

義母と夫は順調に回復している。

義母は、骨がくっついても

その後、歩けるようにリハビリがあるから

入院が長引きそうで

二人部屋にかえてくれた。

夫は、一般病棟に写り

肝臓で入院していた内科病棟で

今、検査をしながら回復を待っている。

食欲がなかったので

そんな人のための食べやすい食事になっていたが

昨日から、また普通の肝臓治療食に戻ったみたいだ。

半分位は食べたとらしいが

本当はこれを全て食べることができるようになったら良いと思う。

5日の夫の手術の時に

娘が帰って来てくれた。

その時に、「お父さんが一般病棟に入ることが出来たら

また、顔を見に帰ってくるね」と言っていた娘が

一昨日、帰って来てくれた。

義母と夫の病院へ一緒に行き

二人の回復している様子を見て娘も安心したみたいだ。

夫とは結構色々な話をしていた。

父親を亡くすところだったのだから

娘の喜びはひとしおだ。

娘は、仕事があるので今日戻って行く。

今回、夫の顔を見て話すことも出来て

安心して仕事ができると思う。

私も本当に安心した。

悪夢だったあの時のことを忘れよう。

そして

これからの夫との日々を大切にしよう。

娘が提案してくれた

家族旅行ができると良いなあ・・


2012年09月20日(木) 一般病棟へ

夫が、HCUを出て本院の一般病棟へ移った。

昨日、行ってみると

夫が丁度お腹のエコーを撮りに

車椅子に乗せられて行くところだった。

部屋は、個室ではなく大部屋。

四人部屋の入口、トイレに近いところだった。

夫がこういうことになって二週間。

悪化するのも早かったけれど

回復するのもこんなに早くするとは

想像もしていなかっただけに

嘘のようだ。

この分だと退院も早くなるかもしれない。

と言っても

夫には持病がある。

その持病が今回の事故で悪化したのも確かだ。

そのためのエコー撮影だったかもしれない。

腹水は溜まってないと思うが

この二週間水分制限がなかった食事が

一日1200ccという制限に変わったと

昨夜、夫からメールが届いた。

サイダーを持って行ってあげたり

アイスを買って持って行っていたが

今日からはそれは止めた方が良いと思う。

塩分制限と水分制限の食事や生活は辛いと思う。

でも、自分の体のためだから我慢しなくては。

私もそんな夫のために

塩分制限の食事作りをしてきた。

入院は長引かないように思える。

もしかしたら

今月いっぱいで済むかもしれない。

このまま順調に回復してくれることを

心から祈っている。

娘も今月末に、父親の様子を見に帰ってくれるみたい。

ICUに居た時の父親しか知らない娘だから

一般病棟へ移れたことを喜んでいるだろう。

今度は安心して帰省できると思う。

夫には、焦らずゆっくり治してもらいたい。


2012年09月19日(水) 秋の彼岸の入り

今日、19日は秋のお彼岸の入りだ。

いつもなら、20日が入りで

23日の秋分の日がお中日に当たるが

今年は閏年なので、一日早くなっているようだ。

実家のお墓掃除に行かねばならないのだが

今年は、義母や夫がこんな状態なので

姉が一人で掃除をしに行ってくれた。

本当に有難い。

私も病院へ行った時にお墓参りをしてこようと思っている。

今朝は、いつもより少し早く起きて

御零具善をこしらえた。

お彼岸まんじゅうや果物も一緒に供えた。

父と母、ご先祖様に手を合せ

現状報告と御礼を言った。

私の嫁ぎ先のお墓掃除とお参りは

今日にでも行こう。

入り花を立ててはいけないと

母が生前よく言っていたが

今回は許してもらおう。

「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるが

まだまだ日中は夏そのものだ。

でも、朝晩は涼しくなった。

今朝は思わずタオルケットをひっぱってかけていた。

この間の台風16合が過ぎ

少ししのぎやすくなった。

このまま秋が来てくれると良い。

義母も夫も少しずつ回復している。

嬉しいことだ。

これも、ご先祖様の御陰もあるだろう。

やはり、今の自分が居ることを思うと

私に繋がるご先祖様を大切にしないといけないと

手を合せながらつくづく思った。


2012年09月18日(火) 嬉しいことが

昨日は、結局、夫の病院に行くことになった。

夫は、今HCUに入っている。

昨日は家で休もうと思っていた私が病院に連絡したら

夫がHCUを出て一般病棟へ移るかもしれないから

一応来てほしいと言われて、夫の病院へ行った。

夫は食べることがなかなか出来ず、脱水・栄養失調状態に見えていた。

でも、毎食ついてくる小さな飲み物

(これが一本で200キロカロリーあり二本飲むと

これだけでも400キロカロリーを摂取したことになる)

を飲んでいる。

一日に最低1200キロカロリーは摂れる。

この他に少しでも口にすることが出来たら

必要量は摂れるのではないかと思っていた。

昨日の夫は一昨日に比べて

顔色も良く、話す声も大きくなっていた。

そして、私が話したことに笑ってくれた。

夫の笑う顔を見たのは久しぶりだ。

また、歩行器を使ってトイレに行っていたのが

昨日は歩行器に頼らず一人で歩いて行った。

勿論、何かあると危ないから私もついて行った。

足取りはまだちょっと覚束ないが

それでも、自分一人の力で歩こうと思ったことは凄いと思う。

夫が笑い、自分一人で歩いたことは

私にとってとても嬉しいことだった。

他にも、昨日は地元の新聞へ投稿した拙文が掲載された。

また、私が尊敬する政治家の先生から電話が入った。

私が最近、ある保守のMLに顔を見せないので

何かあったのではないかと心配して下さったのだ。

先生の時事通信が転載しないまま8通あったのを

まとめて転載することが出来た。

先生からお電話をいただかなかったら

また転載できていなかったかもしれない。

また、来月の講演会の広報をチャンネル桜が

放送の中でしてくれると言ってくれた。

昨日、起きたことは私の気持ちに勇気と元気を与えてくれた。

これからも、色々なことが起きるだろう。

そんな時には

嫌なことだけではなく、また嬉しいことも起きるのだということを

覚えていて、落ち込まないようによう。

夫は、今日一般病棟へ移るかもしれない。

早目に夫の病院に行こうと思う。


2012年09月17日(月) 今度は私が・・・

夫は、HCUに移ってから、同じような状態が続いている。

食事の量が減り

脱水と栄養失調状態になっているのは

傍で見ていてもよくわかる。

この間まで水分制限をされていたが

今は、それも無くなり

尿を出すための利尿剤も飲んでいない。

夫が食事が進まないから

何か、口にしたいものはないかと思い

果物やアイスを持って行った。

炭酸が飲みたいというので

サイダーも持って行った。

私が持って行ったものは口にしてくれる。

持って行って良かったと思うので

毎日、夫の様子も知りたいし病院へ行っている。

しかし、今度は私が家の中で転んでしまった。

アズキの居る部屋にフェンスをして

アズキがリビングに出ないようにしている

そのフェンスを置いているのを忘れていた私は

昨日の朝、早く、アズキが吠えるので

アズキの傍に行こうとして

フェンスに躓き頭から突っ込んで転んだのだ。

顔や腕や足や腰を打ってしまった。

幸い、身のこなしが早かったのか

顔は右の顎のあたりを打撲し

鼻を打たないで済んだ。

そこが青地になっていて少し痛い。

足や腕は大丈夫だったが

昨日の昼頃から腰が痛くなり

歩くのが困難となった。

それでも、寝てばかりは居られない。

家の中ではお尻を突き出すかっこ悪い格好で歩いている。

座っている時はそうでもないが

歩きにくいのが困る。

骨折しているわけではないので

暫くしたら治ると思う。

義母や夫のことを心配しているが

自分自身についても気をつけないといけないと

心から思うようになった。

今日は一日、家でのんびり休もう。

義母と夫の病院へは

看護師さんの詰所に電話して

今日は行けないと話して

それを伝えてもらおうと思う。


2012年09月14日(金) 自分との闘い

3日に、

義母と同じく

自転車に乗って居て転んで骨折をした夫、

それからの日々は生命の危機との闘いだった。

そして、夫は勝利した。

凄い生命力だ。

そんな夫がようやくICUを出てHCUに移った。

ここは、ICUに入るほど重篤ではないが

一般病棟へ入れる程は​

快復していない人たちが入っている、

救命救急センターの中の一つ​の部屋だ。

これまでは面会時間が一日三回と決められていたが、

HCUに入っ​てからは自由にいつでも面会できる。

昨日は義母の病院に行ってから、

夫の病院へ回ったので、

お昼前に​なってしまった。

夫は普通食を食べるようになり、

昨日も昼食は普通食(と言っても​塩分制限食だが)が出ていた。

ICUに入っている時は

命を持続させるために

様々な器械が夫の体中についていた。

それが、酸素吸入だけを残して全て外された。

酸素吸入も常時するのではなく、

酸素の量が減った時だけ鼻に管を入れてしているみたいだ。

つまり、

夫は自分の力でこれから生きていく必要がある。

だから、今までで一番しんどそうな顔をしていた。

黄疸が出ているので、顔も体も目も黄色っぽい。

これは、日にちが経つと段々消えていくらしい。

元々、無口な夫が益々寡黙になっている。

しんどいためだろうが、話しかけるのも気が引ける。

昨日は、炭酸が飲みたいと言った。

看護師さんにそれを伝えると医者に聞いたのだろう、

しばらくして​から良いとの返事を貰った、

下の売店にサイダーを買いに行った。

夫は脱水気味に思える。

水分制限が今もあるので、

一日350CCだけ飲んでいいとのこと

美味しそうに150ccを飲んでいた。

当たり前のことが当たり前に出来ない辛さ。

夫がもし鬱状態になっても仕方ないと思える。

今がどん底のしんどさだと思う、

これから少しずつ楽になるだろう​。

私が代わってあげることは出来ない。

せめて、夫の傍に毎日付き添ってあげることしか出来ない。

義母と夫の病院の両方へ行くことは、

簡単であるようで、大変だ。

でも、私が倒れないように気をつけて、

義母と夫が退院することが​きる日まで頑張ろうと思う。


2012年09月11日(火) 長くて怒涛のような一週間

3日から始まった一週間は

私にとって、

とても長く感じられた。

そして

色々なことが

まmるで怒涛のように押し寄せた

一週間だった。

義母と夫が自転車に乗っていて転んだのは

先週の月曜日だった。

そして、月曜日に行った医者では骨に異常はないとの診断。

でも、あまりにも痛そうなので

火曜日に別の整形へ連れていき

義母は左足を夫は右脇腹の肋骨を骨折していることが判明しだ。

義母が別の病院に紹介され、木曜日に受診することになっていた。

火曜日の診察後、夫は午後から仕事に行った。

私も、少しホッとしていたが

火曜日の午後4時過ぎに

仕事先から電話が入り、

夫が会議中に意識がなくなったとのこと。

そのまま、かかりつけの県病院へ救急車で運ばれた。

私は急いで県病院へ。

夫は内科の処置室で点滴をしていた。

内科の主治医の話では

脳のCTでは異常はない。

血液検査も変わったことはないとのこと。

何故、このような状態になったのか分からないが

夫が呼吸がしにくいと言っているので

過呼吸かもしれないと判断、

点滴をしながらしばらく様子を見ることになった。

午後7時半に点滴が終了した。

点滴中は意識も戻り、会話もできるようになっていた。

私が帰ろうねとベッドから夫を起こそうとしたとき

夫がぐにゃぐにゃと倒れてしまった。

医者や看護師がバタバタとかけつけ

私は処置室のドアを閉められ中の様子がわからなくなった。

ドアが締まる直前に、看護師が夫の心臓マッサージをしているのが見えた。

私はとても不安でたまらなくなり

親友と姉に電話をしてしまった。

親友がかけつけてくれた。

姉夫婦も来てくれた。

夫の肋骨が折れている胸のCTを撮ったところ

折れた肋骨が横隔膜の上の動脈を切り

そこから出血し、その血液が

胸に大量に溜まっていて

肺もパンクした状態で

緊急性血気胸状態だと言われ説明を受けた。

一刻も早く血液を取り除かないと

左の肺や心臓を圧迫して死ぬ可能性もあると知った。

夫は救命センターのHCUに運ばれ

胸に管を入れて血液を抜く処置がされた。

どのくらいの時間が経っただろう。

私が夫の様子が落ち着いたと知り帰宅したら

午後11時頃になっていたから

相当長い間、待っていたことになる。

その時に医者から

まだ出血するようだったら

開胸手術をする可能性もあると聞いた。

その晩は寝たが

5日の水曜日の朝6時半に病院から電話が入り

やはり手術しないといけないから

早く来てくれと言われた。

水曜日は、義母は一日家で待つことになっていたので

朝・昼・晩の食事を作ってまず持っていった。

そんなことをしている場合ではなかったのだが

義母を放っていくわけにもいかず

また事情説明もしないといけなかった。

それで、病院へ着いたのが予定より大分おくれてしまって

夫はもう手術室に運ばれていた。

別の医者から説明を聞き

娘も呼び寄せた方が良いと言われ

相当深刻な状況にあると知った。

手術中、親友と姉が来てくれたが

二人ともびっくりしていた。

娘がお昼に到着。

夫は予定より長くかかったものの

一応、出血している箇所を止血出来て

ICUに運ばれて来た。

でも、夫には肝硬変という病気があり

出血しやすい状態なので

まだまだ余談は許されない

水曜日はICUの傍にある控え室に泊まってほしいと言われた。

その晩は娘と二人で泊まった。

夜中に、医者が来て、悪化している

尿もでなくなったし

輸血もどんどんしているが出血しているし

点滴を入れたので、その水が体中に溜まっている。

人工透析を始める、水も抜く処置をすると言われた。

そして、脳と心臓を生かすために

他の臓器が不全状態になりつつあり

覚悟しいておいてくださいと言われた。

その話を聞いた途端に私は体中が震えて来た、

怖かった。

娘は泣いていた。

なんとか朝を迎えて

一日に三回ある朝の面会をした。

夫の顔は夫ではないくらいパンパンに腫れていた。

体中にありとあらゆる管が付いていた。

まだまだ危ない状態にあると言われた。

私は一晩中眠れなかったし

考えたのは夫のお葬式やその後のことだけだった。

覚悟はしたものの不安がいっぱいだった。

木曜日に市民病院へ行くことになっていた義母のことは

夫の一番上の兄夫婦に頼んでいた。

そして、病院へ連れていってくれたので

夫の病院の帰りに義母の所に寄った。

すると入院していないとのこと

急いで義母の家に行った。

義母の足は手術が必要ではなく

今のまま自然にくっつくのを待つしかないと診断され

入院はさせてもらえなかったと聞き

本当にどうしたら良いのだろう・・

義母は火曜日にMRIを撮ってもらった病院に

入院させてほしいと言った。

翌日金曜日は朝一に夫の面会に行き

一度帰宅してから

母のことを話に整形外科へ行った。

事情を説明して入院を頼んだが

事情があるとのことで断られた。

別の整形を紹介された。

市役所の福祉科へ相談に行ったが

母は介護認定も受けていないので

サービスも受けれない。

今、申請しても申請が降りるのはひと月先だと言われた。

仕方なく、また別の整形へ行き

事情を話したが、やはり入院をさせてもらえなかった。

私は帰りの車の中で涙が出て来て情けなくて泣いた。

私の姉に話をしたら

姉がある病院の関係者に知り合いがいるので

入院を頼んでみると言ってくれた。

その日の夕方に入院させてもらえると連絡があった。

地獄に仏とはこのことだ。

姉に心から感謝した。

夫の病院には朝と昼と夜の三回の面会時間には

必ず、娘と一緒に行った。

娘は心細く、付き合っている彼に連絡していたみたいで

彼が大阪から飛行機でやって来てくれた。

二人は婚約状態にある。

だから、私が住んでいる家に泊まってもらい

行動を共にしてもらった。

夫の病院へも義母を入院させる時にも

一緒になって手伝ったりしてもらった。

義母は無事入院。

夫も一時の危篤状態から脱して生還してくれた。

日曜日に娘と彼が広島と大阪へ帰って行った。

9日の日曜日は

予定していた役員会があり

欠席のつもりだったが

新しい仲間が三人参加してくれるので

顔だけでも出さないといけないと思い

夫の朝の面会のあと、娘たちを見送り

義母の病院へ行き、その帰りに予定している店に行った。

9人集まって色んな話をして

会のこれからのことなども話が出来た。

夫や義母のことがあり、なかなか動けないが

それでも、仲間たちが支えて頑張ってくれると思うと

嬉しくなった。

そして

昨日、事故にあってから一週間、

夫は驚異的な快復をしている。

昨日は体についていた管が外れた。

そして、何と胃の中に入れていた栄養チューブが抜けたから

三時頃にゼリーを口にすることが出来た。

嘘のようだ。

本当に凄いことだ。

夫の生命力が強かったから生還したのだと思う。

ICUからはまだいつ出ることができるか言われていないが

そんなに先のことではないと思う。

そして、

日にちはかかると思うが

HCUへ入り、一般病棟へうつって

きっとまた元気になって退院できると信じている。

義母もひと月入院したら元に戻る可能性もある。

年末頃には二人とも退院できているだろう。

今日は奈良に居る夫の二番目の兄が帰省する、

朝6時に迎えに行くことになっているが

義兄もきっと安心するに違いない。

本当に良かった

一時は神も仏もないと思ったが

今は素直に神様有難うと言える。










2012年09月04日(火) 一難去ってまた一難

夫が仕事に行き始めて

私も少しずつ落ち着き

会のこともできるようになった今日この頃だったが

また、今度は落ち着かぬことになりそうだ。

昨日の午後4時頃

私の携帯へ夫から電話が入った。

仕事中の電話なんてろくなことがない。

案の定、その電話の内容は

義母(姑)が自転車に乗っていて転び

近くの整形外科は運ばれたとのこと。

その話を聞いてまず思ったのは

義母の容体のことだ。

義母は今年満83才、

一人で買い物もし、ご飯の支度もしていた。

何かの時には夫か私が運転をして

義母の用事を済ませてはいるが

一人暮らしを始めて6年なる義母は

私の母と違って、女学生の時の友達や

その他でも友人が居て

結構忙しく楽しく暮らしていた。

その母も、段々年を取るにつれて

目には見えない分、弱ってきていると思う、

だから、自転車で転んだとなると

骨折を心配したのだ。

幸い、左の膝の骨も皿も異常がなかった。

でも、痛みがひどく歩くことが出来ない。

その上

夫は、母のことを知り、

母の自転車を自分が運転しながら

家に持って帰ろうとして転んだというではないか。

夫は、右側の肩、腕、背中を強く打撲して

擦り傷も痛みも相当ひどいようだった。

レントゲンを撮ってもらったが

骨には異常ないとのこと。

そんな夫と二人で義母を家に連れて帰ったものの

これからの生活をどうしたら良いか?

義母は左の膝が痛くて歩けない。

トイレに行くのも難儀している。

食事のことも出来ない。

昨夜は、お寿司を買って晩ご飯にしてもらった。

今朝、義母の所に行くとまだ寝ていたが

昨夜は眠れなかったらしい。

朝ご飯を用意してはあげたが

義母に入院した方が良いのでは?と話した。

昨日、運ばれた病院は入院設備がない。

私の母が生きていた頃

何回か入院したことのある

隣町の整形外科へ入院できないだろうか?

そう思っている私は、母にそれを話した。

数日でいい、

母がなんとか立てるようになるまでの間、

入院してくれたら

夫も私も安心だし、義母自身も楽だろうと思う。

これから、その病院へ行き、医者に話してみようと思う。

それにしても

私のこの十年というものは

父の看護に始まりずっと家族の看護ご介護に明け暮れている。

これが私の生きる意味となっている気がしてならない。

私が先天性心臓疾患を持って生まれて

なんとか、今まで生きて来たのも

今の私になるためのものだったのだろう、

そう思えば、苦労やしんどさも消えるというものだ。

私が元気で居なければという思いも強くなる。

さあ、しばらくは義母のことで私も頑張らねば。


2012年09月02日(日) 昨日、9月1日は27回目の結婚記念日

昨日は、私たち夫婦の

27回目の結婚記念日だった。

夫は覚えているのかいないのかわからない。

でも、私は忘れることはないだろう。

27年前の9月1日はとても暑い日だった。

二人だけで結婚式を挙げるために

松山空港から大阪空港へ。

お揃いのドルチェのセーターを着て

旅立つ私たちを母が見送りに来てくれた。

富山県の立山連峰の山頂の登山口にある

ホテル立山で二人だけの結婚式を挙げることにしたのは

費用もとても少なくて済むし

きっと思い出に残る結婚式になるだろうと思ったからだ。

大阪から北陸周りで立山へ。

下はまだ暑いというのに

氷壁が残っていたし

ホテルでは冷え込んで夜、アンカがほしいと思ったくらいだった。

私たちの結婚式は、ホテルにとって初めてのもので

宣伝のために、式の模様がビデオ撮影・写真撮影された。

今も残っているのだろうか・・・

結婚式の夜は、レストランでお客さんたちに拍手されながら

ケーキカットをした。

登山客たちに拍手されターミナルの中も歩いた。

今、思うと恥ずかしいけど

あの時は夢中だったし、恥ずかしいと思う暇もなかった。

二泊したのが新婚旅行の中に含まれた。

下山して、浅間温泉に一泊

松本市内や安曇野を回って

新幹線で名古屋に出てそこから大阪へ。

大阪から飛行機で帰宅。

三泊四日の式と旅だった。

そんなことが頭の中を走った。

夜、ご飯を食べる時に

お茶で乾杯しながら(二人とも飲めないから(*´∀`*))

これからも末永く元気で居ようねと言ったら

夫もにこっと笑っていた。

昼中に、夫へのプレゼントを買いにエミフルへ。

何を買ってあげようかと迷い

カバンにしようと決め、夫に電話したら

あるから要らないと言われた。

そして、結局、延長USBコードが良いというので

デオデオへ買いに行き、それがプレゼントとなってしまった。

わけわからない・・

まあいいや。

夫が退院して今は仕事に行っていることが

本来は、当たり前のことなのにとても嬉しい。

夫が元気で仕事に行けるように

私が精神的にも、健康面でも支えてあげようと思う。

来年の結婚記念日も無事に迎えられることを信じている。


2012年09月01日(土) (*´∀`*)

昨日は、親友と久しぶりにランチをしながらおしゃべりをした。

彼女とよく行く店は

中華の「助ろく」だ。

上品さはあまりないけれど

値段や居られる時間のことを思うと

他の店にしていても

また、助ろくに戻ってしまう(*´∀`*)

昨日も、11時半に入り

わがままランチを注文。

彼女とメイン料理は同じ「エビチリソース」

副菜は、彼女は「ピータン豆腐」

私は「エビのマヨネーズ和え」

味は良い、

ご飯の量が多かったけど

サラダバイキングもついているし

ドリンクバーもあるし

デザートのみかんゼリーも食べ放題。

これが魅力的なのだ。

また、店の一番奥の席に座ったから

長居をしても目立たない(*´д`*)

電話でも長話をするくせに

会えば会ったで話が弾む。

不思議だ。

近況、子供たちの話

日本のこと、政治の話

などなど

話がと切れることなく話続けた。

彼女とは何故こんなに気が合うのか?

性格は違うし

考え方も違う点も多々あるというのに。

私にとったら、一番の友だ。

親や姉に話せないことでも

彼女には話すことが出来た。

これからも、ずっと友で居たい。

お互いに年を取り

動けなくなったら

一緒に住む?ことは無理だけど

心と心はいつまでも結びついていると確信している。

4時間話をして別れたくせに

昨夜はまた電話で話をしてしまった。

一体、これって何なのだろう・・・(*´∀`*)

また、次ぎもどこか美味しいランチの店を見つけて

一緒に食べてしゃべろうね。

よろしく!


スカーレット