スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次|過去|未来
私が夫と結婚して25年になるが
二人で買い物に行ったのは数えるほどしかない。
買い物は日常的なものは私一人でするのが良い。
ほかの時は大抵母と一緒に行っていた。
昨日はお昼ご飯を母の家で一緒に食べた後
夫が6日から入院するための荷物などの準備をした。
そして、足りないものを買いに行こうということになった。
その前に診断書の県で病院へ行くことになり
私が運転して夫は助手席に座った。
これもまた非常に珍しいことで、
でも、入院する時も私の車で行くことになるから
慣れるのも必要かもしれない。
診断書の件での病院の用事が終わり
帰りにエミフルへ寄った。
下着や靴下類をユニクロで買い、
仕事に行く時に羽織るジャンパーが欲しいというので
二階へあがって探した。
夫が欲しいと思っていたのと大体会うものが見つかり
買うことが出来た。
そして、デオデオによって
夫のアイフォンのシリコンカバーが少し損傷したので
新しいカバーを見た。
夫が買うのをためらっていたので
12月の末の夫の誕生日のプレゼントに私が買ってあげた。
エミフルで二人で買い物は初めてのような気がする。
二人で仲良く買い物をし、喋り、お茶を飲む、
こんなことは今まではなかっただけに
妙に新鮮で、私には嬉しいことだった。
母が亡くなったことで
夫が私に近くなったのかもしれない。
というより、私が母の居ない淋しさを
夫との関係を修復することで補っているのかもしれない。
理由はどうであれ、夫婦が仲良くするのは良いことだ。
もっと早くにしていればよかったと後悔もするが
今、気付いて修復できたことに感謝したい。
これからは、夫の入院、療養と心配なことも多い。
母だけに向けていた私の目と心を
夫に向けて看護したいと思う。
昨日、TVのニュースで
道後のホテル椿館で食事をした人が
サルモネラ菌の食中毒になったと知り驚いた。
23日に母の四十九日の法要のあとの食事を
そのホテルでしていたのだ。
食中毒が起きたのは21日の昼の懐石料理だったとのこと。
たった2日違いでセーフだったことになる。
母の法要に来てくれた人達が
もし、同じようなことになっていたら
たとえ、私に責任はないにしても
一生悔いが残ると思う。
ホテル椿館の懐石料理はとても美味しかった。
生もの、それもサルモネラ菌の食中毒の原因となる卵料理は
さつまご飯に使ったウズラの卵だけだった気がする。
同じ料理ではないと思うので原因は違うかもしれない。
でも、サルモネラ菌による食中毒は本当に辛い。
私が7月大阪の帰りに食べたサンドイッチの卵が原因で
翌々日から下痢と高熱が発症し
入院してサルモネラ菌による食中毒と診断された。
一週間ほど入院して治ったものの
本当にしんどかった。
だから、今回、21日に法要をしていたら
もしかして、私たちが食中毒になっていた可能性もある。
考えたら恐ろしい。
母がきっと守ってくれたのだと思う。
母の姿は見えないけれど
私の傍には母が居る。
いつもそう感じる。
これからも、母は私を守ってくれる。
そう信じているから生きられる。
母ちゃん、有難う!
私が母を尊敬するのは
母がいつでも感謝の心を持って
何事にも「有難い」「有難う」という気持ちで
生きてきたことと、
自分よりも人を優先させるという二つの点だ。
勿論、そのほかにも色々と母はすごいと思うことはある。
結論を言えば
私が、母を超すことは何もないということに尽きる。
今までも、色んなことが起きた時に
考え方を改め、自分自身が楽に生きれるようにと
努めて来たつもりでもあるが
まだまだ、修行が足らない私は
時に理不尽なことに出会うと
ついつい相手に対して不満や怒りを覚えてしまう。
これではだめだ。
私自身がもっともっと徳を積まねばならないと思う。
だから、先日、母の四十九日の法要があった後から
私は誰に対しても、何に対しても
有難いと思うようにしている。
そんな私を神様は見ていてくれると思う。
だからかな・・・
昨日、ある人から私に対して
有難うという言葉をもらった。
何をしてあげたということはないが
私と居て幸せな時間を過ごすことが出来るとも言ってくれた。
こちらこそ、本当に有難い。
別に何をどうしたということはない。
でも、私が誰かの人生の中で
ひとつでも感謝されることをしていたとしたら
それは私も嬉しいことだ。
ただ、感謝する気持ちは
相手に伝わらないこともあるかもしれない。
それでも、私は相手は相手と思えるようになった。
相手がどう取ろうが、それは相手の問題である。
私が相手に意地悪な気持ちもなく
真心を持って接していれば
きっといつか、相手も分かってもらえるのだと思う。
だから、私はこれからも感謝の心で生きて行きたい。
生かされているということ自体が
本当に有難いことなのだから。
昨日、姉と二人で城川町の「かまぼこ板の絵展」を見に行って来た。
今年は母が出展しているのだ。
最初で最後の作品となったが
今年の春、癌センターから退院して
母の家の庭いっぱいに咲いている
赤いチューリップを描いた。
母はきっとしんどかったと思う。
かまぼこ板に色鉛筆で塗るのは大変だ。
私も少し縫ってみたが
アクリル絵の具で描いた方が大分楽だった。
それでも、母は一生懸命に描いた。
題名は「春が来た、私の心に春が来た」とつけた。
母にとって春が来たと本当に思えたのだろうか・・・
自分自身の病気が治ることはないと
分かっていたはずだが
それでも、春が来たという気持ちになったのかもしれない。
母の作品の一番上には
娘のアルパカが置かれていた。
そして、私の60枚の作品が
母を取り囲み
母のチューリップの下に
私のチューリップと母への思いを描いた
お守りの絵が並んでいた。
父と母の写真を持って行って
展示されている母の作品を見せてあげた。
私の胸には母の遺骨が入ったペンダントを下げていた。
母と一緒にかまぼこ板の絵展に来れたのだ。
涙が出てきた。
姉も同じ思いだったに違いない。
帰りに、母と一緒に写していた
大きな銀杏の木の下で写真を撮った。
そして、やはり、母と来た時に
いつもお昼ご飯を食べていた
道の駅によりお昼を食べた。
母の祭壇にお供えするお土産を買い
姉と母の思い出を語りながら帰った。
お天気も良く、山々は赤や黄色に色づき
きっと母が居たら
「わ〜!!綺麗」と歓声を上げていたに違いない。
来年の作品はまだひとつも描いていない。
もう描けないと思っていたが
母の描いたチューリップが
来春も咲いたら
今度は私がの思いをつなげるためにも描いてみようかなと
そんなことを考えている。
2010年11月26日(金) |
メモリアルペンダント |
先月亡くなった母の四十九日法要を済ませた。
これで母も父の元へ無事に行ったのだとほっとする気持ちと同時に、
猛烈なさみしさが私を襲ってきた。
毎朝、母の御霊具膳を作り、
お茶とお水を供え、花の水を取りかえる。
また、七日毎にお団子を作りながら四十九日を迎えた。
でも、どうしても
母が居なくなったという現実を受け入れることが出来ない。
夜になるとまるで幼子のように母を探し求めている私が居る。
だから、四十九日に納骨をすることが出来なかった。
何をするにも母の遺骨に話しかけている私にとて
母の遺骨が目の前からなくなってしまうことはとても辛い。
そんな私に友人が「メモリアルペンダント」があることを教えてくれた。
早速取り寄せ、母の遺骨をペンダントに入れ首からかけた。
これでいつでも母と一緒に居られる。
母がいつも私を、守ってくれる。
そう思うと何となく心が落ち着いた。
ペンダントをつけて城川町の「かまぼこ板の絵展」に
母の作品を見に行こう。
辛くてたまらなかった納骨も、
一周忌までには出来るかもしれない。
「母ちゃん」と呼びながら今日もそっとペンダントを握りしめている。
母が亡くなってから
一番、母が居ないことを実感し
悲しくてたっまらなくなる時、
それは、高島屋へ行った時だ。
家に居る時は
母の遺骨に話しかけ
自分で母の返事を口に出して会話しているから
悲しくて、淋しくて、たまらないというよりも
まだ、母は死んではいない
私の傍に居てくれるという気がしているが
母と一緒に行っていた場所へ
私一人が行くことが
こんなにも辛いことだと改めて思うのが
高島屋へ行った時が一番なのだ。
昨日は一昨日の四十九日の法要に欠席はしたが
お香典をいただいていた人へ
志を送ろうと思って高島屋へ行った。
品物を選び発送の手続きをしてもらったら
丁度お昼の時間になった。
母と一緒に高島屋へ行っていた時は
9階の中華レストランでお昼ご飯をよく食べた。
私一人が店に入って食べたことはない。
必ず母と二人で食べに行った。
だから、母の死後は高島屋へ行くことも
ましてや、四川飯店で一人が食事することは
絶対に嫌だと思っていた。
でも、昨日は自分自身を試すつもりもあり
勇気を出して店に一人で入った。
そして、いつもと同じものを注文した。
母はいつも焼き飯を注文していた。
私は焼き飯か、あんかけ焼きそばを注文していた。
量的に母や私には少し多めで残すこともあったが
母は美味しいとこの店をとても気に入っていた。
あんかけ焼きそばが出来上がるまで
テーブルに一人で座り
母と向かい合わせに座っていたころのことを思い出した。
焼きそばが出来上がり
箸をつけたが、やはり急に涙が出てきた。
母との思い出の多い場所へ行くことは
まだ、私には無理だった。
急いで食べ終え、店を出て高島屋を後にした。
車の中で泣いた。
家に帰って、母の祭壇の前に座り込み
母に話しかけた。
「母ちゃんと一緒じゃないとつまらない」
「母ちゃん、どこに居るの?」
まるで子供のように母に甘えている私が居た。
まだまだ、本当に立ち直れていないのが分かった。
四十九日の法要のあと、納骨をしないで良かった。
母のお骨の前で私は母を感じている。
やはり、母の居ない私の人生なんて考えられない。
母に会いたい・・・
昨日は、母の四十九日法要を行った。
10月14日に亡くなったので
本当の四十九日は12月1日である。
でも、平日なので勤め人の都合を考え
皆が集まってくれることが出来る休日にしたのだ。
四十九日までは、
母の魂はこの世とあの世を行ったり来たりしているという。
だから、法要はしたものの
母の魂はまだ私の傍に居てくれるのだと思う。
昨日は朝早く起きて四十九日用のお団子を作り
ミスのないように段取りをし
注文していた49個のお餅を取りに行き
10時にお寺に着いた。
母の好きだった花、
白色のカサブランカを花瓶に生ける。
お団子やお菓子や果物を供える。
母の遺影と遺骨をまつり
お坊さんの読経が始まった。
姉をはじめ親戚の人たち13人の
小規模な法要だったが
お寺を出て
場所を道後のホテル椿館に移し
ささやかな食事をしてもらった。
母を偲んでくれる人たちばかりが集まって
母の思い出話やそれぞれの話しなど
あっという間に2時間半が過ぎた。
お昼御飯にあんなに量も多く
内容も濃い食事はしたことがなかったと
出席してくれた人たちが皆
満足して帰ってくれたのでほっとした。
今朝も母の御霊具繕を作り
六七日のお団子を作り
お茶や水やお花の水を替え
いつものように母の前で手を合わせた。
四十九日に当たる12月1日までは
同じようにまつっていく。
明日は遺骨ペンダントが届く。
段々と母との別れが近付いているのだなあと思うと
言葉にできない淋しさを感じる。
大阪から帰って、睡眠時間も3時間だったが
疲れているのか疲れていないのかも分からない状態で
昨日も家のことでバタバタしていた。
今日は、明日の四十九日法要の準備をしないといけない。
何か、義務感で動いているから
私も疲れていると感じないのかもしれないが
実際は色んな思いがあり
心身共に悲鳴を上げたい感じがする。
こんなことでどうするの?
でも、夜になると母の祭壇の前に座りこみ
母の名を呼んでいる私が居る。
納骨はしないと決めたから
まだ、母の傍に居られるという安心感があるから
なんとか忙しくバタバタしている毎日の中で
自分を保てるのかもしれない。
これで、12月1日の本当の四十九日が過ぎ
今、生きがいとしていることが
皆しなくても良いようになった時
私はいったい何をして生きればいいのかわからず
きっとまた落ち込むに違いない。
そんな日が来ることが怖い。
まだ、昨日や今日や明日のように
自分の気持ちを確かめる暇もないくらい
バタバタとした時間を過ごすのが良いのだろう。
そう思わないと生きていけない。
母が亡くなって、鬱になりかけていた私が
元気を出して頑張ろうと思えるようになったきっかけは
ある人が私に今までのように
日本のために頑張れと励ましてくれたおかげだ。
その励ましがあったからこそ
昨日の大阪デモに参加することが出来た。
朝5時35分発のバスに乗り梅田に10時半に着いた。
それから西梅田へ行き四ツ橋線に載って集合場所へ。
11時から準備ということだったので
丁度11時に着くことが出来た。
でも、もうすでにお手伝いの人たちスタッフの人たちが大勢居て
国旗や風船等の準備はほとんど終わっていた。
初めて参加した女性と知り合いコンビニへお昼を買いに行く。
12時半から集会が始まった。
私も県本部代表として紹介されたので挨拶をした。
西村眞悟先生が私に近寄ってくださり
先生から力強く手を握り締めてくれた。
きっと、母のことをご存じだったから
無言で励ましてくださったのだと思う。
西村先生や三宅先生、水島社長や地方議員の先生の挨拶に
会場に集まった人から大きな拍手が沸いた。
デモは14時から15時半まで
6つのグループに分かれて歩いた。
総勢3300人が参加したという。
林立する日の丸は壮観だった。
難波の高島屋前で街宣が始まると
本当に大勢の人たちが日の丸を持って取り囲んだ。
田母神代表や西村先生、三宅先生、水島幹事長の演説は
本当に素晴らしく大きな歓声と拍手が響き渡った。
心を揺さぶる話しに涙が出てきた。
日本人の魂を見た気がする。
日本人のDNAは何かあると日本のために命をかけることが出来る。
英霊の方々の血が我々に流れているのだ。
中国共産党打倒、民主党政権打倒、日本を守るぞ!という
強い意志が皆の歩く姿、日の丸、大きな声に表れていた。
参加して良かったと思う。
きっと母も喜んでくれているはずだ。
帰宅したら日付が変わっていたが
それでも、しんどさを感じなかった。
それだけ充実した一日だったということだ。
12月1日には東京でも国民大集会がある。
きっとまた素晴らしい集会となるに違いない。
昨日はちょっと嬉しいことがあった。
母が亡くなってから
心の晴れる日がなかったから
昨日の出来事は
私にとって暖かい風のように感じた。
午後、私が携帯を持たずに外出していて
母の家に帰ると着信履歴が。
誰?と思って見てみると
娘からの電話が入っていた。
普通、私が用事で何度連絡をいれても
なかなかつながることがない。
娘からの電話は必ず用事のある時だ。
それも、あまり良い内容ではなく
体調が悪い時が多い。
だから、かけなおしたときも
何だろう・・と少々不安だった。
でも、娘の話を聞いて体調不良ではないし
話しの内容がとても良いものだった。
多分、娘も嬉しかったに違いない。
それと同時に新たな不安もあるだろうが
娘が自分の足で歩き始めた第一歩でもある。
親として嬉しかった。
早速、夫に電話をした。
夫も嬉しそうだった。
ただ、あまり期待しすぎるのはやめよう。
話しがダメだったときのことを思うと
ショックが大きいかもしれない。
なるようにしかならないから、
気楽に結果を待とう。
母もきっと守ってくれる。
良い結果報告を待ちたい。
昨日は、母の五七日だった。
朝3時半に起床。
御霊具膳を作り、花の水を代え
その後40個のお団子づくり。
段々慣れてきて大分、うまくなった。
要領も分かってきたので失敗もしない。
上新粉1袋につき200CCのお湯を入れてこねる。
このこねるのがなかなか大変。
手首が痛くなるほどこねてこねて・・粘りが出たら
四等分にして
一つから10個のお団子を作る。
その間に蒸し器の用意をして
丸めたお団子を蒸し器に入れて5分蒸すと
外がつやつやのお団子が出来上がる。
それを20個ずつ三角錐の形のお団子にしたら出来上がり。
時間も大分早くできるようになった。
売れるかも?なんて一人で悦に入った。
家中を綺麗に掃除、外回りも掃除、
夜には親戚のお坊さんが拝みに来てくれることになっている。
さて。午後6時、
姉夫婦も夫も来てくれた。
熱いお茶と薄墨羊羹で一服。
30分ほど雑談をしていたが
お坊さんがいっこうに来ない。
なんで?と思った。
しばらく待ってみたが、お寺に電話をしてみることにした。
すると今日は用が出来ていけないとのこと。
連絡をするのを忘れていたと言う。
じゃあ、仕方ない。
姉夫婦と私たち夫婦の計4人で
私が毎日唱えている、般若心経やそのほかのお経を唱えた。
朝から、緊張してなんだか損をした気分。
それでも、母の供養は出来た。
23日はいよいよ四十九日の法要だ。
12月1日の本当の四十九日までは
今まで通りのことをしてあげようと思っているが
23日の法要が済んだら、ほっとするに違いない。
早いものだ・・
14日(日)の午後、
喪中葉書を郵便局へ出しに行った。
本当は20日過ぎに出そうと思っていたが
姉が喪中葉書が届くようになったので
早く出した方が良いと言うので
それもそうかなあと思い投函した。
昨日は、喪中葉書をもらったと言って
数人の人から連絡が入った。
そして、夫の兄夫婦が知らなかったと言って
母をお参りに来てくれた。
普通は夫が自分の兄弟に知らせるのが当然だと思うが
それを、夫に話すと喧嘩になりそうだったので
もういいやと思っていた。
でも、お参りに来てくれるかどうかは別にして
義理の関係なのだから
仏事の時は連絡だけすべきだと改めて思う。
もう一人は私の心臓の病院で知り合った友人だ。
彼女は明日、ご主人と一緒にお参りに来てくれるとのこと。
有難い。
人と人との関係はこんな時にどうだかわかる。
心と心の付き合いが出来ている人たちは
私の母のことを知ってお悔やみを言ってくれる。
私もこれからは、そういったお付き合いを大事にしたいと思う。
夕方に別の人から電話が入った。
母の家を建てる時にお世話になった人で
その後も個人的にお付き合いをさせてもらっていた人だ。
母のことを話したものの
その人の事情を聞いて、母のことどころではないと思った。
人生って色々ある。
言うか言わないかで、それぞれの事情を抱えているのだ。
また、母宛の喪中葉書も二枚届いた。
母が誰と年賀状の交換をしていたのか
私にはわからないので
母が亡くなったことを知らせていない。
年が明けたら、年賀状をいただいた人たちに
私から母が亡くなったことを書いて
寒中見舞い状を出そうと思う。
今日は母の三十五日、
とても大切な日だそうだ。
夜、親戚のお坊さんが拝みに来てくれる。
姉夫婦と夫も来てくれる。
さあ、綺麗に掃除をしておこう。
巳午のための藁がなくて
娘の友人のお母さんの家で(農家もされているので)
藁は置いていないかどうか?尋ねていた。
すると、昨夜、藁をいっぱい持って
母の家を訪れてくれた。
お飾りが出来るくらいたくさんの藁、
有難い、心から感謝、とても嬉しかった。
一緒に手紙を手渡された。
一昨日、友人に電話して藁があったら戴きたいと
話をした時に、母のことを初めて話した。
友人のお母さんは十数年前にお若くして亡くなっている。
その時の彼女の気持ちが
今になって痛いほどよく分かる。
お母さんの居ないご実家に帰るのがとても辛かった、
どこにもお母さんの思い出が残っているから
本当にさみしく、一年くらいは自分でもどうにかなりそうな
そんな気がしていたと話してくれた。
だから、今の私がこうして気を張り詰めているけれど
いつか、淋しさに耐えられなくなって
ぐしゃんとなってしまうのでは?と気遣ってくれた。
その時に、私がまだ納骨はしたくないのよと話したから、
彼女の手紙の中に
遺骨を分骨したり、ダイアモンドにしたり
またペンダントにしたりする方法があると書いてあった。
インターネットで遺骨と打ち込んで検索してみてと書いていた。
そこで、今朝、検索してみたら
本当にいろんなものが出てきた。
ダイアモンドを作るのから
遺骨を入れるものまで
値段もピンからキリまで色々あった。
母といつも一緒に居られるために
遺骨を入れるペンダントを買おうと思っている。
ペアペンダントがあって
半分ずつ、母の思いを共有できるものもあった。
母が大好きだった、娘とペアのペンダントを作ってもらおうか?
母の遺骨を分骨してしまっておく袋は作ったけれど
母への思いと母の存在感を確かめられるものが欲しい。
娘に相談してみよう。
母が亡くなった後の私のことを心配して
大阪に居る娘が、私に犬を飼ったら良いと言っていた。
確かに、淋しさがまぎれると思う。
でも、母の家は父も母もとても綺麗好きで
室内外をいつも綺麗に掃除をしていたから
母の家の中で犬を飼うことは不可能だ。
たまたま、昨日行ったペットショップに
可愛い犬がたくさん居た。
シーズーやポメラリアンやマルチーズ
そして、トイプードルは室内で飼わないといけない。
可愛いのは確かだ。
見ていても飽きない。
このまま家に連れて帰りたいとまで思った。
店の人に柴犬は?と尋ねると
注文すれば手に入るとのこと。
柴犬なら外で飼える。
柴犬の中でも小型の豆芝が居れば一番良い。
昨日の店に居たのは
柴犬よりも賢くて飼いやすいという
ジャック・ラッセル・テリアだった。
顔は可愛かったし結構人気もあって
数人の人たちが入れ替わり立ち替わり見ていた。
しばらく、店の人と話して店を後にした。
家に帰り、色々と考えた。
犬は可愛いに違いない。
そして、犬と過ごす時間を持つことによって
私の淋しさも少しは減るだろう。
そして、最低10年間は、私も元気で
犬を世話するために頑張らないといけない。
私の性格を考えると、また犬に必死になって
どんなことがあっても犬優先な生活を送るようになるのではないかと。
また、娘は犬に会うためにいままでよりも再々帰ってくれるかもしれない。
それでも、よく考えてみないと
一度飼い始めたものの
途中で世話が出来なくなった時
犬に対して申し訳ない。
結局、何をするにもそれなりの覚悟が居るのだ。
ネットで豆芝を検索したら
大阪の高槻市に豆芝専門のブリーダーが居るようだ。
大阪に住んでいたら見学にも行けるのにな・・
色々と考えてみよう。
そして、もし飼う決心・覚悟が出来たら
その時には可愛い可愛い犬を飼おう。
昨日は13日で4年前の6月13日に亡くなった
父の月命日だった。
母がまだ元気で、私の車に乗ってお墓参りに行ける頃は
毎月、母と父のお墓参りに行っていた。
今年の春以降、母の体調が段々悪くなったので
家の仏壇で手を合わせてはいたが
お墓参りは姉がいつも行ってくれていた。
昨日は、母の写真を持って父のお墓参りに行った。
お墓の周りの草を抜き
お墓をブラシとタオルで掃除し
お花を新しいシキミにかえ
線香を立て、父の好物だった薄皮まんじゅうを供え
手を合わせた。
父に母のことを報告した。
本当なら今月23日には父の傍に母も入るのに
私がまだ気持ちの整理もつかず
当分、納骨はできないからごめんねと謝った。
父はちょっと淋しそうだったけれど
私の気持ちはわかったと言ってくれた。
掃除をしていたら姉夫婦がやってきた。
綺麗な服を着て、お墓参りをしている姉夫婦。
私は掃除をするから普段着で来た。
まあ、それは良いけれど、何か姉とはしっくりこない。
こうして段々と気持ちが今まで以上に離れて行くのだろう。
それも仕方ない。
母が居てこその姉妹だったのだから。
姉とは深く付き合うことはできない。
でも、姉妹の縁を切ることはできないのだから
喧嘩しない程度に近所の人付き合いと思ってやっていこう。
30分ほどお墓の前に居て暇を告げた。
そして、母の弟であり私の残っている唯一の叔父の所へ行った。
叔父は体調を崩していて母の葬儀にも参列できなかった。
一昨日、病院の診断結果が出ているはずだったので
叔父と話が出来なくても叔母と話そうと思って行った。
叔父のお見舞いと、おかゆやリンゴや食べやすいものを持って行った。
叔父の姿は見えなかったので叔母から話を聞いた。
叔母の話しによると叔父の病気は心配していたものではなかったとのこと。
良かった。
きっと母も喜ぶに違いない。
でも、叔父も父が亡くなった年齢と同じだ。
心臓にも持病がある。
くれぐれも無理をしないで元気で居てほしい。
叔父には直接は話せなかったけど
叔母に私の気持ちを伝えて、叔父の家を出た。
帰りの車の中で母と会話した。
母は叔父のことを心配していたから
悪いものではなかったと知ってとても喜んでいた。
父と母が叔父を守ってくれたのだろう。
お墓参りをすると心が落ち着く。
母の納骨が済んで、お墓じゃないと会えなくなるのは嫌だ。
母とはいつまでも一緒に居たい。
たとえそれが私のわがままだとしても・・
色んなことが私の心の中でぶつかりながら
それでも、何かを決め、それに向かって進むべきだと
この数日の揺れ動きの中で思っていたが
昨日、一つのことを決めることが出来た。
それは20日に行われる
「頑張れ日本!全国行動委員会」大阪本部のデモへの参加だ。
母が悪い頃から、代表を続けることはできないと思っていた。
いつか退く覚悟もできていた。
今もその気持ちはある。
でも、愛媛県本部を代表してその存在を紹介してもらおうと思った。
ほかの県に比べると活動も少なく、弱く、情けないのだが
それでも、立ち上げたのは結構早かったし
私たちのできることはしたいという気持ちは強くある。
だから、愛媛は愛媛なりにしたので
良いのではないかと思えるようになった。
20日の大阪デモには田母神代表や水島幹事長
そして、大阪の西村先生や三宅先生も登壇される。
今の私には少々強すぎるかもしれないけれど
それでも、何もしないで家に居るよりは
少しでも元気になれるのではないかと思う。
決して気分転換ではない。
また、今後私が代表をずっと続けることが出来るかどうかも分からない。
でも、それはそれ、
今、私にできることは
天風先生の教えの通り
心を元気にして、動くことなのだと思う。
心と体を統一してやりとげる。
天風先生の言われる6つの力は
「体力•胆力•判断力•断行力•精力•能力」だ。
この6つの力のどれも、私はまだまだ身についていない。
能力もなく、体力もなく
判断力も、断行力も乏しい私が
少しでも近付くために何かから始めようと思った。
頑張ろう。
気持ちをしっかり持って生きよう。
今日は父の月命日だ。
お墓参りに行って母のことを父に報告しよう。
明日は母の月命日でもある。
四十九日が終わっても、父の側にはまだ行かないから
ごめんねと言って来よう。
昨日は、親友と会ってお喋りの時間を持った。
いつものように、笑いながら話している自分が
とても不思議だった。
話す内容は、やはり母への思いや
今の私の不確かな思い、
そして、今後、私はどうしたらいいのか・・などなど。
彼女と会っている間は
母への思い、募る悲しさから少し遠ざかることが出来た。
人って本当に不思議だ。
心の中から楽しくなくても
話しているうちに
苦しさや切なさが少し、小さくなっていったのだから。
やはり、人は一人では生きられないのだろう。
彼女に会う前に、
私が作った大東亜戦争のHPでお世話になった人から電話が入った。
宮崎県の人に私のHPを教えたいから
どうしたら見えるか?と尋ねてきたのだ。
私は「スカーレットの部屋」で検索して
「アジアに生きる大東亜戦争」の項目をクリックしたら見えますと応えた。
見えたと電話が入った。
数年前に作成した時の
あの私はどこへ行ったのだろう。
日本のために頑張ろうと必死になっていた私は
一体、どうなったのだろう。
彼女と話していて気付いた。
私は今、何をしたいのか?
何をしている時が一番落ち着くのか?
それが分からないのだということに気付いたのだ。
試行錯誤しながら、何かをしていくのが
今後の私の歩く道を見つける一番良い方法なのかもしれない。
やってみる。
やって嫌だったらやめれば良い。
天風先生のCDを聞きながら
私の心と身体はバラバラなのだと気付いた。
心身統一することができればいいのだとも。
心元気が一番なのだ。
悩むことも苦しむことも
全て、私が私を縛っていることなのだから。
解放してあげないといけない。
この思いから。
彼女との会話、
知人からの電話、
天風先生の言葉、
全てが私へのメッセージなのだ。
気分転換は一時のもの。
気分転換ではなく
気持ちそのものを切り替えねばならない。
昨日の夕方、頑張れ日本!から
10月20日の大阪デモへの誘いの電話が入った。
今回は全国の県本部の代表が集まり
水島幹事長が紹介するのだそうだ。
以前の私なら、即行くと返事をしたと思う。
愛媛県ではなかなか活動はできないが
大阪での活動には参加したいと決めていたからだ。
先月の末頃に予定されていた
大阪デモにも参加するつもりだった。
台風で中止となったから結果的には行けなかったが
次回のデモには参加すると伝えてもいた。
それが今月になり、段々と色んなことから手を引きたくなった。
癒しを求めている私にとって
デモはあまりにもしんどい。
心が疲れてしまいそうだったから。
でも、尖閣問題をはじめ
今の日本は危機にある。
こんな時だからこそ、抗議の声をあげることが必要なのだ。
分かっている。
大阪デモに参加すべきだということも。
なのに、出来ないのだ。
情けない・・
本当に情けない・・・
昨日は、高島屋へ
23日に予定している母の四十九日法要で
来て下さった方たちへ持って帰ってもらう
お土産と言ったら変だが志の品を買いに行った。
私にとって、高島屋は母との思い出がいっぱい詰まっている場所だ。
娘が生まれ、母と私と赤ちゃんの娘と三人で行った頃から
母がまだ杖をつかずに歩ける頃も
そして、カートを押して歩いて行った頃まで
いつも母と一緒に行っていた場所だ。
たまには、私が別個に一人で行ったこともあるが
考えたらそんなのは本当に数少ない。
それだけ、高島屋は意味のある場所なのだ。
だから、昨日、用事があるとは言え
高島屋へ行ったことは、落ち込んでいる今の私には
とても酷なことだったと思った。
あらゆるものが母の思い出と重なって見える。
7階で北海道展をしていたようだが
覗いてみる気にはなれなかった。
母と試食をしながら見て回ったことが
つい昨日のように私に蘇ってきたからだ。
あまり長い時間は居たくない、
そう思った私は、地下でお菓子を注文し
出来上がるまでの15分をフードコーナーで過ごした。
これがまたいけなかった。
大判焼きの店の前で、また母への思いがよみがえった。
母は高島屋の地下で売っている
大判焼きが大好きだった。
ここのが一番おいしいと言っていた。
母が美味しそうに頬張っていた顔を思い出した。
涙が出てきた。
急いで涙を拭い、隣のジュースのコーナーへ。
カップソフトを注文して椅子へ座った。
そうだ、この場所も母とよく座った場所だった。
フレッシュジュースを注文して半分ずつ飲んだこともある。
買い物の途中の一休みには丁度良い場所だ。
泣きたい気持ちをぐっと抑え
アイスを食べ終え、注文していたお菓子のコーナーへ行った。
店員さんが、3階の駐車場まで荷物を半分持って来てくれた。
彼女に母のことを少し話しかけたのだが
二人とも涙ぐんでしまったので
店員さんに悪いと思い、そのあとは笑顔で接した。
誰かに、高島屋が母と私の思い出の地であることを
話したかったのかもしれない。
店員さんは、私が車に乗る時
荷物を置こうと後ろの座席を覗いて
そこにリラックマがシートベルトをして座っているのを見つけた。
「そうなんです、ここはいつも母が座っていた場所なのです。
母が好きでベッドに寝かせていたリラックマを
母の代わりに乗せているのです・・・」と私は言った。
何もかも、私の周りにあるもの全てが
母との思い出につながっている。
これからも母との思い出と共に生きて行くに違いない。
そして、それが私にとって一番望むことであり
母のことを絶対に忘れたくないという
私の思いの証しなのだ。
それにしても、私には母の思い出が多すぎる・・
悲しみや淋しさが大きければ大きいほど
言葉で表すことが難しいということを
母を亡くしたことで思い知らされた。
同じ思いをした人でも
それは100人居れば100通りのものがあり
それぞれを比べることなどできない。
姉と私と、同じ母の娘であっても
きっと今の思いは違うのだろう。
なんとも言えない無力感、
ぽっかりと穴のあいた心に
どこからか冷たい風が吹き込んでくる。
母の遺骨の前に座り
線香を立て、般若心経を唱えても
一向に心は晴れることなどなく
かえって悲しさが募るばかり。
これで、もし遺骨が私の傍からなくなったら?と思うと
想像すらできないたとえば気が狂いそうになるほどの
淋しさに襲われるに違いない。
それなのに、姉は四十九日の後納骨をすべきだと言った。
もう、姉とは会いたくもないし
話しもしたくない。
何故一般常識とか、普通とかの言葉が出るのか?
姉には言葉にならない思いがないのか?
所詮それだけのことだったのか?
様々な思いが私の心の中を走る。
ああ〜私は気がおかしくなりそうだ。
私にはもう何もない。
私にはもうすべきことはない。
毎日がただ母と共に過ごした時間の回顧で過ぎる。
過去は過去、
未来を見ないといけないとは思う。
でも、私には母と過ごした過去の思い出の中から
母の、私への愛に存在する
私の心をすべて包み込んでくれた
母性という言葉だけでは説明不可能な
母の大きな大きな温かいぬくもりと
母の優しいまなざししか見えない。
もし、私がこの世から消えたら
一体、誰が悲しんでくれるのだろう。
私という人間がこの世に生まれ生きてきたという足跡は
きっと直ぐに忘れ去られるに違いない。
それほど、私の存在感などちっぽけなものなのだ。
それに比べて、母の存在の大きさ!
私など母の足元に及ぶことはできない。
私の存在が娘にとって私が母に対して感じる大きさを
有しているかどうか?
否、そんな大きな存在感など娘に感じてもらえるはずがない。
じゃあ、私は何のために生まれ
60年近い年月を生きてきたのか。
母の娘としてこの世に生を受け
母の無償の愛に包まれ
生きてきたことが、奇跡に近いことなのかもしれない。
何もしたくない
何にも関わりたくない
片膝を立て、部屋の隅っこにうずくまり
母の写真を胸に抱き
母の声を携帯の伝言メモで聞きながら
いつまでも母との思い出を心の中に浮かべ
母の声、母の笑顔、母の後ろ姿を思いだし
私は生きて行きたい。
そう、私には何もないのだ。
心が空っぽになって
大きな大きな落とし穴の中に落ちて
土の中に埋まって全てが土色に染まり
段々と枯れて行く、そんな風な今の私。
母に会いたい
母と一緒に買い物に行きたい
母の手を取り階段を上りたい、
そして、母と一体化したい。
5日に大阪へ行ってきた。
大学三年生の娘の大学文化祭での最後の舞台を観に行ったのだ。
12月には新人公演があるらしく
三年生は就職活動に向けて、文化祭の公演で一応終わるらしい。
中には、今後の舞台に出演する人もいるようだが
娘にとっては最後の公演となった。
まちかね祭という名のついた阪大の文化祭を
娘が一年の時からずっと見続けてきた。
そのほかの公演の時にも大学内の舞台を何度か観に行き
有名な阪大坂を上りながら
ああ〜これで最後になるのだなあ・・と思うと
妙に感動してしまった。
娘が出た舞台はピーター・パンをテーマにしたもので
本来の筋ではないが
笑いあり考えさせられる場面ありで面白かった。
娘は4人の大人(ネバーランドに迷い込む)の一人で
大人の女性を演じていた。
やはり高校時代からずっと演劇をしていたから
親の欲目かもしれないが、演技がうまい。
成りきることが出来ている。
声もよくとおっていた。
娘の脚本ではなかったが、観に行って良かったと思う。
朝一番のバスに乗り
帰宅したのは夜中の12時。
正直疲れた。
気分的にも落ち込む日々だったし
やはり母のことが私の鬱の原因でもあるから
娘の舞台を観たからと言って癒えるものではない。
昨日は一日疲れが残って、昨夜は午後8時に布団の中に入った。
私の中で何かが崩れそうになっている。
今の私を支えてくれているのは
母の四十九日を無事終えねばならないという義務と
母をまつっていかなければならないという責任、
この二つが生きる原動力となっている。
娘は私よりも母を大好きな子だったから
もし、こちらで生活していれば
私と同じような感情に襲われていたかもしれない。
大阪で好きな演劇や仲間たちの中で
毎日を忙しく過ごしていることが有難いと思う。
娘も演劇という一つの生きがいから離れることになる。
私が母を失って喪失感でいっぱいなのと同じように
娘が精神的に崩れないかと心配だ。
でも、娘には輝く未来がある。
未知数の未来だ。
その未来を素敵なものにするか
暗いものにするかは娘次第だ。
演劇を離れても、今のように輝いていてほしい。
娘の引退公演を見てつくづくそう思った。
正直、今まで生きてきて
これほど、気持ちが落ち込んだことはない。
それだけ、私にとって母の存在の大きさが
思っていたよりも大きなものであったということだろう。
今日は、母の三七日だ。
朝3時に起きた。
母の祭壇を綺麗にして
お茶とお水を代え、花の水を代え
お霊具繕を作り、七日ごとに作っているお団子を作った。
今回の出来が一番良かった。
これなら売れるかも?と思えるほどきちんと作ることが出来た。
習うより慣れよとはこのことか。
母の前に座り、般若心経を唱え
今日は三七日だね・・早いね・・と語りかけた。
昨夜は、納骨する時に少しだけ分骨してもらおうと思うので
お骨を入れる袋を縫った。
父のとおそろいだ。
こんなことが一番私を癒してくれる。
母を思い、母の思い出を胸に
静かに、母の傍で暮らすことが出来たらどんなに良いだろう・・・
TVや新聞は日本が中国やロシアにやられてしまいそうなニュースばかり。
それに対して、保守団体は抗議活動をしている。
本来なら、母のことが落ち着いたら
私がやらなければならないことがいっぱい待っている。
でも、今は何もしたくない。
気持ちが荒くなり休まることのない活動から離れて居たい。
癒しの世界で思う存分過ごしたい。
私の勝手かもしれない。
私には代表の資格がないのかもしれない。
それならそれで仕方ない。
私は自分の存在を失うことになるなら
敢えてしないといけないことから離れ
私の心が思うままに生活したい。
出来たら自宅に置いているグランドピアノを
母の家に持ってきて
一日ポロンポロンとピアノと弾いてみるのも良いかもしれない。
今の私は癒されたいのだ。
料理を作るのは、勿論、自分が食べるためでもあるけれど
誰かに食べてもらえるから作るという意味合いもある。
私の場合、
夫や娘、そして母の家では母のために
朝早く起きて、食べてもらいために作っていた。
母が悪くなり、母の家に泊まり込むようになって
夫の食事の用意をしたあと
母と私が食べる食事を作っていたので
一日の大半、買い物を入れると
食事のために時間を割いていたように思う。
母が段々食事が出来なくなり
それでも、母が少しでも口にできるように
柔らかめで口当たりの良い
消化の良いものを考えて作り
私も同じものを食べていた。
母が亡くなって、母の家で食事を作ることが減った。
私一人のために作る気がしないのだ。
だから、朝はパンを焼いて済ませ
昼はパンやインスタントのものを食べ
夜はご飯と卵で毎晩チャーハンを作り
お皿に移すことも面倒でフライパンのまま食べるありさま。
これではだめだと思いながら
作る気も料理する意欲もわかず
段々と食べるということが億劫になってきた。
夫が休みの日は昼と夜を
私の済む母の家で一緒に食べてもらうことにした。
夫が食べてくれると思うと
一生懸命、工夫して美味しいものを作ろうとする。
手の込んだ煮込み料理、
野菜たっぷりの料理、
魚や肉料理などなど
私が一人では決して食べようとしない料理を作っている。
昨日の夜は前日からおでんを炊いた。
色んな具が入りすじ肉かも味が出て
とても美味しく出来上がった。
母の分まで三人分作ったので余ったくらいだ。
でも、今日は夫が仕事なので食べにこない。
だから、私一人の昼と夜のご飯になる。
ご飯もしかけていない。
昼はそこらへんにあるお菓子でもつまんで済まそう。
夜はご飯を炊いてないからどうしよう・・・
こんなことをしていては体を壊す。
きちんと食べないと元気も出ない。
分かっているのだ。
気持ちを持ち直して頑張らねば。
それでも、食べることに意欲もわかず
一人のために作る気がしない。
昨日は四十九日のお餅を製菓店に予約した。
そして、この数年使っていなかった
母の家の二階の掃除をした。
父がいつも寝起きしていた部屋を片付け
二階のトイレのマットや便座カバーを新しいのに代え
掃除をしすっきりした。
母が几帳面に整理整頓していた押し入れも
この一年は放ったままだったので
母が見たらきっと喜ぶであろうと
その顔を思い浮かべながら整理しなおした。
父や母が遺したものは手に取ると色んなことが次々と思いだされ
しばらくぼっ〜と見つめていた。
涙が自然に出てきた。
葬儀からあまりにもハイテンションだった私が
本来の私に戻りつつある気がする。
凍ってしまっていた氷が
少しずつ溶けだしたかのように
淋しさと悲しさが襲ってくるようになった。
昨夜は8時にベッドに入った。
その前に母の祭壇の前に座り込み話しかけた。
返事が返ってこない。
母はもう居ないのだということが
現実のものとして私が理解できるには
まだまだ日にちがかかりそうだ。
私は確かに異常だった。
あまりにも気丈過ぎるから従兄たちは心配していたと言う。
姉のように泣き崩れる方が自然だったとも言われた。
でも、あの時は母の残した言葉を守らねばならないという
強い使命感があった。
だから、泣かずに悲しまずに送り出そう、
そう思ったのだ。
でも、母は私にとって最愛の人だった。
もしかしたら娘よりも大切に思っていたかもしれない。
母の居ない生活など考えることが出来なくて
想像するだけで怖くて怖くて・・
母が死んだら後追い自殺すると決めていた。
あんなに気丈だったのは
私も本来の責任感の強さの表れだと思う。
母の四十九日を無事終え
一周忌、三回忌、父の七回忌を
私の手で行わないといけない。
それが両親への私の孝行だ。
今もそれは思っている。
でも、母が居ないのだ・・・という思いが
段々と強くなってきているから
私は自信を失いそうだ。
鬱々と過ごす日々が来るのではないか?
ご飯も喉に通らなくなり
今以上に痩せてしまうのではないか?
元気で生きて行く自信がない。
「母ちゃん」と母を呼んでいる私が居る。
スカーレット
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