スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次過去未来


2010年05月31日(月) 母と過ごす時間

母の家で主に過ごすようになって

丸二カ月が過ぎた。

3月27日に母が退院して

その日に全てを母の家に運び

寝泊りをしながら母の生活を支える覚悟だった。

でも、会の活動もあり母の家での生活に

全てを移すことができないまま

こうして二カ月余りが過ぎた。

母の体調は良くない。

毎日、母を身近に見ていてよくわかる。

だからこそ、全面的に母を支えねばならないと思う。

今は自分の家で寝ている。

朝、早く起きて、自分の家の家事を全てしてから

母の家に行く。

そして、母の介護と母の食事の世話をする毎日だ。

母を病院に連れて行く日は

帰りにどこかへお昼を食べによるのが今の楽しみ。

でも、明後日、母は抜歯する。

入れ歯を作り直す。

だから、明後日からは母は普通の食事が出来なくなる。

おかゆや雑炊や軟らかいものばかりの食事となるだろう。

母と一緒にお昼を外で食べるのも明日までだ。

母を支えて行かねばならないことは頭では分かっている。

でも、時々、何もかも嫌になるのだ。

こんな気持ちになる自分自身がまた嫌になる。

思い切って母の家に移り住もうかと思っている。

そうなったらPCはできなくなる。

夫の食事作りを義母に任すことが出来ない今、

私の毎日は母の家を軸にして

夫の食事の世話と掃除洗濯と

今の反対になるだけのことであり

私自身の生活に余裕はなくなる。

でも、母と過ごす時間を大切にしたい。

その中で唯一の楽しみにしている

大阪の娘の演劇公演を観に行くことが出来たら

それで良いのだと思おう。

娘の公演は6月26日にある。

母の体調によって行けなくなる可能性もあるが

今の楽しみはこれだけのような気がする。




2010年05月30日(日) 心の狭さ

やはり、私って心の狭いダメな人間なのだと思う。

でも、心の隅っこの方に

固い石のようなわだかまりが残っている。

考えまいと思うのだが

何かをしている時にふと思い出してしまうのだ。

このことについては誰にも話していない。

もし、話をして私を批判する声を聞くのに耐えられないからだ。

だから、私自身のこころの中で自問自答していたのだ。

それでも、自分を肯定するように考えるのは

私が間違っているのだろうか。

ある人にあることを頼まれた。

それは仲介だった。

ある人と私との二人だけの関係の問題なら

それはそれで良いのだ。

でも、この件に関しては

私の尊敬する人が関与することになった。

尊敬する人にある人から頼まれたことでお願いをしたのだ。

あれから一週間。

ある人からは何も言って来ない。

でも、尊敬する人から私の仲介のお願いをきいてくれたことを

連絡してくれた。

だから、私がしたことは結果的に良かったことになる。

安心した。

ある人からは何も言って来ない。

普通ならお願いしたのなら

その結果、うまく行ったのなら

お願いをした人はお礼の言葉を一言言うべきではないだろうか。

それが人間と人間の関係だと思う。

ある人の人生ではそんなことは関係ないと思っているのだろうか。

それならそれでいい。

私なら頼んだ以上、お礼は言う。

それを言わない、否言えない事情があるのだと思おう。

それにしても、私って心が狭いなあ・・

嫌になる。

もっと大きな広い心を持たなくちゃと反省した。

もう良い。

何も言って来なくても気にしないで居よう。

結果的にはうまく行ったことだったのだから。

反省。

ああ〜自分が嫌になってくる。


2010年05月29日(土) 車検

昨日は愛車の7年目の車検だった。

私が免許を取得したのは遅い。

娘が生まれて必要性にかられて取得した。

だから、20年しか経っていないが

その間、今の車は4台目だ。

そして、何故か今のムーブは長く乗ることになった。

8年目になると愛着が湧く。

言葉にうまくできないけれどやはり可愛い。

今回の車検を前にして買い換えようと思っていた。

本気でタントにしようとパンフなどを見て検討していた。

でも、今の我が家の経済状態で

新車にするのは難しくなってきたのだ。

娘は大学三年。

大学院に進まず、就職してくれるなら

後二年足らずの仕送りで済む。

二年後の9年目の車検の時にはきっと家計も楽になっているだろう。

9年目になれが走行距離も9万キロ近くなっているに違いない。

だから、その時には必ず買い換えるつもりだ。

車屋さんの担当の営業の人には悪いが

今回は車検を受けることにした。

朝一番に持って行き、夕方6時に取りに行くまで

代車を貸してくれたが乗らず夫の車を貸してもらった。

代車はオレンジ色のエッセだった。

オレンジ色は今一つ・・

車検の費用は¥76000円也

これで安心して走ることが出来る。

半年ごとに受けている検査、

次は12月だ。

それまで自分で点検をしないのはダメなんだけど

まあ良いかと思っている。

今日は母を病院へ。

来週も愛車のお世話になる。

2年間よろしくね。


2010年05月28日(金) 案外

母と叔母が電話で話していたのを聞き

叔父のことが心配になって

母を母の弟の家に連れて行った。

叔父は前からなのだが

心臓に水がたまっていて

しんどいしんどいと言い続けている。

そして、あまり食事も進まないと聞いていた。

母にとってたった一人残った兄弟。

母より4歳年下だから85歳になった。

松山のちょっと田舎に住んでいる。

お昼を迷惑をかけたらいけないと思い

お昼用のサンドイッチや飲み物やお菓子などを買って行った。

車で走ること45分。

叔父の家につき叔母とあいさつして部屋に入る。

何と、叔父が起きているではないか。

てっきり寝ているものと思っていたので驚いた。

そして、尚、驚いたのは

単車で離れたスーパーまで買い物に行ってきたと言う。

私たちが来るのを知って

にぎりずしを買いに行ってくれたそうだ。

危ないし大丈夫なのかと心配したけれど

叔父も私たちと同じようにお昼を食べることが出来た。

やはり心臓に水がたまっているので

体重も増え利尿剤で出しているとか。

耳が遠いので母と叔父はお互いに顔を近づけて

大きな声で話していた。

二人の話を聞いていると似たもの同士で、

出来ることは自分がしないといけないと言っていた。

私は叔母と顔を見合わせて笑った。

いくら言っても仕方ない。

母も家に居る時とは大違いで

とても元気そうに見えた。

姉らしく色んなことを叔父に言って聞かせていた。

2時前まで居てお暇した。

帰りに畑で叔父が作っているという

赤いソラマメをいっぱいもらって帰った。

そして、早速夕ご飯にお米に混ぜて炊いてみた。

この赤い豆は赤いあんこを作るための豆だそうだ。

出来上がりは赤飯のように赤いご飯となった。

ソラマメの香りはあまりしなかったけれど

美味しかった。

叔父が案外元気そうだったので安心したが

母も叔父も無理はしないでほしい。

甘えるところは家族に甘えてほしい。

それでも、自分ができることは自分でするという気持ちは

生きて行く上でとても大事なことだと思うので

なんでもかんでも私がやってしまうのはやめようと思う。

でも、叔父の顔を見ることが出来て良かった。


2010年05月27日(木) 母の思い出の曲

母が珍しく、自分から言い出したことがある。

私が何かのイベント応募を誘っても

いつもは、遠慮なのか

それともその気がないのか、

断ることが多い。

それが、昨日、母から次のことを調べて欲しいと言った。

それは昔戦後に流行った歌

「港が見える丘」を歌った歌手の名前を調べてほしいとのこと。

時間を作って私の家に帰りネット検索した。

歌っていたのは平野愛子さんという女性だった。

戦後の歌は、父や母がよく歌っていたので

懐メロとして覚えているのだが

平野愛子さんという名前を聞くのは初めてだった。

動画で見てみた。

ふっくらとした女性だった。

そして素敵な歌声が聞こえて来た。

「あなたと二人で来た丘は 港が見える丘・・♪」

昭和22年の歌だそうだ。

母が父と結婚したのが昭和22年の12月27日、

そのあとすぐ父の転勤で今治へ行ったそうな。

三畳一間のバラックでの新婚生活。

食べるものもお芋ばかり、

そんな生活を送る母に

どこからともなく毎日この歌が聞こえて来たそうな。

どこから聞こえて来たのか?

市役所が流していたのか?

それは分からない。

でも、母にとって結婚して見知らぬ地に来て

寂しい思いをしていたのだろう、

毎日繰り返し聞こえてくる

やさしい女性の歌声「あなたと二人で来た丘・・」に

どんなに癒されたかわからないと言っていた。

そして、このことを思い出の曲として

葉書に綴り、毎年夏に行われるNHK懐かしのメロディに

投稿したいと言った。

素敵なことだ。

このことを知った私は

ネットで募集要項を調べた。

そして、400文字という制限があったので

原稿用紙を母に渡して書いてみたらと言った。

原稿用紙に文字を書くことなど初めてのことで

400文字となると気持ちがなかなか書けないとのこと。

結局、葉書に書くと言うことになった。

採用されるかどうか分からない。

期待してもいけない。

でも、私が生まれる前の

母の父との思い出の中の一こまでもある。

もし、放送されたらこんなに嬉しいことはない。

体調を崩している母にとって、何よりの励みとなるだろう。

そんなことを思いながら

もう一度、平野愛子さんの

「港が見える丘」を聴いてみた。




2010年05月26日(水) やはり休めなかった・・でも・・

思っていた通り

昨日の「主婦休みの日」は休めなかった。

家事を休んで何もしないと決めたものの

到底そんなことは無理だろうと思っていた。

朝のご飯の支度から始まり、夫の夕ご飯作りをしたことで

大体一日のことが見えてきていた。

まあ、いつもの掃除と洗濯はしなかった。

お天気も今ひとつだったから、良かったと言えば言える。

母の家に行き、母に「今日は主婦休みの日だから」と言ったものの

母を歯医者に連れて行き

そのあとで買い出しをして、母と食べる昼と夕ご飯の準備をした。

何でも良いという母だったが

今の母に何でもはダメだ。

母の好きな鍋焼きうどんを作った。

夜も体に良い献立を考えて用意した。

それでも、午後からは時間が出来たので

小池真理子の「瑠璃の海」を読み終え、

ウトウト昼寝をして

TUTAYAへDVDを借りに行った。

昨日借りて来たのは

あるネットマガジンで必見とされていたものに

私の好きなヒュー・グラントの出ている作品の5本だ。

昨夜は母の家から帰って20時から22時まで

「ラブ・アクチュアリー」を見た。

良かった。

9組19人のそれぞれの愛の形が

クリスマスと共に語られる。

笑いあり涙あり、そしてほっとするところのある作品だった。

毎年、クリスマスの頃になると爆発的に見られるそうだ。

確かに、時期を間違えて見た気がする。

主婦として頑張っている私を夫は分かってくれているのだろうか。

昨夜、帰宅して、夫が食べ終えた晩御飯を片づけをして

夫がまわして洗濯したものを干していたら

夫が何やらニヤリとした。

きっと、ああ〜宣言しても休まないね・・と

心の中で笑っていたに違いない。

私はやはり主婦を休めない。

再確認できた。


2010年05月25日(火) 主婦休みの日

今日は「主婦休みの日」だそうだ。

数日前、ポストに入っていた、

いつもなら目を通すこともなく

リサイクルしてしまうタウン情報紙の一面の

「主婦休みの日」の文字に目がとまった。

「主婦休みの日」とは、5月25日、9月25日、1月25日の年三回、

家事や育児に毎日がんばる主婦がリフレッシュする日であり、

家族が元気になってニッポンも元気になる日、

夫や子供が家事にチャレンジする日&パパと子供が一緒に行動する日

だそうだ。

そういえば、専業主婦となって25年、

お盆もお正月も日曜祭日もなく365日家事をこなしている。

父の看護も我が家と実家を行ったり来たりしながら頑張った。

入院した時以外は風邪で熱があっても、

左手首を骨折して三角巾で吊っていた時も

休むことなく家事をこなした。

大阪の娘の部屋の掃除に行く時も、

朝早く起きて掃除や夫の食事の支度をして出かけたし、

今、母の世話をしに行くときも同じように家事を休んでいない。 

疲れた体は心まで疲れさせる。

ついつい夫に愚痴ってしまい、

夫婦の間にすきま風が吹いてしまう。

そうだ、今日は、思いきって「主婦休みの日取得申請書」を出して、

まるまる一日家事を休んでみよう。


2010年05月24日(月) 代われるものなら・・・

母の具合が良くない。

3月の末に退院してから段々と悪くなっている。

最近ではおしりから右足のうち太ももの辺りの痛さがひどくなった。

立つのも歩くのもつらそうだ。

毎日、母と過ごしている私には

母のちょっとした体調の変化が手に取るように分かる。

たまに顔を見せる姉にはわかるはずもない。

だから、少しでも母がつらそうだと

自分自身の体調を考えず頑張ってしまうのだ。

最近はバセドウ病の症状は全くなくなった。

だから、身体的には動ける。

心が元気だったらもっともっと頑張れるのだが・・

まあ、それは一昨日も言われたようにここに置いておいて

休む、動かない明確な意思を持とう。

でも、母のつらさを見ていると代わってあげたいと心から思う。

今日は温熱療法の第五回目を受ける日だ。

今、当てているところが済んだら

次は痛みのあるところに当ててもらえないだろうか。

少しでも痛みが和らぐと母も楽になるはずだ。

毎日、昼と夜のご飯を一緒に食べていてわかることがある。

昔は母の方が私よりたくさん食べていたが

今は私と同じ、否、少ない日もある。

段々と食べる量も減るのだろう。

口から食べれる間は大丈夫だ。

父は全く何も受付なくなり点滴だけになって

二週間しか生きられなかった。

母にもそんな日が訪れると思うと怖い。

私のエゴかもしれないけれど

私は母の死を認めたくない。

母よりも先に逝きたい。

最大の親不孝だとは分かっている。

でも、痛みも命も全て

代われるものなら、代わってあげたいと思う。


2010年05月23日(日) 奇跡的回復

昨日、3月から入院していた知人のお見舞いに行ってきた。

本当は山谷えり子氏の講演会に行くつもりだったが

この最近の精神的不調もあり

また、母の体調のこともあり不参加としていた。

数日前に知人から電話があり

最近の私のことを案じていてくれたのだ。

知人は入院していた病院から退院し

有料介護施設に入所された。

入所したという連絡を受けて、先週一度訪問した。

その時にも驚いたのだが

昨日はもっと驚いた。

奇跡的な回復をしているのだ。

話しをするのも全く病気をされる前と同じだ。

まだ、立って歩くのは無理だが

それでも、車いすからまっすぐ立ち上がって歩こうとしていた。

午後1時に行って3時間話をした。

私の悩みに答えてくれた。

今、私は休めば良いと。

動かない決断をすべきだと。

動けないのと動かないのは違う。

動かないのは自信を持ってやることだと言われた。

動けないのと動かないのが

どんな風に違いがあるか言葉では言えない。

でも、同じことでも微妙な違いがある。

期限をきることもしないで(これは分からないのだから)

今は色んなことから離れて

心も体も休めば良いと言われた。

確かにそうだ。

私が動かなくて批判する人が居れば気にしないで良い。

誰かがそれじゃダメだから自分でやると言ってくれたら

その人がやれば良い。

私が動かなくても他の人は自由だ。

自分が楽な生き方をすべきだともいわれた。

私自身が楽な生き方。

それって今までいくら考えても分からなかった。

楽な生き方って何?

奇跡的回復をされた知人は

人と約束をしないと言う。

鳩山総理に聞かせたい(笑)

私は頑張りすぎだ。

今は結論を出さず

しばらく活動を休止してみることにしよう。


2010年05月22日(土) DVD

チャンネル桜を見る気がしなくて

そうかと言って地上波のTVを見る気もなく

本と言えば歴史や政治的な本ばかりしか手元になく

結局、TUTAYAで借りてきた5本のDVDを見る毎夜だった。

借りてきたのは次の5本。

「ライフ イズ ビューティフル」

「ラブソングができるまで」

「P.Sアイラブユー」

「ホリディ」

「お買いもの中毒の私!」

映画館で観たかったけど見逃していたものや

私の大好きなヒュー・グラントの主演のもの

5本借りたら旧作は1本100円

準新作は200円ということで

5本も借りてしまった。

準新作の「お買いもの中毒の私!」は楽しかった。

私には無縁の世界だったけれど

ストレスがたまったら買い物して気分が晴れるというのは理解できる。

カード破産しそうなくらいに買い物をするのは

やはり病気だと思うけれど、病気なのだから治るのも難しい。

アル中でも薬物中毒でもそうだが

何かに依存し、のめり込むことになるのは

その人が嫌なことから逃げる手段として使っている気がする。

私も同種の人間だから

もし、アルコールにおぼれたらきっとアルコール依存症になるに違いない。

「ラブソングができるまで」のヒュー・グラントは良い。

どんな役をしてても映画の内容がどうであっても大好きだ。

歌も上手いし、演技も良い。

笑顔も良いし、声も良い。

ヒュー・グラントの映画でまだ観てないのがある。

しばらく彼の作品ばかりを観ていたい気がした。

「P.S アイラブユー」は前知識もなく

興味もなかったが、それでも観る価値はあった。

もし、私が彼女の立場となったら

あんな風にいつまでも夫のことを思い悩み苦しむのだろうか?

正直、自信がない。

それでも、気持ちはわかる。

この世の中で一番大事に思う人が死んだら

私は食べることも寝ることもできず

自暴自棄になって荒れた生活を送る気がするからだ。

最後は立ち直ることが出来たけれど

それは夫や家族や友人の彼女への愛があったからだ。

生きるのは辛い。

でも、生きなきゃならないのなら

自分が置かれている状況を受け入れ

流されながらそれでも自分自信を見失わないで生きるしかないのだろう。

「ホリディ」は映画館で観たかった映画だった。

女ごころの微妙さがとてもよく表現されていた。

キャメロン・ディアスが良い。

彼女の主演の映画も大好きだ。

強そうで本当は弱い心を演じたら素晴らしい。

最後まで観れなかったのは

やはり「ライフ イズ ビューティフル」だった。

ナチスドイツのユダヤ人への迫害は辛く悲しく腹立たしいから。

それでも、父の嘘によって子供の命が救われたこと、

父の愛、夫婦の愛、家族の愛は心に響いた。

本当にあった話なのだろうか?

そうではなく創作だとしても

似たような話はあったに違いない。

夜中に観た「ライフ イズ ビューティフル」は

いつまでも私のこころをとらえて寝させなかった。

涙がボロボロ出た。

それにしても父の息子への嘘、

これこそ人生なのだと感動。

生きるって何?

死って何?

最近、ずっとこのことばかり考えている私にとって

今回借りてきた5本の映画は

とても影響力があった。

どんなことをしても生きなきゃと思わざるを得なかった。


2010年05月21日(金) 娘からの電話

鬱々した気分の時は

夜TVを見る気もしないし

本も読む気もしない。

したいことが見つからない。

昨夜は母の家から戻ったのが20時。

借りてきているDVDをPCに入れ

見始めたら気が入らない。

ネットもメールもする気が起こらず

結局20時半に布団の中に入った。

電気を消し、真っ暗な中で眠たくなるまで

頭の中をぐるぐると要らぬことが駆け巡った。

そろそろ眠気が・・眠りたいと思っていたら

枕元の携帯に娘からの着信音が。

寝る時は消音にして眠るのに

昨夜は大きな音で私の眠気は一気に醒めた。

娘の電話は1時間半にも及んだ。

一言ひとことを性根を入れて聞いた。

そして、私の考えを伝えた。

お父さんに代わろうか?と尋ねたら

お父さんと話しても何にもならないと言う。

でも、お風呂からあがってTVを見ていた夫に

携帯を渡して、娘の話を聞いてもらった。

結論は夫も私も同じ意見だった。

娘の人生だから娘が決めることだけど

まだまだ親の脛かじり、

金銭的なこともあり、娘が一人で決めることもできないし

相談してくれたことはとても嬉しい。

ただ、今の私の精神状態で

まともな返事が出来たのかどうか・・

それでも1時間半は自分のことを忘れて

娘の話を一所懸命に聞いたし

私の考えを言えたから良いとしよう。

やはり私の気持ちだけで

この世の中から消えることって出来ないのだろう。

親としての責任があるのだから。

だから、余計に生きるのが辛くなる。





2010年05月20日(木) 死にたいと・・・

この一週間、気分は鬱鬱鬱鬱・・・

何もやる気がしなくて

それでも生きているのだから

食べて寝ては居る、

そんな自分がものすごく嫌になる。

あれから一週間になる。

私にとって生きることの意味でもあったことが

私から消えてしまったあの日から。

私は何も手に付かず

それでも、習慣って怖い、

朝、起きて、いつものように家のことをして

母の家に行って母のことをする。

その間に母の病院や用事で外出しているのだから。

本当の鬱ならどんなことがあっても

外出などできないのだろうから

私の鬱は初期の初期なのかもしれない。

でも、笑わなくなった。

涙が出てくる、考えれば考えるほど

取り返しのつかないことに気付き

どうすればいいのか分からなくなる。

人と話すのが怖い。

一日、母以外と話すことのない日もあった。

買い物に行って全く関係ないレジの人に

ありがとうと言ったこと以外は

夫と母と少しだけ会話した日々、

そんな日々からさようならをしたくて

昨日は一日中死ぬことばかり考えていた。

娘が生まれて以来忘れていた思いが

また私を苦しめる。

でも、薬を入手する方法はないか?

ネット購入はできるのか?

パソコンに向かって検索してみたけど

最近では医者の処方箋ばないとなかなか手に入らないようだ。

じゃあ、どんな方法で死ぬのが良いのか?

首つりも飛び降りもリストカットも成功するとは限らない。

人さまに迷惑をかけない死に方。

身の回りを整理し、母のことや娘のことを夫や姉に頼んで

何もかもから退いて私は消える。

私が生きている価値などないのだ。

誰からも愛されることなく

母以外の人から必要とされない自分自身に気付き

今までしてきたことは一体何だったのだろう?

私がやってきた、私の心の中では一所懸命にやってきたことは

結局は自己満足の世界だったのではないか?

色んな思いが交錯する中で

一筋の光が見えた気がしたのは

死ぬという道を発見したことで

気持ちが楽になったこと。

実行する決心がついたら楽になれた。

でも、死にたい死にたい死にたいと

言葉にして吐きだしただけで少し楽になった、

実行できるかどうかわからない。

このまま生きながらえるのかもしれない。

情けない・・

弱い私が情けない。


2010年05月14日(金) しばらく休みます

いつも見てくださる方々へ

有難うございます。

しばらく更新を休止いたします。

またいつの日か更新する時があれば

よろしくお願いします。


2010年05月12日(水) 鬱・・・それでも

少々鬱気味・・・

元気が出ない。

やる気が出ない。

しんどい。

何もかもどうでも良い。

それなのに頑張ろうとしている私が居る。

心と体が矛盾した動きをしている。

電話でも元気そうな声を出す。

人と会えば明るくふるまう。

だから

きっと誰も私の心の中を知ることはできない。

原因は分かっている。

○のこと・・・

私の力ではどうしようもないこと

毎日のことだから

避けて通ることはできない。

でも、出来たら避けて通りたい。

何も見ず、何も答えず、何も気にしないで居たい。

こんな時はどうしたら良いのだろう・・

誰に話しても解決することではない。

でも、袋小路に入ってしまって

そこから抜け出す方法が見つからないのだ。

ああ〜本当に鬱々している。

元気を出さなきゃと思うけど

カラ元気に終わってしまう。

本当の私のこころは泣いている。

それでも、今日は朝からそんな気分を見せずに行動した。

母をエミフルから三越、そして高島屋へ連れて行った。

母の足の痛みとしんどさはあるのだろう。

でも、母も私と同じで弱みを見せないところがある。

初夏用のしゃれたパジャマを買いに行きたいと母が言った。

エミフルにはなかった。

三越は補聴器のことで行った。

聞こえが最近悪くなっているが

補聴器にも寿命があるということが分かった。

使いだして5年を過ぎた。

そろそろ買い替えの時期に来ていると言う。

次に電池がなくなった頃に新しいのにする予定になった。

高島屋で初夏用の明るい色のパジャマを買った。

母は毎日パジャマで生活しているので

ちょっとしゃれた明るい色のパジャマが買えてよかった。

お昼を中華料理店に入り食べる。

二人とも焼き飯を注文し残す量も同じだったので

お互いに顔を見合わせて笑ってしまった。

母も笑った、私も笑った。

母が喜ぶ顔を見て嬉しかった。

だから、私の鬱の心も晴れた。

気持ちって微妙なものだ・・・


2010年05月11日(火) 母の誕生日

今日、5月11日は私の母の

89才の誕生日だ。

89歳と言うと本当におばあさんというイメージがあるが

私の母もこのところ、少しそんな気がし始めた。

去年の秋に入院するまでは

年に似合わない若い感じがしていたし

肌もきれいだしおしゃれだし

私は到底母にはかなわないと思っていた。

今も母にかなうことはないが

それでも、最近特に弱って来ている母を見て

ああ〜やはり90歳近くになると

段々こうして弱って年取ってくるのだなあ・・・と

思わざる終えなくなった。

昨日は、母を三回目の温熱療法に連れて行った。

最初はどんな様子かもわからず不安もあっただろうが

三回目となると要領も分かって来て

いくら高熱になるとは言えやけどまではしないことが

分かってきたためもあって不安もなくなったみたいだ。

昨日は42度まで温度を上げることが出来た。

効果があるのか?

本当に出るのかは分からない。

でも、先生に任せて出来るだけの治療をしてほしい。

病院の帰り道お昼をうどんの北斗によって食べた。

母は太ってきたと言って少量で良いと言う。

私と同じくらいしか食べれなくなった。

90歳近い人なのだから当たり前かとも思う。

今日は母の好物の豆ご飯にすのものに肉じゃがを作ろう。

そして、一輪の黄バラを買って母に届けよう。

来年の90歳のお誕生日を祝うことが出来るように

今はただそれだけを願っている。

足の痛みが少しでも楽になりますように

毎日神様にお願いしている。

「母ちゃん、お誕生日おめでとう!」


2010年05月10日(月) 娘からのプレゼント

昨日の午前中に届いた、娘からのプレゼントは

可愛い陶器の置物だった。

娘が店で見つけた時の様子が目に浮かぶようで

きっと、自分が欲しいと思ったから

私にプレゼントしたいと思ったのだろう、

本当に可愛い、可愛い置物だった。

早速写真を撮り、メールで有難う、大事にするねと送った。

娘からはメッセージカードを入れるのを忘れた・・と返信があった。

そういえば何もなかったなあと思いながらも

娘の気持ちは十分伝わって来ていたので大丈夫だよと送った。

可愛いリンゴにこれまた可愛いペアのクマが座っている姿に

娘が何を言いたかったのかも伝わってきた。

大事にしよう。

真っ赤な陶器のリンゴを黒のカバーのピアノの上に置いた。

私は母に数日前にプレゼントを贈っていたが

当日に何もないのも変なので

そうだ、カーネーションを贈ろうと思い

近くの産直市場の花売り場へ行ってみた。

同じ思いの人たちが多く居て

中には普段なら花を買わないだろうなあ・・と思える男性の姿も。

両方の親に渡そうと思っているのだろう

二束のカーネーションを買っている人が多かった。

私はピンクのカーネーションを買った。

母に渡すととても喜んでくれた。

今の母は花が気持ちをやわらげてくれる、

気持ちがいやされると言っている。

やさしいピンク色のカーネーションを

ガラスの花瓶に生けてリビングのテーブルの上に飾った。

娘からのプレゼントが嬉しかったように

母もきっと喜んでくれたに違いない。

母親というものは子供にとって父親とは違った存在だ、

同性ということもありたまにはぶつかり合い

お互いを批判しあうこともあるが

それはそれでお互いが理解し合っているからこそのことだ。

今では私は母とも娘とも喧嘩することはなくなったけれど

昨日はプレゼントを見ながら

娘の小さい頃のことを思い出し

また、母が若かった頃のことを思い出した。

今という一瞬は二度と帰ってこない。

だからこそ、今を大切にしないといけないと思う。

来年の母の日も

母へ贈り物を出来ることを祈りたい、

そして、娘が元気で大学生活最終年を送ってくれることを

心の中でそっと祈った。


2010年05月09日(日) 母の日

今日は五月の第二日曜日、母の日だ。

毎年、この時期になるとカーネーションの値段が上がる。

近くにある産直市場の花売り場、

花屋さんよりも安く新鮮な花々が買えるので

朝早くからお客さんが多い。

行って見るとやはりカーネーションの花が

普段に比べると倍以上している。

真っ赤なカーネーションやピンクや黄色と

スブレーカーネーション等々色々綺麗だった。

母の日にはカーネーションというのが当たり前になったのだろう。

アンケートによれば

母親がもらって一番嬉しいのは子供からの手紙だとか。

二番目は何も要らない、気持ちだけで良いとのこと。

分かる気がする。

娘が小さい頃、幼い文字で「お母さんへ」と書かれた

手紙を読んで涙が出た。

今も大事に取ってある。

その娘から、先日私にプレゼントを贈ったと連絡があった。

正直信じられなかった。

去年も一昨年も何もなかったから。

まさか、娘から贈ってもらえるとは思ってもみなかった。

今日届くよう郵便局から送ったとのこと。

何だろう・・・楽しみだ。

私は母には洗顔石鹸等、実用的なプレゼントを贈った。

義母にはカーディガンを買った。

本当に心ばかりのものだ。

母にとっては私は娘、

娘にとっては私は母親、

この二つの立場から母の日を過ごす。

母と義母の健康を心から祈りたいし

娘には元気で学生生活を送ってほしいと願う。

今日、一日が良い日になりますように・・・


2010年05月08日(土) 明日は街宣

9日はまだまだ先だと思っていたが

いよいよ明日になってしまった。

警察やまちづくり松山へは許可申請を取り

準備万端なのだが、今ひとつ私の気持ちが盛り上がらない。

風邪をひいて完治していないということもある。

母のことが気になるということもある。

そして、それ以上に

私たちの会の存続が気になっているのだ。

増えなくても仕方ないとは思う。

でも、何かの時に一緒になって行動してくれる人が

せめて会員になってくれると良いと思うのだ。

今回会員で参加は4人となった。

体調や仕事の都合で来れなくなった人が2人いる。

これは仕方がない。

残る4人で頑張らなくちゃと思っていた。

会員ではないけれど

私たちの活動に賛同してくれる2人の方が居る。

本当に有難い。

お三人とも若者だ。

だから、余計に心強い。

でも、この人たちに入会を勧めることが出来ないのだ。

チャンネル桜を観ることが前提となっているから。

だからこそ、私はチャンネル桜に拘らないで

活動をできる「全国行動委員会」の愛媛本部を作りたかったのだ。

緑のパーカーも送ってもらった。

でも、私一人ではどうしようもない。

そんなこんなで明日の街宣に躊躇しているのはダメだ。

そう思って気持ちを持ち直し

演説も頑張りたいし皆に分かってほしいと

チラシ配布も頑張りたい。

参加してくれる人は演説が苦手な人も居る。

難しいことは言わなくても良い。

ただ、自分が日ごろネットブログで発信しているようなことを

口で言ってくれればいいのだ。

今回は参加してくれる会員以外の人が

任せてくださいと言ってくれた。

本当に有難いことだ。

明日は晴れる。

雨にならないで良かった。

出来るだけ頑張ろう。

会をつぶすことなく細々でも良い継続したい。

マイクを貸してくださった県議会議員の先生も

同じことを仰った。

続けて行こう、頑張ろう。


2010年05月07日(金) 衣替え

私の悪いところは

ちょっと体調が良くなったら

頑張ってしまうところだ。

普通38度以上も熱が出たらダウンするだろう。

それなのに寝込まず自力で治す私。

昨日は午前中、ずっと気になっていた

冬物とこれからの季節のものとの衣替えを始めた。

タンスの引き出しの冬物を全部畳の上に出した。

山のような冬物に今更ながら呆れる。

お天気も良かったので家で洗えるものは洗濯して干す。

すでに洗っているものは

夏物と入れ替えを。

し始めて2時間半が過ぎた頃

会の仲間からの電話があり中断。

その後急いで残りの夏物を新たに引き出しに整理していれる。

防虫剤も忘れずに。

気が付いたら11時半となっていた。

母のお昼をしなくっちゃ。

急いで用事を済ませ

車に冬物の荷物を積んで母のところへ。

私の家の押し入れや衣裳箪笥にしまうことが出来ないから

母の家のクローゼットに収納させてもらう。

やっと12時過ぎに片付いた。

今日はお天気が今ひとつなので

気になっている布団類の入れ替え

ファンヒーターの掃除等々・。

まだまだ出来そうもない。

動いていたらやはり熱が出そう。

ゆっくりぼつぼつやれば良い。

そう自分に言い聞かせるためにつぶやいた。

一番嫌いな家事・衣替え。

皆はどんなにしているのだろう・・


2010年05月06日(木) 思いがけないメール

風邪で熱もあってしんどくて

それでも母のことを放ることはできず

昨日も母の家で過ごした。

買い物やご飯の支度を早目にし終えて

後はこたつの中に足を入れて寝ころんでいた。

そのためもあってか夜は熱が36度台にまで下がった。

やはり私って凄い。

38度3分まで上がった熱を

薬も飲まず自力で下げることが出来るのだから。

不死鳥?笑

午後、こたつの中でうとうとしていたら

携帯にメールが届いた。

私は携帯メールが嫌いだ。

娘以外はよほどのことがない限りしない。

受信するのもあまり好まない。

だから、娘以外にはめったなことがない限り

携帯へメールは届かないことになっている。

それが昨日はメール着信音が鳴ったので驚いた。

誰?

おそるおそる開いてみると

何と一年半ぶりのS君からのメールだった。

S君とは二年前の夏に知り合った大学生だ。

S君は高知からヒッチハイクで四国一周旅をしていて

たまたま運転していた私が彼の存在に気付き

車に乗せてあげて40分ほど走って次の処まで

連れて行ってあげた人だ。

S君は娘と同じ年で血液型も同じ

誕生日も娘と一日違いということもあり

息子と話しているような気がして

それをきっけけに文通が始まった。

そして、二年前の秋には城川のかまぼこ板の絵展を

一緒に観に行ったりした。

そして、二年前の12月、

手紙をもらっていたのに

私が二回目のバセドウ病の再発をして

返事を書くこともできず携帯へごめんのメールをした。

でも、返信はなかった。

年賀状も書いて投函したが返事もなかった。

怒ったのかな?

心配になって手紙を書いた。

でも、これにも返事はなかった。

若い人のことだから、嫌になったのかもしれない。

私の心の中から消した。

残っている思い出は大事に手紙と共に残している。

そんな彼からのメール。

内容もびっくり。

体調を崩して入院中だとか。

精神的に色々あったみたい。

鬱病になったと書いてあった。

気力が失せ、食べることもできず入院したという。

私への謝罪の言葉が書いてあった。

そして、心配しないで。

返事も要らないと。

私は何を言っても言葉だけがうわべを走る気がして

返信をやめた。

そして、心の中で一日も早くあの元気なS君に戻って欲しい。

心からそう祈ることにした。

娘と同じ21歳。

娘は演劇と学生生活を楽しんでいる。

それを思うと本当に心が苦しい。

私が若い頃拒食症で入退院を繰り返し

青春を謳歌せず過ごしているだけに

彼の辛い気持ちが良く分かる。

時間をかけてゆっくりと回復してほしい。

決して頑張らないでほしい。

そして、また再会できる日を心から待っている。


2010年05月05日(水)

昨日の朝までは熱も37度ちょっとだったが

ついに昨夜は38度3分まで上がってしまった。

さすがの私もしんどい。

不整脈も出ている。

食欲も出ない。

でも、母の家で過ごす私は

母に心配をかけてはならないと思い

大したことないよと言った。

いつもと同じように動くのだが

足の力が出ない。

結局、私の夕ご飯はおかゆとなった。

母に心配をかける結果となった。

今朝は37度2分。

なんとか動ける間に家事を済ませた。

9日の街宣には元気で参加しないと・・・

熱が出ても風邪は医者にかからず治すことにしているから

少し治るまでは日にちがかかるかもしれない。


2010年05月04日(火) 悪化

私が本当に久しぶりにひいた風邪は

少し悪化している。

とにかくしんどい、だるい・・

バセドウ病の時のしんどさとは少し違うが

やはり何もしたくないと言った気分。

目がしょぼしょぼする、くしゃくしゃする。

咳も出始めると止まらない。

朝は37度だった熱も

夕方から上がり始め37度3分まで上がった。

平熱が35度台の私にとって

微熱程度の熱も辛い。

風邪ひきのしんどさをこの最近忘れていたから

余計にしんどさを覚えるのだろう。

昨日は憲法講演会を聴きに行く予定だったが朝断りのメールを送った。

母は冬のパジャマのままで寝たり起きたりしている。

そんな母でさえ、昨日は暑いと言っていた。

私は暑いのか寒いのか分からなくて

脱いだり着たりしていたが

本当は初夏のような気温だったようだ。

今日は昨日よりまた更に気温が上がるようだ。

忙しくて衣替えもしていないままの家の中が

とても気になっているが

この体調では片づける気にもなれない。

風邪が治り、元気になったら

冬物をしまって夏物を出さないと・・・

それにしても、今年の春は寒暖の差の激しい春だった。



2010年05月03日(月) 風邪

一昨日、母をハナミズキ通りにハナミズキを見せにドライブした時

車の中は暑くて薄着になったまま

お昼を食べに入った店が冷房をしていたためか

この数年、ひいたこともなかった風邪をひいてしまった。

一昨日の夜から喉が痛くて真っ赤になっていた。

昨日は咳が出始めた。

夏は37度ほどで高熱ではないが

風邪の症状でもあるだるさが襲ってきている。

咳が出始めると喘息のように止まらなくなった。

しんどい・・・・

昨日は母のところに入院していた時に知り合った人が来られた。

母はいつものことだが

元気そうに4時間も話し込んでいた。

そして、お帰りになってから本当にしんどそうになった。

最近は調子が悪かったのに無理をしたのではないかと思う。

そんな母のこともあり

私の風邪もあって

今日予定していた憲法講演会は参加をとりやめることにした。

講演会は2時間ある。

咳が止まらなくなって皆に、迷惑をかけてもいけない。

防衛と憲法というとても興味深い話だけど仕方ない。

今日は一日母の家のこたつにはいって

ゴロゴロしていようと思う。

早く風邪を治して9日の街宣は頑張らなくちゃ。

そして、母に風邪の心配をさせないようにしよう。

それにしても風邪をひいた自分が信じられない。

母の看護、私の病気の再発、気苦労等々で

免疫力が低下したのだろうか。

でも、寝込まずに治したい。


2010年05月02日(日)

このところ、母のことばかりを書いている気がするな・・・

母が退院してひと月が過ぎた。

5月に入り、母の日と母の誕生日がもうすぐやってくる。

昨日は予定していたように

母を車に乗せて

10時半過ぎに家を出て

ハナミズキ通りを走って

母に白とピンクのハナミズキを見せてあげることが出来た。

今年は早く花が咲いたのか

葉っぱになって花が終わった木も多かった。

それでも通りの左右にハナミズキがいっぱい咲いているのを見て

母が喜んでくれたことは嬉しかった。

お昼になったので

昼食を食べようと久しぶりに中華料理店に行った。

この店は娘が小さい頃に汚しても気にしない店だとのことで

よく連れて行った店だ。

味も美味しいし安価だし好きな店だ。

サラダバイキングと飲み物バイキングが無料。

ランチの天津飯セットを注文し

サラダのバイキングを取り食べた後でホットコーヒーを飲んだ。

値段は二人で¥1400円

安い!

勿論、二人とも全部を食べることはできなかったけど

満足、また来ようねと言って店を出た。

母が車から店への道を歩くのがとても難儀しているのに気付いた。

家に居る時はそんなに感じなかったけど

やはり母の体が重いというのが分かった。

退院した時よりも悪くなっていると言う。

本当に心配だ。

後遺症は三カ月くらいしてから出ると聞いていた。

まだそれには早い。

そして、症状が医者から聞いていたのとは違う。

これも心配だ。

夜、母は入院していた時に知り合った人に電話をしていた。

その人は完治して病院と縁が切れたとか。

良かった。

しばらく話していたようだが

今日の午後、その人が母の家に来られるとのこと。

母も色々と話がしたかったのだろう。

少しでも気が楽になれば良い。


2010年05月01日(土) ハナミズキ

今年も母の大好きなハナミズキの季節になった。

実家の庭に植えている

白とピンクのハナミズキの花が咲いている。

青空に向かって花弁を上に向けて咲いているハナミズキ、

花弁だと思っていたのは実はそうではなく

総苞片で、本当の花は中央に固まっているらしい。

あの上を向いて開いているのが花弁だと思っていたいから

正直、事実を知らない方が良かった気がする。

母は5月11日生まれだ。

今年89歳になる。

そんな母の誕生日には毎年ハナミズキの花が咲き

母を祝ってくれる。

平成10年、母がお腹の手術をした春

家のハナミズキが本当に綺麗に咲いた。

父が母にそれを伝え、母は退院して見るのをとても楽しみにしていたが

母が退院したのはハナミズキの季節を過ぎた頃だった。

ハナミズキの花言葉は「返礼」だとか。

約100年前、平和の使者として当時の東京市長、

尾崎行雄氏がワシントンに桜を送り、

その返礼としてハナミズキは、日本にやってきた。

このことから返礼という花言葉が生まれたのだろうか。

そのほかには「私の思いを受けてください」

「公平にする」

「華やかな恋」という花言葉もあるそうな。

去年は母を連れてハナミズキ通りを走った。

道路の両脇に咲く白やピンクのハナミズキを見て

母は歓声をあげた。

そうだ、今日、母を車に乗せて

ハナミズキ通りまで走ろう。

母の気分転換にもなる。

お天気も良い。

連休が始まったが今年の連休はつつじも観に行くことはできない。

せめて、車の中から

母が好きなハナミズキの花を堪能してもらおう。


スカーレット