スカーレットの心のつぶやき
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2010年02月23日(火) 海ゆかば

「海ゆかば」という歌を知っている人は

どのくらいいるだろう?

知っていても嫌だと思う人も居るはず。

私はこの「海ゆかば」を聴くと自然に涙が出てくる。

3月14日の西村眞悟先生の講演会で

「君が代」に続いて「海ゆかば」を斉唱しようと思っている。

そのために「海ゆかば」のCDを探した。

そして「海ゆかばのすべて」というCDを見つけた。

25曲が色々な海ゆかばとなっている。

そもそも、「海ゆかば」は

万葉集約4500首の中の一首(第4094番)

大伴家持の詠んだ、奉祝の長歌の一部だ。

万葉仮名で書くと下記のようになる。

「海行者  美都久屍  山行者  草牟須屍 太皇乃 敞尓許曾死米 可敝里

見波勢自」

うみゆかば みづくかばね やまゆかば くさむすかばね おおきみの へ

にこそしなめ かえりみはせじ

この歌が軍歌として歌われたから

戦後は嫌だと思う人が多いのだろう。

でも、じっくりと聴いてみてほしい。

心の中に染みいるとても良い歌だ。

日本人の魂に響く歌だ。

君が代と同じく小学校で子供たちに教えるべきだと思う。

「海行かば」について

http://www.tetsusenkai.net/kokutai/umiyukaba.html

 「海行かば」の出典のひとつは、続日本紀(*)である。

 天平勝宝元年(西暦749年)の春、聖武天皇が奈良・東大寺に行幸あそ

ばされた際に、中務(なかつかさ)省の長官であつた石上朝臣乙麻呂(いそ

のかみ・あそん・おとまろ)が儀式の席上で天皇への忠誠の厚い大伴宿禰

(すくね)・佐伯宿禰の両名を天皇がおほめあそばされてゐるといふ趣旨

で、両名の先祖を賞賛、両名を激励するときに伝へたことばとされる。

 もうひとつの出典は万葉集である。

 万葉集4094番には、上の様子が長歌のかたちで収められてゐる。

 ただし最後の句は、続日本紀では、

 長閑には 死なじ (のどには死なじ) となってをり、

 万葉集では、 かへりみはせじとなつてゐる。

 大東亜戦争中によく歌はれ、戦後は神風特別攻撃隊のフィルムなどで背景

に流れる曲は、信時潔作曲のものであり、歌詞は万葉集の方を採用してゐ

る。
 
意味は、

 海をゆくなら

 水に漬かる屍ともならう

 山をゆくなら

 草の生える屍ともならう

 天皇のおそばに

 この命を投げ出して

 悔ひはないのだ

 けつして

 ふりかへることはないだらう

といふ内容である。




2010年02月19日(金) やはり・・・

今日、愛大病院を受診した。

一週間ほど飲む薬の効果はあまりなかった。

むしろ、胃への刺激ガ強くて胃の具合が悪くなってしまった。

主治医の前に座るなり

やはり再発だねと言われた。

普通の正常値の3倍もの値となっていた。

やはり一生飲み続けなければならないのだろうか・・・

3錠処方された。

その薬の副作用を知って驚いた。

数年前から背中が痒くてたまらなく

かきむしってしまったほどだ。

せっかくの白いキレイな背中に

湿疹のあとが残ってしまって

とても悔しかった。

今回、また飲み始めるとなると

同じ症状が出るに違いない。

ああ〜憂鬱。

でも、飲まないと治らないのだから

痒みも我慢しないといけないのだろう・・・

ひと月後の診察までに

痒みがあっても飲んでくれと

医者は言うに違いない。


2010年02月17日(水) 再発?

母が入院している病院にあるPCから書いている。

母は3日に入院した。

私は毎日母の病院へ行くのが日課となった。

面会時間の関係で

朝から晩まで付き添うことは出来ないが

それでも家に居ても落ち着かないから

家事を済ませると足は母の病院に向う。

母の看護が出来ることは

私にとってとても有り難く幸せなことだと思う。

だから、一度も嫌だと思ったことはない。

でも、体は正直で

この数ヶ月の間

心身ともに無理をしたのだろうか・・・

体重が37キロを切ってしまった。

ひと月間で三キロ減った。

異常だ。

確かに食は細いがこれは今に始まったことではない。

以前からのことだ。

それでも40キロを維持することが出来ていた。

やはりバセドウ病の再発だろうか・・・

先週の金曜日にバセドウ病でかかっている愛大病院を受診した。

血液検査の詳細は今秋の金曜日に判明する。

どんなにしんどくてもやらねばならないことはある。

だから、今の生活を変えることはない。

もし、再発していたら薬を飲めば良いのだから。

それよりも母のことが心配だ。

一日も早く元気になって退院してほしい。

毎日父の仏壇に手を合わせている。


2010年02月10日(水) 人生の究極の選択

人は生きて行く上で

何かを選ばなければならない時が来る。

そして迷う。

決断できない。

そんなことはたくさんある。

今回、私の目の前にある問題はまさにそうだ。

一つを選べば

もう一つは選択しないことになる。

どちらが良いのか?迷う。

どっちでも良いという問題ではない。

そして、後であの時もう一つを選べば良かったと

思った時には遅いのだ。

ある人は言った。

迷っている時はやめるのが良いと。

また、ある人は言った。

迷っている時に実行することによって

ことは前に向かって行くのだと。

確かにどちらにも賛同できる。

迷うということは躊躇っているということだ。

だから、そんな時は思い切ってやめれば良い。

でも、今回の選択は残り時間も少なくなり

決断することでまた人生が変わることだ。

早く決めねばならない。

でも、やり直しがきかないから

選択した後の後悔が怖いから。

ああ〜くじ引きで決めるわけにはいかないし

サイコロを振って決めるものでもない。

ああ〜どうしよう・・・


2010年02月08日(月) 西村眞悟先生の講演会

去年の夏、大阪デモに参加して

初めて西村眞悟先生とお会いして話をした。

それ以前からメールをいただいたことはあったが

デモの後、先生からお礼のはがきを戴き

その後、メールや手紙でのやりとりをたまにするようになった。

そして、秋10月、先生に手紙を書いて

私たち支える会の勉強会に来て下さらないでしょうかと

お願いをした。

先生からは「来いと言われればどこへでも行く」という返事をいただいた。

何と力強い言葉だろう!

感動した。

まさに、私のためではなく公のために生きているのを感じた。

それから、来月14日に開催するための

準備に取り掛かった。

はじめは20人ほどの小さな会をしようと思って

計画を立てていた。

費用も私が負担すると決めた。

支える会の仲間たちが先生を囲んで

色々な話をして勉強になり

喜んでくれればそれでいいと思っていた。

でも、その計画を仲間に話すと

せっかく先生がいらっしゃるのだから

一人でも多くの人たちに聴いてもらうのが良いと言った。

正直、迷った。

大きな講演会となるとそれなりの準備も費用もかかる。

二の足を踏んだ。

母の入院もある。

小さな会なら何とかできるが

大きな会は大変だ。

しかし、決心した。

これも先生のため、日本のためだ。

結局、200人限定要予約という形ですることにした。

会場も決め、飛行機のチケットの手配もした。

先生がお泊りになるホテルも予約した。

後は動員だ。

今の時点で100人ほどの申し込みがある。

200人までは集まらないかもしれないが

そんなに大きな会場ではないので

100人集まれば良い。

先生の演題は「魂の復活としての歴史の回復」だ。

きっと素晴らしい話が聴けるだろう。

先生の講演会を開くことは

私に夢だった。

ずっと心の中で温めていた大事なものだ。

成功させたい。

そして、その後は母の看病に専念したい。




2010年02月05日(金) 悪夢であったほしい

人生は楽あり苦あり、

山あり谷あり・・・

私が生きて来た60年足らずの年月も

今、振り返って見たら

本当に様々なことがあった。

これは私だけではなく

ほかの人も誰でも同じことだ。

母もそうだ。

母は退院して一週間家にいたが

また入院している。

そして、私の看護の日々が始まった。

今回の入院は

二カ月の予定だ。

4月の桜が咲く頃には退院できるだろう。

母が退院したら

姉と三人で桜を見に行きたい。

母との時間を大切に過ごしたいと思う。

人生を悲観的に考えていたら

誰も生きていけない。

終わったことや苦しいことを

思い出すことはあっても

感情の中に封じ込めるのはやめよう。

記憶と感情は別物なのだから。

私にとって悪夢と思えるようなことが

身の回りに次々と起きても

それは私に神様がお与えになった試練だと思って

ひとつひとつ向かっていきたい。

でも、母のことはどうか夢であったほしいと

思ってしまう。


スカーレット