スカーレットの心のつぶやき
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昨日、夫と二人で映画を観てきた。
「父親たちの星条旗」
あの硫黄島の決戦をアメリカと日本の
両方の視点で描いた二部作の第一部で
擂鉢山に星条旗を立てた6人の兵士のうち
生き残った3人の兵士のその後の人生を描いたものだった。
監督はクリント・イーストウッド
彼の反戦の意思が伝わってきたし
激しい戦争シーンは戦争の悲惨さを十分訴える
良い映画だったと思う。
星条旗はアメリカ人にとって最高の誇りだ。
経済的にも追い詰められていたアメリカが
この星条旗を立てたことが
戦争への協力資金や人々の気持ちを高揚させるために役立った。
でも、英雄と言われた彼らは
闘って死んで行った戦友たちこそ英雄であり
自分たちが英雄と言われることに苦しんでいた。
星条旗を二回立てたことによって誤解も生まれ、
そのためにも苦しんでいた。
人々の心って勝手なものだ。
英雄から最低の人間になるのも早い。
戦争では英雄なんて生まれないのだと思う。
12月には日本の視点から描かれた「硫黄島からの手紙」が公開される。
先日NHKのTVで硫黄島決戦で生き残った数人の人が
語っていたのを見たが、
それは言葉ではいえないくらい悲惨なものだった。
硫黄島決戦は6日しか持たないといわれていたにもかかわらず
日本の必死の戦闘でなんと36日も持ったという。
食べるものもなくなった彼らは
死んでいった人の骨が炭化したのを食べたと言う。
まら見つからないために
死体の下に隠れていたとも言う。
捕虜になることを拒み、自決に近い形で死んで行った人たち、
彼らが居たからこそ今の日本がある。
平和な日本の礎になってくれた人たちに
心から感謝をしないといけないとつくづく思う。
戦争って本当に人々の心を狂わすものだ。
戦争を知らない世代の私たち必見の映画だった。
ひと月ほど前に、新刊案内で見て読んでみたくなり
徳富蘇峰著、「終戦後日記」(頑蘇夢日記)を購入した。
蘇峰は徳富蘆花の兄で、二人とも熊本を代表する文筆家だ。
蘇峰は明治から昭和にかけて
世の中の批判をしてきた。
はじめは自由主義者として、
後半は帝国主義の信奉者として、各時代の世論の第一線にあった。
今回のこの本は、そんな蘇峰が
終戦後綴った日記で、
無条件降伏への憤り、
昭和天皇への苦言から東條、近衛ら元首相への批判と
大戦の行方を見誤った悔悟の念を赤裸々に明かしたものだと
本の帯に書いている。
今、戦争についての色々な本を読んでいる私にとって
とても興味深いものだったので購入した。
昭和史を知る一級資料でもあると思う。
でも、なかなか進まないのだ。
難しい。
私の読書力では無理なところもある。
でも、諦めず、
一日一ページでもいいからと思って読んでいる。
季節はまさに読書の秋。
灯火親しむ秋だ。
必ず完読しよう。
それにしても、なかなか読めないな・・
昨夜、娘と母が向かい合って話しこんでいた。
母が話していたのは
自分が満州に渡った頃のこと。
娘は一生懸命に聞いていた。
母は話し始める前にこんなことを言った。
「じいちゃんのために忘れよう、忘れようと思っていたら
いつの間にか忘れてしまったことが多くなった」と。
父は母が満州に居たという話を嫌った。
父は初婚、母は再婚だった。
母が満州に渡ったのはその初婚相手と一緒だったから
父としては母の満州での生活を聞きたくなかったのだと思う。
母は話を始めた。
母が満州に行ったのは満州鉄道警備隊に居た人と
結婚するためだった。
昭和16年、戦争の始まる前だった。
港へ母親が送りに来ていた時
母親の顔が涙でぐしゃぐしゃになっていたことを
今も母は忘れられないと言った。
船で大陸に渡り、満州へ。
広大な土地、田舎の方だから一軒家しか建っていない。
そんな寂しいところで暮らし始めた母の気持ちを思うと
私は胸が痛くなった。
聞いている娘は何も言わずじっと聞き入っていた。
母は美人だった。
だから、満州の田舎に居るのは勿体無い、
都会へ出たら良いと言われたと嬉しそうに話していた。
満州の地の日常があやしくなって
日本に戻ることになった。
そして結婚した相手に赤紙が来て召集。
南の島で戦死した。
最後に、母はぽつりと言った。
「私が満州へ結婚していこうと思ったのは
家が裕福でなくて嫁入り道具を母親に揃えてもらうのが辛く
満州へ行李ひとつの荷物で行けたから」
「満州で見た夕日が大きく赤く綺麗だった」
二十歳になるかならないかの頃の話は
娘にとって不思議に思えたかもしれない。
きっと娘にとって忘れることの出来ない
祖母との時間となったに違いない。
戦争を体験した人の話は貴重だ。
戦争を知らない世代の私にとって
本を読んだり映画を観たりすることからしか
知識を得ることは出来ない。
本当は戦争体験者から実際に話を聞くことこそ
真実を知ることの第一歩だと思う。
後一年半したら娘は大学生になりこの家を出る。
一人暮らしが始まる。
その一人暮らしの中で何か辛いことがあったとき、
昨夜祖母から聞いた話を思い出して
頑張ってくれたら、私の母もきっと喜ぶに違いない。
娘にとって有意義な夜になったと思う。
昨日は今週の水曜日から開催されている
北海道展へ母と行って来た。
よくもこんなに人が集まるものだと感心するほど賑わっていた。
娘に頼まれていたカレーパンは
30分並んで買うことが出来た。
途中で並ぶのが嫌になったけれど
せっかくここまで並んだのだから・と思って頑張って並んだ甲斐があった。
パンの生地が美味しいのだ。
カレーパンは好きで色々なパン屋さんのを食べたが
昨日食べたのが今までで一番美味しかった。
中身のカレーは辛くてハアハア言いながら食べた。
やはりカレーは辛いのに限るって思う。
ほかにもチーズケーキを買ってきたが
これも、本当に美味しかった。
適当な甘さで胃にもたれることもなく
酸味も利いていて、
舌触りもなめらかで口の中でとろける感じで
久しぶりに美味しいケーキを食べることが出来た。
それにしても日本は平和だなあ・・・
世界中では飢餓で死んでいる人も居るし
戦火の下で満足な食事も出来ないで居る人も多い。
でも、こうして美味しいものを
何の不安もなく食べることが出来る日本って
本当に平和だ。
平和ボケしすぎて、何も感じなくなったら終わりだ。
今のこの生活は先の戦争で犠牲になった人たちが
築いてくれたものだということを
心から感謝しないといけないと
昨日は改めて思った。
のどの障害を理由に
東大和市の保育園入園を拒否されたのは違法だとして、
六歳の女児と両親が起こしていた訴訟で、
東京地方裁判所は東大和市に対して、
保育園入園承諾を命じる判決を出した。
この判決は、
障害を持っているという理由で
普通の子と同様な生活が出来るのに、
同じ園や学校へ通えない子どもたちに対して、
明るい希望の持てる、喜ばしい判決だと思う。
テレビの記者会見で、この女児が、
満面の笑みを浮かべて「ありがとう」
と言っている姿を見て胸が熱くなったが、
女児に「ありがとう」と言わせるほど、
行政の福祉は充実していないのだと、
改めて思った。
市側は入園を認めなかった理由として、
万が一のときの責任問題と、
看護師を雇う費用を上げていたが、
市の予算を削ってでも福祉面を充実させるのが本当だと思う。
女児は来春小学校へ入学するが、
その時に市と学校が入学拒否をして、
女児に悲しい思いをさせることのないよう、
十分な配慮をしてもらいたい。
この数日来、
日本の公立高校の三年生の社会科履修問題で揺れている。
私の娘は高校二年生、
昨日は高校でこの問題について話があり
大丈夫だという話を聞いて安心していた。
普通世界史以外に地理か日本史の中からひとつを選び
履修しないといけないのに
大学受験に必要のない教科は
単位を取得しないで履修したことにしていたという。
現在高校三年生が皆卒業できない可能性のある高校も出てきた。
センター試験まで後三ヶ月
受験も追い込みのこの時期に
残された単位履修のために
今年中に70時間勉強しないといけなくなったという。
ある子供は「受験科目でない科目にそんなに時間を費やすことは無駄だ」
と不満をもらしていた。
またある子供は「ほかのちゃんと履修している人たちに対して
履修しないで受験することは失礼になる」と言っている。
それぞれの気持ちは分かる。
もし、私の娘がこういう立場に立っていたとしたら
親として平気で居られないような気がする。
何もなくても受験に対してストレスがたまるこの時期、
心配なく勉強に集中できる環境を作ってやることが
子どもの周りの者たちの責任だと思う。
良い大学へ進学させたいという高校同士の
競争意識がこういう結果を招いたのではないだろうか。
文部科学省はこの問題をどういう風に処理するのだろう。
学校の姿勢、先生たちの勝手な思い込みが
子どもたちの不安を作ってしまった。
もう一度原点に戻って考え直す時期なのかもしれない。
昨日は午前中少し暑い気がして薄着をしていたら
午後になって寒さに気づいたときは遅かった。
午後、かまぼこ板の絵を描くことに夢中になっていて
寒いと感じなかったのかもしれない。
気づいた時はすでに遅く、
頭痛はするし、体はだるいし、胸は悪いし、
体はゾクゾクするし・・・・
最悪状態になった。
急いで箪笥からニットのセーターを引っ張り出してきて着たが
ゾクゾクする寒気は直らない。
夕方になって母の所へ行った時には
ダウン寸前だった。
母が作ってくれた夕食も殆ど食べることが出来ず、
熱いお風呂に入ってやっと寒気がなくなった。
来月の初めには京都へ行くことにしている。
後一週間ほどだ。
それまでに体調を戻さないといけない。
今日は月一度の心臓の病院の予約診察日だ。
先生に言って風邪薬をもらって来よう。
風邪を引いていても心だけは元気で居たい。
風邪なんかに負けないぞ!
2006年10月24日(火) |
母との喧嘩 (夢・・) |
今朝、明け方に見た夢は
母と言い争っている夢だった。
勿論夢だから気にしないで良いと思うのに
何となく後味の悪い夢だった。
父が亡くなって以来、母と一緒に夜を過ごしている私、
朝3時半に起き自宅に帰る日々がもう5ヶ月になる。
疲れも出ているのだろうか・・・
朝は寒くなった。
暖房がいる頃には自宅に帰ろうと思っている。
夜は8時になると眠くてたまらなくなる。
時には9時前に寝ることもあるが
そんな時はお風呂の後の掃除などを母にさせてしまう。
母は何ひとつ言わずにしてくれるが腰を痛めたら大変だ。
母と買い物に行く日が多い。
母と一緒に居て腹の立つことなんて何もない。
耳が遠いから会話が出来ないときもあって
たまにいらいらとすることもあるが
後でいつも反省している。
夢の中で母と口喧嘩をしてしまったことは
私への警告かもしれない。
後何年母と一緒に居られるか分からない。
母との時間を一瞬一瞬大事にしないといけない。
今日も母と仲良くしよう。
私には自分でも気づいている相反する面がある。
たとえば、やさしさと冷淡さ、
神経質なところと無神経なところ、
繊細さと大胆さ、
倹約と浪費などなど・・・
昨日親友と話していて改めて
私自身の矛盾した性格を再認識した。
誰でも矛盾した点を持っていると思うけれど
私の場合はそれが顕著というか極端なのだ。
だから昔精神科の医者に
境界性パーソナル障害などと言われたのかもしれない。
年を取るにつれてそういう面も緩和されてきている。
中村天風先生の本を読み
自分自身の生き方について考え出してから
私もずいぶん変わったものだと思う。
私の中で矛盾している点の典型的なものは
人の好き嫌いだ。
本当に自分が好きな人のためなら
どんなことを厭わない。
お金の面でも、精神的な支えでも
体力を使うことでも何でも平気になれる。
でも、自分が嫌いな人とは話す気にもなれない。
無理に近づきたいと思わないし
こちらからは決して行動を取らない。
相手から何かをしてくれても負担に思う。
借りているような気がしていい気持ちになれない。
自分でも本当に不思議だ。
心の中って誰にも見えないし
自分でも不可解な面っていっぱいあるのだな・・・
でも、もうこんな年になったのだから
いつまでも子供じみたことを言わず
誰にも愛想良くしないといけない。
そろそろ相反する面を修正する時期に来たのかもしれない。
2006年10月22日(日) |
もうひとつの男と女の話 |
一組の夫婦が居た。
傍目には他人も羨むようなカップルだ。
男は背も高く見た感じとても優しそうでハンサム、
女も美人でお似合いの夫婦だ。
しかし、男には女に言えない過去があった。
男の母親は中学生の頃に亡くなり
男の父親は再婚して新しい女が母親として家に来たのだ。
亡くなった母に比べて年の若い新しい母は
男にとって女と感じる存在だった。
男の子の思春期だった男は
いつの間にか新しい母のことが気になって仕方なくなった。
新しい母も自分よりも年上の夫より
若くて可愛い義理の息子の方に心が傾いてしまった。
男の父親は自営業でその仕事のために時々家を空けた。
男の部屋の隣で母が寝ている。
ドア一枚で仕切られた隣の部屋から聞こえる
母の寝息が男を苦しめた。
男は母が欲しくてたまらなくなった。
絶対にいけないことだと思いながらも
母を抱いた時のことを想像すると
夜もろくに眠ることが出来なくなった。
男にとってそれは拷問に近かった。
昼は中学へ行き勉強しないといけない。
でも、眠れない日々が続くと次第に集中力が落ち、
妄想や雑念にとり付かれると気分も落ち着かなくなり
学校の成績も落ちていった。
男の母はそんな息子の気持ちを分かってはいたが
やはり母として許されないことだと思い
男と二人の時間をなるべく持たないようにしていた。
男の父はそんな二人の気持ちなど考えたこともなく
新しい母親が息子にとって良い存在になっているのか?
息子は母親と喧嘩せず上手くやってくれるのか?
それだけが気になっていた。
傍で見ていると母親は義理の息子のことを丁寧に扱い、
気配りもしてとても良い母親ぶりを発揮しているように思えた。
一方、息子の方は無口で愛想はなかったが
母親に話しかけられると返事もするし
嫌そうな顔もしないで普通の母と息子の関係になっているのを見て
安心して外の仕事に出かけることが出来た。
たまたま、その日は台風が来ていて嵐になった。
父親は数日前に出張していて帰宅していない。
外の風の音、窓ガラスを打つ雨の音は激しく
大人でも不安になるほどの嵐の夜だった。
男はいつものように母のことが気になって悶々としていた。
母もまた台風が怖くて眠れない夜を過ごしていた。
母は息子のことが気にならとうとうドアを開けてしまった。
男は驚いた。
目を開けてみると母が自分のベッドの傍に立っている。
どうしたの?とも聞けずただ黙って母を見つめた。
母は「大丈夫?」と息子に聞きその手を息子の布団にかけた。
母にしては心配しての行為だったが
息子にとって心の引き金を引くきっかけになった。
そして、とうとう母と息子は一線を越えてしまった。
血のつながりはないにしても母と息子には違いない。
そんな二人が禁断の果実の味を覚えてしまったのだ。
その後の二人のことはここで書くまでのことはない。
父親の留守を狙って二人の関係はエスカレートしていき
男が結婚してからも母親との関係は続いてしまった。
外から見たのではどんな夫婦でも分からない問題がある。
その男の妻は自分の夫とその母親との関係を何も知らない。
男は妻にやさしく妻の母親が来ても歓待してくれる。
だから女は夫の優しさと愛情を信じている。
男と女の間には成人した二人の娘が居る。
一人は県外で一人暮らしをしているが、
そんな娘が引きこもりになり人間関係に悩み
仕事もやめてしまった。
そして自殺未遂をするようになって家に連れて帰った。
男はそんな娘が不憫でたまらない。
何故可愛い娘がこんなことをするようになったのか・・・
悩み苦しんだ。
原因が理解できなくて医者に相談にも行った。
そして、その医者から娘が小さい頃からの
家族関係を尋ねられて初めて気づいた。
自分と母親との関係、
自分と父親との関係、
そして夫婦の関係。
それらの集大成がこうして娘の症状に現れてきたのだと。
今、男は自分自身を振り返り、後悔の日々を送っている。
そして、自分の妻には言えない辛い過去を引きずり
一生重荷を背負って生きていくことが
娘に対する償いだと思っている。
神はこの男に罰を与えたのだ。
一人の男と女が居た。
彼らは恋人同士だった。
男はそれまで恋愛経験が豊かで
出会いや別れを女よりは数多く経験していた。
でも、男は別れた女たちとトラブルを起こしたこともなく
数年後に偶然出会うことがあったとしても
懐かしさで相手を思う、そんな男だった。
一方、女はうぶで恋愛経験も少なく
この男と出会って初めて恋をしたと思った。
二人は一ヶ月に二回位の割合で会った。
出会った頃の二人は
喫茶店で話しをするだけで幸せな気分になれた。
でも、回を重ねるうちに
男も女もお互いを求めるようになっていった。
プラトニックラブでは物足らなくなったのだ。
そして、ひと月に二回の逢瀬によって
二人の恋愛の濃さは増していった。
出会って半年くらい経った時、
女は男と別れたいと思うようになった。
嫌いになったわけではない。
でも、これ以上付き合ってもお互いに苦しくなるだけだ。
会っている間だけの関係で済ませばそれはそれで良い。
しかし、男がそれ以上のものを女に求めるようになったとき
自分自身に男が思うほどの強い気持ちがないとことに気づいたのだ。
女は男に別れを告げた。
男は別れたくないと言った。
お互いの心は少しずつ違うレールを走るようになっていた。
男は別れが来ることに気づいてはいたけれど
女を愛する気持ちを消せなかった。
付き合いはじめて3年、
男の気持ちは付き合いはじめた頃と同じ、
否、それ以上のものになっていった。
女は次第に男がわずらわしくなっていった。
しかし、その反面自分に自信を覚えるようになっていった。
それまで恋愛経験もなく、自分は持てない女だと思い込んでいたが
案外そうでもなく、
私って素敵な女なのだという気持ちが大きくなっていった。
そういう気持ちになって以来、
女は自分の中の優越感を満たすために
男と別れるのは損だと思うようになった。
そして、女は自分が会いたくなった時だけ
男に連絡を取り会うという関係を続けて行った。
ある日、男が自分の生まれ故郷へ一緒に行ってほしいと言った。
女は男が生まれた場所へ行きたいと思いはしなかったが
連休に行く所もこれと言ってないし
暇つぶしに良いかなと思い「良いわ」と答えた。
そんな約束をしてから二ヶ月が経った。
その間、男からの連絡が途絶えた。
女は「今日はきっと連絡してくるに違いない」と思いながら
それでも少しどうしたのかな?と思う気持ちで待っていた。
女は自分から男に連絡をする気にはなれない。
でも、男と電話で話すのは別に嫌ではない。
だから、男からの連絡を待っていたのだ。
男はその二ヶ月の間、色々なことを考えていた。
自分は女にとってどんな存在なのか?
薄々は気づいていたがそれを認めたくなかった。
しかし、いずれは女とは別れないといけない。
このままでは自分が駄目になってしまう。
今が別れる潮時かもしれない。
そんなことを思いながら
女から借りていた本が家にあるのに気づき返そうと思った。
宅急便で送ろうと思い女に電話をかけた。
自分の生まれ故郷へ女と行こうという気持ちは消えかかっていた。
女は男からの電話がかかると珍しくすぐに電話を取った。
男から本を送るという話を聞いたが
それには答えず、次のように言った。
「あなたが前に言っていたあなたの故郷へ行っても良いよ」
「今の私にはお金がないからあなたが出してくれたら行っても良いよ」
そう言って女は電話を切った。
男は女のその言葉に唖然としてしばらくの間動けなかった。
・・・・・・?
これはどういうことか男にもはっきり分かった。
結局、女は男の気持ちを大事にするのではなく
男を金蔓にしていただけなのだ。
そういえば会った時にかかる費用は皆男が払っていた。
女ははじめの頃こそ済まなさそうな顔をしていたが
段々と平気になり最近は当然という顔をし始めていた。
女は財布を持たずに会いに来て男にお金を貸してほしいと言った。
男は女のためなら少々のお金は惜しくなかった。
返して欲しいとも思っていなかった。
しかし、この電話の後、それまでの女の気持ちが手に取るように分かり、
腹は立たないが、自分自身がとても馬鹿に思えた。
自分は一体何をしていたのだろう?
女は自分のことを都合の良い男としてしか考えていなかったのだ。
そう考えたら今までのことが全て辻褄が合う。
ハハハ・・・・男は笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。
もう女とはこれで終わりにしよう。
男はそう思うとなぜか気持ちが楽になった。
男は携帯に登録していた女の電話番号とアドレスを削除した。
外へ出てみると秋晴れの青い空は雲ひとつなかった。
昨夜、夫とTVを見ながらこんな会話が交わされた。
それはある夫婦のことだった。
夫が暴力を振るうのが原因で離婚したが
次に結婚した夫は
パチンコ三昧、
家では酒びたりで働かない。
何かを言うと怒り出して暴力も振るいかねない。
妻は再び離婚。
まるで作り話のようだが事実だった。
そんな男性に比べて私の夫のことを考えた。
夫は真面目だ。
酒もタバコもしない。
もちろん、女遊びもしないし
パチンコやマージャンなどの博打もしない。
毎日、家と職場との往復、
食事は必ず我が家で食べる。
一年に数回、友人と夕食を食べることもあるが
それも本当に珍しい。
趣味は読書とPC。
真面目を絵に描いたような人だ。
夫の欠点は無口なこと。
結婚して21年になるが、
それが私の不満になり喧嘩にもなってしまう。
私が夫とはこんなものだと思えば腹も立たないはず。
全て私に原因がある。
そんな夫は自分自身のことをわかっているのだ。
だから、昨夜のような会話になった。
私「あんな人のことを思うと、あなたは本当に真面目で
私には過ぎた人やね」
夫「つまらん男だろう?」
私「ううん・・・そんなことないよ」
夫「・・・」
私「本当に有難いと思うよ、私は幸せな妻やね」
夫「そうやろ?」
私「うん。つくづくそう思うよ。有難う」
夫はニコッと笑った。
私の気持ちには嘘はない。
確かに、今までちょっと物足らない気がしたこともある。
でも、こうして私が平穏無事に過ごせるのも夫のお陰だ。
今朝の新聞に私が投稿した「ブルームーン」が載った。
読んだ夫はどんな気持ちになるかな?
でも、私の昔々の恋物語だ。
もう時効の話だから夫もわかってくれるに違いない。
今の私の幸せは夫の生活にある。
もっと夫のことを見て大事にしないといけないとつくづく思う。
昨日、母と三越で開催されている
「横浜中華街展」に行ってきた。
娘が新聞広告を見て食べたいものがあるから買ってきてと言った。
私は料理の中では中華料理は好きな方だ。
最近は何処へ行っても昼は焼き飯を食べている。
店によって味付けもあまり変わりはないが
微妙に薄味だったり脂っこい感じがしたりして違う。
昨日の中華は皆本物だった。
限定60食というランチがあり皆並んで食べていた。
私も後9食しか残っていないという言葉に釣られて食べたが
思っていたよりは美味しいと思わなかった。
娘に頼まれて買った「白龍髭」(パイロンシュー)は、
宮中伝統茶菓子だそうで、
蜂蜜・もち米・ジャガイモを24時間ほど熟成させて作った龍糖を
16384本の糸状にし、
ひまわりの種・かぼちゃの種・アーモンド・胡桃・
ココナッツ等を混ぜ合わた
健康食の粉を包み込んだものだそうな。
冷凍して食べると美味しいというので冷凍して食べてみた。
何とも言えない味だった。
見た感じはまるで繭玉、
サクッとした食感で
食べると細い糸が口にからまりそうになる。
中国の人って手の込んだものを作って食べるのだな・・
感心する。
また、大きな肉まんは1個食べたらころりといきそうで
私は半分しか食べられなかった。
白ゴマをまぶして揚げた御餅の中に餡が入っているゴマ団子は
美味しいけれどちょっと脂っこいと感じた。
昨日の夕食は買っていた中華にしたが
当分中華は遠慮したいという気がする。
やはり和食が良い。
なんて中華街展に行ってきたのだから文句を言っては駄目だな・・・
母は疲れたかもしれないけれど
母との思い出も増えた気がする。
楽しい一日になった。
私の好きな歌、
今井美樹の「プライド」
車の中でいつも聞いている歌だ。
この歌の歌詞は恋して別れた女心を上手く言い当てている。
女の人が誰かと恋をして別れた後、
最後に自分を支えるものは自分自身の中に残った
プライドだと思う。
♪「私は今、南のひとつ星を見上げて誓った
どんな時も微笑みを絶やさずに歩いていこうと
あなたを想うとただせつなくて涙を流しては
星に願いを月に祈りを
捧げるためだけに生きてきた
だけど今はあなたへの愛こそが私のプライド」♪
ああ〜なんて切ない女心だろう。
愛する人に去られても決して泣かず
愛したという自分の心、それを唯一のプライドとして
生きて行こうと思う気持ちに胸が痛くなる。
これだけ一人の人を愛することが出来たって
もしかしたらとても幸せなことかもしれない。
私ならどうだろう?
私のプライドは?
私なら去って行った人への愛をプライドにはせず
去って行った人の携帯番号を削除するか
自分の携帯を変えてしまって
自分も相手からもお互いに二度と連絡できなくする。
そして、いくら相手に電話をしたくなっても
自分からはかけないしメールもしないという気持ち、
それを私に残されたプライドとして生きていくだろう。
でも、考えたらそれっていつまでも
去って行った人への未練を持っていることになるのかな・・・
今、スマップが歌う「有難う」がオリコン第1位になっているそうな。
私はまだその歌を聴いたことはないが
娘に聞くと口ずさんでくれた。
「有難う」の言葉は魔法の言葉だ。
どんなに腹が立っていても
相手に「有難う」と言われるとついニコっとしてしまう。
何かしてくれた時だけに「有難う」というのではなく
毎日こうして生きていることへの感謝の気持ちから
私は毎晩寝る前に「有難うございます」と言っている。
誰に対して言っているというのではない。
大きな宇宙空間に存在する、
人の力では動かせない大きな力、
神に対して有難いと心から思う。
日ごろから不平不満を言わず、
何事にも有難いと思える気持ちを持って
生きて行けたらどんなに良いだろう。
自分が口にする食べ物や
目に見えない空気、
道の端にひっそりと咲いている小さな花々にまで
有難うと声をかけることが出来る人になりたい。
ささやかだけれど今の私の幸せに
心から有難いと思えるようになった。
生きているのではなく
生かされているということへの感謝の心を
これからもずっと持ち続けたいと思う。
「天風先生天風先生・・」
この言葉が今の私のおまじないになっている。
こんなことを言うと天風先生に叱られるかな?
最近の私は先生の本を毎日読み
少しずつ心元気で
「怒らず、怖れず、悲しまず」の生活が送れるようになった。
今までちょっとしたことで落ち込み
こんな悲しいことはないと思い込んでいたことからも
心が解き放たれて今は自由で楽しい気持ちになっている。
でも、ただ一つ、
怒ることを止めるのが難しい。
娘のことでも、朝起きないときに怒ったら駄目だと思いながらも
ついつい口を出してしまう。
部屋の片付けのことでも同じだ。
ああ〜何故怒らないようにならないのだろう・・・
昨日、母が私の薬を捨てていたことが分かった。
去年の手術の後塗らないといけない薬を
母の家に置いていたら
亡くなった父の薬だと思って捨てたとか。
まだまっさらに近い状態の薬で半年から一年分の量があった。
またもらいに行く必要があるが予約制なので直ぐにはもらえない。
母に「どうして捨てたのか?」と詰め寄って
怒りそうになった私。
「天風先生天風先生」の言葉を唱えた。
自然に怒りがおさまった。
私が怒ることで心が弱くなり損だ。
一瞬の怒りをおぼえても後は直ぐに忘れることにしよう。
この分では、
おまじないは当分必要かもしれないな・・・・
今日は私の住む地域の秋祭りだ。
私が生まれ育った市の秋祭りとは違って
規模も小さく地味な祭りだ。
同じ県内の祭りでも
派手で勇壮な祭りがあるが私はまだこの目で見たことがない。
今日から始まる新居浜の太鼓台祭りを見に来ないかと誘いがあった。
以前から一度実際に見てみたいと思っていたが
距離的に行く気になれず悪いが断わった。
私の母はお祭りが大好きだ。
小さい頃から神輿の後をついていったらしい。
わっしょい、わっしょいの声を聞くとじっとしていられなかったと言う。
私は小さい頃、
祭りの時の獅子舞が怖くて仕方がなかった。
でも、怖い反面見たい気持ちがある。
一年に一度のことだ。
綺麗な着物を着せてもらって獅子舞を見に出かけていた。
あの頃のわくわくした気分を今の子供たちは感じるのだろうか。
今朝も6時から我が家の家の前、
近くの神社の宮出しに参加するため
大勢の人たちが集まっていた。
娘が小さい頃は私も一緒になって神輿の後をついて回ったものだ。
大きな袋を持ってお菓子をもらいながら歩いていく。
私にとっては初めて経験することだし
子供たちの光景がおかしくてたまらなかった。
娘が中学生になりお菓子をもらうためについていくということもなくなり
私も御用御免になった。
今日もいたるところで大きな袋を担いだ
子供たちを見るだろう。
一年に一度の秋祭りは、
天気も良くきっと楽しい一日になるに違いない。
真夜中に、トイレのドアの音で目が覚めた。
確かに、誰かがドアを開けて入った音だった。
そしてしばらくして
今度はもっとはっきりと「カタン」という音がした。
母がトイレに行ったのかな?と思って横のベッドを見ると、
母は何も気づかずに寝ている。
「じゃあ、あれは何?」
「誰も居ないはずなのに・・おかしいな」
玄関のドアは勿論、
窓もみな締め切っているから
風が吹き込んでくるはずもない。
それなのに・・あのトイレのドアの音は何故したのだろう。
まさか!
父がこの家に居るのだろうか?
昨日は13日、6月13日に亡くなった父の
月命日だった。
仏壇には父の好きだった柿とおかきを供えている。
母と一緒にお墓参りにも行ってきた。
父に「安心してね」と報告したところだ。
でも、父は母のことが心配で家に帰ってきたのだろうか?
それとも、
最近忙しくて母の側に居る時間が少なくなった私へ
母の側に居てくれと言いに来たのだろうか・・・
一週間に一度はフローリングにワックスをかけていたのに
最近サボっている私へ
「サボらず、ちゃんとしてね」と言いたかったのだろうか・・
色々なことを思っていると
父の思い出が頭の中に浮かんできて
眠れなくなり朝方寝入ってしまって
いつもより二時間も寝坊してしまった。
今日は父のためにもワックスかけをしなくっちゃと思う。
「父ちゃん、音だけではなく姿も見せて欲しいな・・」
昨日は私が投稿している新聞の中にある
てかがみというコーナーの
全県大会が全日空ホテルで開催された。
今年で50周年ということで盛大に行われた。
私はハレの場は苦手なので
ひっそりと書いていれば良いと思い会には入っていなかった。
今年の夏、てかがみを通して友達になった同じ市に住む人に
市のてかがみの会に行きませんか?と誘われ
思い切って参加した。
そして、今回の全県大会。
さすが皆年季の入った人たちばかり、
200人くらいの人が集まり
夏井いつきさんの俳句ライブや昼食をしながらの歓談。
10時から13時半まであっという間に過ぎた。
集まった人たちの数だけ人生がある。
皆、自分自身や家族、友人、身の周りのことなどを
書くことが生きがいになっている人たちばかり。
書くということがそれぞれの人の心の浄化になっているのだろう。
これほど心を文字にする人が多いのにも驚いた。
50周年を記念して発行された文集をいただき
帰宅してから読んでみた。
思い思いのことが550文字の中に描かれている。
私は、父の最期の思い出の
「ひとさじのカキ氷」を書いた。
これはブログの「思うままに」に載せている。
私だけではなく、文集に載っているものは、
皆それぞれの気持ちを込めて書かれたものばかりだ。
次、60周年の集いにも参加出来たらいいな・・
これからも書き続けたいという気持ちを新たにした。
毎年、かまぼこ板の絵を描くのは
年が明けて春、締め切り前になってしまう。
今年の春も父の看護をしながら描いた。
来年の展覧会に出す作品を
今年は早目に描いてみようと思っていた。
アイデアは浮かぶのだが
絵を描く技術がない。
今年は運良くというか
まぐれで受賞したが
来年もという具合にはいかない。
でも、心の中で描こうと思った時に描かねば・・
そう思って昨日お昼前から机に向った。
描きたいもののうち2つ描いた。
一つは仕上がったがもう一つは
色を塗る段階で失敗。
また初めからやり直そうと思う。
小さなかまぼこ板に向って
無心になって描いている時間って良い物だ。
一人の時間を満喫出来る時間だし
次第に仕上がっていく作品に愛情がわいてきて
出来上がると愛しくなって何度も眺めて
自己満足の世界に浸っている私だ。
来年の募集まではまだまだ日がある。
描き直すのも良し、
新しいものを描くのも良し。
頑張ろう。
2006年10月11日(水) |
ワールド・トレード・センター |
昨日、映画を観てきた。
あの9・11テロを舞台にした映画だ。
アカデミー賞候補に上がっているということもあり
封切り前から観たいと思っていた。
テロをめぐる、政治的な事柄には触れていなかった。
そこに描かれていたのは
二人の警察官の生死、
そしてその二人の家族
特に夫婦の愛の人間ドラマだった。
人を愛すること、
お互いの存在を心の支えにすること、
夫婦の間では当たり前になりすぎて
普段では考えないし感じなくなったものを
この映画で考えさせられた。
もし、私の夫がこの警官の立場になったとき、
果たして、夫は私のことを想ってくれるだろうか?
隣に座って観ている夫の心を思ってしまった。
私は夫にとってそれほど大切な存在になっているのだろうか?
夫にとって娘の存在は大きなものだという確信はある。
でも、私は夫にとってどれほどの存在価値があるのか・・・
救出される時の警察官の心の描写、
そして残された妻の心の描写を見ていて
涙が出た。
悲しいのではない。
ただ、感動の涙だった。
観終わって夫とお昼を食べながら話をした。
こんな小さなことが本当の幸せなのだろうと思った。
私は目の前にある幸せよりも
もっと遠くにあるであろう架空の幸せを求め続けていた。
でも、そうではない。
変化の少ない今の暮らしの中の
瞬間瞬間が掛け替えのないものなのだと気づいた。
救出されなかった人たちにもドラマはある。
人が生きていくと言うことが
ドラマなのだから。
久しぶりにいい映画を観たと思う。
今朝もいつもと同じように
否、いつもよりもひどい状態になった。
娘のことだ。
この連休中、いくら部活があったとは言え、
今日提出しないといけない
訂正ノートくらいちゃんとすればいいのに。
今朝、3時までかかってやった後、
そのまま寝てしまい仕上げが出来ていないという。
いつもの電車には間に合わず、
夫を起こして続きの作業をさせていた。
娘の性格が不思議でたまらない。
私は分かっていること、しないといけないことは
直ぐにする性格だ。
そのままにしておくことが出来ない。
早く済ませることは早目にしてしまいたい。
だから、その時になって慌てることはない。
小さい頃からそうだった。
でも、娘は私とは全く違う。
いつもぎりぎりになるまでしない。
そして、パニック状態になってしまう。
今朝の慌しさの中で思った。
後一年半経てば、静かな朝を迎えることが出来る。
娘にとっても一人で生活することが必要だ。
人に頼って甘えて生きることは
娘にとっていいことではない。
今まで楽をしてきた分苦労するだろうが仕方がない。
今日も夫に手伝ってもらって何とかクリアしたみたい。
夫も心を鬼にして放っておけばいいのに手伝ってしまう。
駅まで送り迎えも夫の仕事になっている。
何故だろう?
こんな娘にしたのは私の責任なのだろうか?
私は人にしてもらうより自分で出来ることは自分がしたい。
私も小さい頃から甘やかされて育ったけれど娘とは違う。
ああ〜〜〜とため息をついていても仕方ない。
それにしても、分かっていることだけでも早目に済ませてほしいな。
人は迷う。
迷いながら人生を送ると言っても過言ではない。
今、私も迷っている。
ひと月以上前のことだから
相手はもう忘れているかもしれない。
私との時間の中で発した言葉だから
その時は事実そう思い約束してくれたこと。
でも、今は忘れているのかもしれない。
私からは聞けない。
無理。
聞きたい気持ちと
今のままで良いや、どうでも良いと思う気持ちが
私の中で行ったり来たりしている。
これが囚われているということだろうか。
気にしないで居ようと思っているが
何かをしているときに
不意に思い出す。
そして、相手にどうなった?と尋ねてみたい気になるのだ。
迷いにさよならしたい。
そしてどちらにせよ、
私の気が済むような行動を取ろう。
もし、聞いてみて返事が悪くても気にしないで居られるなら
そんな気持ちがあるのなら聞けば良い。
でも、聞いて後悔しそうなら聞かねば良い。
私自身の問題だ。
きっと相手は忘れているに違いない。
もう迷うのはやめにしたい。
朝方、変な夢を見た。
夢見が悪いと朝起きた時良い気持ちがしない。
夢は潜在意識の中にあることを見ると言うが、
今朝見た夢の内容も私の今の心の内面を表現したものなのだろうか。
夢は毎日誰でも見ているが
朝起きた時に覚えているか忘れているかのどちらかだと思う。
熟睡している時は夢を見ないとも言う。
レム睡眠の時に見るものだという説があるが、
寝ている時に、レムであるかノンレムであるかなんて
自分では分からない。
今朝の私はこの夢のために
久しぶりにちょっぴり落ち込みそうだった。
この間も同じような夢を見たが
こうして二度も同じ夢を見るなんて・・・
思ってもどうしようもないことを思うからかな?
心元気で明るく前を見て歩いているつもりなのに
本当の私の心の奥底には
まだまだ囚われる心があるのだろう。
夢なんて気にしないようにしよう。
今日は快晴、素晴らしい天気だ。
心晴れ晴れ、元気で一日を過ごしたい。
昨日は母と買い物に行った。
母は冬物の黒のパンツとやはり黒のニットのセーター、
私も黒のロングスカートに似合う黒のニット、
どちらも黒だが用途は違う。
母は来年の初めに叔母の一周忌があるので
その時に黒の上着の下に着るセーターを求め、
私は来週の木曜日に開催される
ホテルでの会に着ていくものが欲しかった。
一昨日行った時には探したが見つからなくて
半ば諦めていた。
でも、昨日行ったショッピングセンターで
良い物が見つかった。
母も私も大満足。
持参して行ったスカートの上に試着してみて
これは良いと思い買って帰った。
女の人って買い物、
自分が欲しいと思っていた服を買うと嬉しくなるものだ。
私は決して高価なものやブランドものを欲しいとは思わない。
昨日買ったのも適当な値段だった。
高いものを買ったらいつも後悔する。
だから昨日の買い物は余計に嬉しかった。
お昼に母と食べた石焼ビビンバも美味しかった。
昨日は収穫ありの一日だった(笑)
昨日は親友とお昼を食べる約束をしていた。
いつものことながら何処にしようかという話になった。
美味しいものは食べたいし、
長い時間話すこともしたい。
でも、その両方を充たしてくれる場所がなかなか見つからない。
昨日はちょっと雰囲気のある、
そして料理の種類も多く味も良いところへ行った。
日曜祭日ではなかったので案外空いていた。
雨が降っていると安く食べられるメニューがあり二人ともそれを注文した。
おかずの種類が13品、麦ご飯とだんご汁と最後には
黒ゴマアイスにコーヒーゼリー、
サービスチケットを持っていたので
食後のホットコーヒーまでついて
お腹がいっぱいになり満足した。
親友とはほとんど毎日電話で話しをしているのに
会うと話がつきない。
不思議でたまらないが、私にとっては一番楽しい時間になる。
昨日も話し込んでしまい気づいたら3時半になっていた。
11時半から3時半まで4時間も居たことになる。
周りに居たお客も居なくなっていた。
肝心の来月の京都行きの段取りについては話すことも出来ず
またの機会にすることにした。
ハハッハ・・何を話したのかな?
でも、本当に楽しかった。
店の人に「長居してごめんなさい」と謝って店を出た。
天風先生の本を読んでいる私は
どんなことが起きても、
どんな場合も
動揺せず
平穏な気持ちで居ようと思っている。
でも、昨夜の1時間は不安な心でいっぱいになった。
同じ敷地内に住む夫の父、つまり義父が
昨夜5時頃外出して帰ってこないと
義母から言われたのが7時だった。
義父は自転車に乗るのが好きで
2時間もかけて遠出することもある。
やはり義父の自転車がない。
でも、外はもう真っ暗、雨も降り出している。
こんな時間まで自転車に乗って何処かへ行っているのか・・
もし何処かで事故にでも遭っているのではないか・・・
そう思い始めると居ても立っても居られない気持ちになった。
警察へ電話したほうが良いのでは?と義母に言った。
夫が消防署に電話してみると
市内で事故は起きてはいないとのこと。
義母はもしかしたら自殺?なんてことを言い始める。
まさか!
そんなことは絶対にないと思っている私も
時間が過ぎていくうちに段々と不安になっていった。
こんな時こそ天風先生の教えに従わねば・・
心を落ち着かせ義母たちの不安を打ち消そうとした。
でも、どうしても悪い方へ考えてしまう。
本当にどうしたのだろう?
夫は近くを探し始めた。
私の誕生日のお祝いの夕食も食べる気持ちにはなれず
娘も心配していた。
1時間位過ぎて、警察へ電話しようと思っていたとき
「じいちゃんが帰ってきた!」と娘の声。
義父は近所の知り合いの家に行っていたとか。
ああ〜本当に良かった!
安心した。
今回は運良く何もなくて済んだけれど
これからは行き先をちゃんと言って行って欲しい。
そして、出来たら携帯を持って欲しいと思う。
たった1時間だったのに
とても長い1時間に思えた。
今日は私の55歳の誕生日だ。
夜中に携帯へお祝いのカードをもらった。
朝PCを見ると数人の人からお祝いのカードが届いていた。
本当に嬉しいし心からありがたいと思う。
自分では55歳なんて思えない。
いつまでも心は二十歳の頃のままだ。
そして気分だけでも若く居ることって大切だと思う。
今朝、母から毎年のようにお祝いのお金をもらった。
何を買ったら良いかわからないから
これで何か好きなものを買ってといつももらう。
父が亡くなって母一人になり
それまでと同じ経済状態ではないのに本当に悪い気がする。
お祝いのお金の側に手紙が添えられていた。
「○○ちゃんが元気でいてくれるので心丈夫です。
有難う。
これからも元気で居てください」
母の気持ちが伝わってきた。
85歳の母は55歳の娘をこうして思ってくれているのだ・・
そう思うと涙が出てきた。
私の方こそ母を気遣わねばならないのに・・・
親ってありがたいものだ。
父が亡くなって以来ずっと母の所で寝泊りしていることが
母の淋しさを紛らわせているのなら嬉しい。
出来たらずっと居てあげたいと思う。
今日は母と一緒に高島屋へ行くことになっている。
母とこうして出かける日々はいつまで続くか分からない。
母との時間を大切にしたいと思う。
そして、心元気でこれからも明るく前を向いて
生きて行こうと思う。
昨日、新聞の意見を書く欄に
「国旗と国歌は国のシンボル」という題で投稿した文章が掲載された。
そして一人の方から電話をもらい
私の言うとおりだと励ましてくれた。
母も姉もその通りねと言ってくれた。
今回はあまり問題にはならないみたいだが
先日「真実の歴史を知りたい」という旨の投稿をして掲載された時、
反対意見が後に出てきて
私を意見を曲げて解釈され厳しい意見をもらった。
紙面の上での言葉は活字だけで判断される。
このつぶやきも同じだが、
やはり面と向って話すのとは違い
誤解を招くことが多い。
それを覚悟で書いてはいる。
人は様々で考えも意見も違うのが当たり前だ。
だから別に落ち込んだり気病みをしてはいない。
でも、自分の意見は素直に受け取られないって残念な気がする。
私がいつも投稿するのは文化面の
女性だけに限定されているエッセイのコーナーだ。
ここへ投稿するのが一番楽だ。
楽な場所へ行くのが一番いいのかもしれない。
昨日から10月になり
いよいよ今日月曜日から私の住む市では
可燃ごみの有料化が始まる。
今まではゴミの量には制限はなく
不要のものを捨てる性質の私は
週三回のゴミ収集日には
最低2個のスパーの買い物袋に入れたゴミ袋を出していた。
でも、10月からは市が売る黄色いゴミ袋を買い
それに入れて出すことになった。
大が10枚で300円。
袋を買うことによってゴミの有料化になるということだ。
紙まで出していた私も気をつけて
可燃ごみを少なくしようと思っている。
リサイクルできるものはリサイクルゴミへ出し、
生ゴミは家で処理をして堆肥にするのがいいのだろうが、
それをしないでも
せめて少しでもゴミを少なくしたいと思う。
でも、皆ちゃんと指定のゴミ袋に入れて出すのだろうか?
今まで通りに出す人も居るのではないだろうか?
ある地域ではゴミ袋に名前を書いて出しているという。
そうすれば、皆がちゃんと規則を守って出すようになったとか。
人の心って不思議なものだ。
分からないと何をしてもいいと思うことがいけない。
見られていようとも見られていなくても
正しいことをすべきだ。
ゴミの有料化によって
少しは市民が出すゴミも減るかもしれない。
昨日、動物園に遊びに行く娘を送っていった帰りに
夫と電器屋さんへ寄り
前から欲しいと思っていた
プリンターを買ってきた。
今あるプリンターで十分だと夫は言っていた。
でも、私はデジカメで撮った写真を
メモリーカードを挿入してダイレクトにプリント出来るものが欲しかった。
先日行った東京で帰りのバスを待つ間に
ヨドバシカメラへ寄り
プリンターを下見してきた時、
10月に入ると新機種が出るために
今ある機種は底値でお買い得だと聞いていた。
昨日行った電器屋でも同じことを言っていた。
値段も思っていたより安いし思い切って買ってきたのだ。
帰って夫にPCにインストールしてもらい使えるようにしてもらった。
デジカメの中に入っていた靖国神社で撮ってきたものを
早速プリントアウトしてみた。
カメラ屋さんでプリントアウトしてもらうのと比べると
少しは劣るけれど思っていたよりも綺麗に仕上がった。
何と言っても簡単なのが良い。
カメラ屋さんへ持って行く手間もないのが良い。
そして一枚あたりのコストもそんなにはかからないのが良い。
これで11月に行こうと思っている京都でも
いっぱい撮って来れる。
やはり買って良かった。
スカーレット
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