スカーレットの心のつぶやき
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昨日、母に持ってもらう携帯を買いに行った。
説明はとても簡単だということだった。
確かに母が使うのは電話だけ。
それも、かけるのは登録している3件だけという
本当にシンプルなものだった。
□、○、△のところをそれぞれ誰の電話と決めておけば、
それを押してかけるという受話器の上がっているボタンを押せば
直ぐに繋がるというものだ。
説明を聞きこれなら母にも使えると納得して購入した。
帰宅して母に簡単な使い方を教えたら
何とか電話をかけたり受けたりすることだけはできそうだった。
PHSなので病院の中でも使用が出来るらしい。
病院の中で医者や看護士が持っているのもこれだということだ。
さて、この携帯の様々な使い方や
初期設定の変更、
メールの仕方、
色々な登録の仕方などを家に帰って本を見てみてやろうとしたが、
これが難しい。
元々こういった説明書を見るのが苦手な私だ。
昨日は夜遅くまで読んで理解しようとしたが
簡単にはいかなくて疲れてしまった。
マニュアル本はこんなに面倒なのだろう。
確かに書かれていることを全て理解して
操作することが出来たらとても便利だと思う。
書かれている通りにすれば良いのだから。
このマニュアル本を見てふと思った。
もしも人生にこんなマニュアル本があったら・・と。
何もかも上手く行くのかもしれないのかな?
間違いを犯すこともないのかな?
迷ったら本を見れば解決できるかな?
道を踏み外すこともないのかな?
でも、何かつまらない。
マニュアル本の通り人生を生きるなら
正しい生き方や後悔のない生き方が出来るかもしれないが、
それって面白味のない人生になりそうだ。
紆余曲折、山あり谷ありの人生が本当だと思う。
人生にマニュアル本など必要ない。
失敗や後悔をしながら生きていくことが
大事なことのような気がする。
失敗したら二度と繰り返さなければ良いのだ。
自分がしてしまったことを反省し後悔して初めて
人として向上できるのかもしれない。
人は物とは違う。
そんなことを思いながら今日もまた続きのマニュアル本との戦いは続く。
この十年くらいの間に携帯電話は必携のものになった。
嘘のようだ。
あれほど必要ないと思っていた私も持つようになったのだから。
PCも同じで、初めは要らないと思っていたものも
持ちはじめると今ではなくてはならないものになっている。
今では小さい子どもから高齢の人たちまで
携帯電話を持っているのが普通になりつつある。
私の両親も今年84歳、
二人だけでの生活の中で、
姉も私も時々不安になることがある。
何かあったときのために携帯を持って欲しいと思っていた。
でも、母は耳も遠いし目も見えにくいし
器械には弱いから要らないと言っていた。
この年で携帯を持つなんて考えても居なかったと言う。
でも、高齢者だからこそ携帯が必要なのではないかな?
いつどんなことが起きるか分からない。
家に一人で居る時に倒れても、
誰にも連絡が取れないこともあるかもしれない。
毎日病院へ送り迎えをしているが
診察が終わっての連絡もこれでOKになる。
母こそ携帯を持つべきだと思っていた。
今日はそんな父や母のために携帯を購入しようと思う。
最近は低料金で使いやすいものが出ているようだ。
トヨタの販売店で取り扱っているPHSで良いのがあった。
「ぴぴっとフォン」というものだ。
これは操作も簡単、
文字も大きく3つの連絡先だけにしかかけることは出来ない。
でも、母達にはこれで充分だと思った。
防犯ブザーや何所にいるか分かる機能も付いている。
母でも使えると思う。
これで私も少し安心できる。
何か緊急事態が発生したときもきっと役に立つだろう。
でも、そんな緊急事態は起きて欲しくはないな・・
今日は母の携帯デビューの日になる(笑)
人は皆やさしさを求めている。
自分ひとりで生きていると思っている人でも
何かの時に他人にやさしい言葉をもらうと
「エッ!わっ!嬉しい」と思うはず。
人のやさしさって何だろう?
本当のやさしさって何だろう?
誰かが重い荷物を持っていたら
その荷物を自分の手に持ち替えてくれることだろうか。
誰かが悲しい気持ちで居たら
慰めてくれることだろうか。
誰かが困っていると直ぐに手助けをしてくれることだろうか。
確かにこれらのやさしさも必要な時がある。
でも、本当のやさしさとは何所かちょっと違っているように思う。
今までこんなやさしさに私は心を動かされていた。
見かけのやさしさに感激していた。
騙されていたのかもしれない。
そして、私自身もこのやさしさしか持ち合わせて居なかったように思う。
違う!
本当のやさしさとはこんな単純なものではない。
人の心に厳しく感じる言葉でも
本当にその人のことを思うのなら吐くべきだと思う。
その言葉はその時には理解してもらえないかもしれない。
でも、きっと後で分かってもらえる。
相手の気持になって言った言葉なら
きっと分かってもらえると思う。
変に遠慮して思わせぶりなことを言うべきではない。
相手の立場になって考えることの出来ることが
本当にやさしいことだと思う。
特に男女の間ではこの本等のやさしさを勘違いすることが多い。
出会いがあれば必ず別れがある。
その別れの時にいかに上手く別れが出来るか。
それはお互いの本当のやさしさの競争にもなる。
相手の心を傷つけまいと思って
何も言わず逃げるって卑怯なやり方だ。
その時は相手を傷つけるとしても
はっきりと自分の気持を伝えるべきだ。
でも、その言葉には勿論誠意が必要だ。
やさしさと優柔不断とは違う。
人生の中で大事な時には厳しい気持ちになることも必要。
私の心はもう揺れては居ない。
「もし今度生まれてくるとしたら
男が良いですか?
それとも女が良いですか?」と聞かれたら、
私は即「女に生まれたい」と答える。
いつも思う。
女って良いと。
何が良いか?
一番に社会に出て働かなくても
食べていけることは出来る。
勿論社会に出て自立することは大事なことだ。
でも、私のように専業主婦で一生を終わることだってできる。
外に出て働くことが女として幸せなことかどうか・・
家に居て家の中のことをしているほうがどんなに楽かと思う。
偏見だろうか・・
私の勘違いだろうか・・
私には外で働きながら家事をすることは無理。
どちらも完璧にしようとするから
きっと無理がきてどちらも不完全のままで終わりそう。
別に終わっても良いけれど、
そのことで悩み苦しみ、
自分自身の体も心も傷つけてしまうだろう。
他人にどう思われようと私は主婦が良い。
主婦だって結構大変なのだから。
家の中を守ること、子どもを育てること、
他にも色々なことがある。
家の中ではいくつもの大臣を兼ねている。
主婦に限らず女としての喜びもいっぱいあるから。
子どもを産むことも大きな苦しみであると同時に
男には経験できない喜びでもある。
やはり女が良いな・・
私は女に生まれてきて本当に良かったとつくづく思う。
しんどい・・
本当に体がだるい。
昨日も一日しんどかった。
胃が悪い。
食欲が今ひとつだ。
何故だろう?
風邪が治りきってないからかな?
それとも寝不足かな?
朝4時半起床がこたえているのかな?
出来るなら一日寝ていたいと思う。
蒲団の中から出たくないと思う。
でも、今朝も4時半前に起床した。
今日は母の病院がある。
母の最近の腰痛を見ていてとてもかわいそうに思う。
少しでも良くなれば良いのにと心から思う。
母は治らないにしても少しでも症状が軽くなれば良いと言う。
私もその通りだと思う。
痛みって一番こたえるもの。
私の痛みもかなりこたえている。
心も体も健康が良い。
元気が欲しい。
今日は父の日赤の再診日だ。
最近の父の様子を見ていると
少し小康状態を保っている。
何だか嬉しい。
父が好きだった外回りの掃除もしているようだ。
無理のない程度に動くことも必要かもしれないと思う。
父の状態が少しでも良くなると良いな・・
今日は日赤の帰りに三越へ寄ることになっている。
父の好きな冷麺を食べる計画をしている。
父が何でも良い食べたいと思うものを
私も一緒に食べたいと思う。
その後二人で買い物をして帰ろうと思う。
父との時間はあまり残されていない。
後どのくらいの時間があるかは分からないけれど、
私は出来るだけ父との時間を大切にしたいと思う。
そして、父の望んでいる祖母の法要を出来るまで
今のこの小康状態を持ち続けてもらいたいと心から思う。
私も親孝行は出来ないけれど、
こうして父と出かけることが少しでも親孝行になるのなら
私は続けたいと心から思う。
--------------------------------------------------------------------- 父は悪くなってなかった。
腎臓の働きは少し良くなっていたし
エコーで見ても前よりも良い状態になっていた。
父自身が一安心したようだ。
帰りに色々な買い物をして約束どおり
お昼を一緒に食べて帰った。
やはりしんどそうではあるけれど、
今の状態が続いてくれることを祈っている。
私の人生の中で一番苦悩の続いたあの十年あまりの間に
私は色々なことを経験した。
そして今では私にとってはとても貴重な体験だったと思える。
「食べることの大切さをつくづく感じた。」
なんていうともっともらしいのだけれど、
私にとって食べるということは
あまり重要なことではないという意識が今でもある。
だから、食べるものに拘らない。
グルメでもないし大食いでもない。
生きるためにだけ食べているのかもしれない。
またいつどんなことが起きて
あの食べられない状態に戻るか?
自棄食いして吐くことになるのか?
正直言って分からない。
現に昨夜も吐いてしまった。
胃の具合がとても悪かった。
食べ過ぎては居ないのに、何故かお腹の中に食物があるということが
とても苦痛だった。
再発したとは思わない。
そんなことはない。
でも、やはり最近の私の心の動揺がこうして体の変化に出ているのかも・・
昔、主治医がこんな話をしてくれた。
「今は治りきらなくても、年を取ったらきっと治る。」と。
若いものだけに起きる病気だとも言った。
「思春期やせ症」とも言うからそれは当たっているかもしれない。
私のように33歳を過ぎてやっと治った人も居る。
もし、今病気の真っ最中で苦しんでいる人に
「年を取ったら治るよ」って言ってあげたい気もする。
入退院の繰り返しの中で、
私は夫と出会い恋愛をし結婚を決意した。
夫は私の全てを知っている。
私の過去も、病気のことも全て理解してくれた。
そんな夫に私は甘えて夫に母親を求めていた。
でも、夫は夫だった。
母親ではなかった。
当たり前のことなのに私は甘えていた。
全てを理解してくれると思っていた。
でも、それは大きな間違いだった。
そのことに気付きながらも
今でも時々我儘が出る。
5歳年下の夫には私の存在はどう映っているのだろう。
今私には夫と娘というかけがえのない家族が居る。
私が過去においてどんな苦しみを味わったかは
夫には全く関係のないことだ。
私の人生は過去ではなく現在と未来にある。
今の私の足元に存在する幸せを見つめていたい。
それがどんなに小さな幸せであっても
私には最高の幸せなのだと思う。
もう過去に捉われるのはやめよう。
過去を思い出すことがあっても
それによって自分自身の生き方や考え方を左右されないようにしよう。
私の幸せは私の心の中次第だ。
私が変われば皆全てうまく行くのだ。
私には少なくても幸せに出来る2人が居る。
夫と娘と私のこの小さな家族の幸せを大事にしていきたいと思う。
(おわり)
初めて九州大学に入院したのは23歳の時だった。
発症してもう4年目になっていた。
その当時は私の「神経性食欲不振症」という病名は
まだあまり一般的に知られていなかった。
患者の数も少なかったようで、
主治医も何故私がこんなに痩せているのか
全く分からなくて相当悩んだらしい。
ヨーロッパでは中世の頃からこの病気が発見されていたとかで
主治医は私の体の研究とヨーロッパの若い女性たちに多い
痩せ症について論文が書けるほど研究したという。
私が九大へ入院したのは10年あまりになる。
勿論入退院の繰り返しだったから
家に帰って好きなことも出来た。
それでも正常に食べることが出来るのはほんの少しの間だけだった。
入院中は吐くことも過食することもなく
いわば優等生だった。
だから長くて3ヶ月で体重も10キロは増えて退院できた。
何故あの入院中には吐かずに正常に近い食生活が送れたのか?
それは私の性格のせいだったのだと思う。
何でも一生懸命になれる性格、
頑張る性格、
優等生で居たいと思う性格。
それが家に戻るとたちまち乱れてまたもとの状態に戻ってしまう。
私は自己嫌悪の毎日だった。
私はもう一生治らないと思った。
そして本気死にたいと思った。
その頃に知り合った男性も居たし、
それなりに恋もした。
結婚もしたいと思いながら
反対に自分の存在を消してしまいたかった。
夜、お腹のものを全て吐き出し
空っぽの状態になって安心して眠る前に
私は大量の睡眠薬を飲んだ。
でも、死ねなかった。
母や父に見つけられて何度救急車で運ばれたことか。
胃洗浄されて入院して・・
また自殺未遂をして・・・
この繰り返しの数年間の間に私の神経はずたずたになっていた。
その頃にはもう従兄弟のことなどどうでもよくなっていた。
あんなに悲しかったことも消えていた。
私は本当は相当強い人間だったのかもしれない。
33歳で結婚するまでの一番輝いていた20代を
こうして私は食べることと吐くことと、
薬漬けになることと自暴自棄になることで
過ごしてしまったのだ。
後悔はしても仕方ない。
それも私の人生だったのだから。
(つづく)
今思うとあの頃の私は確かに変だった。
正常からは程遠い所に居たように思う。
毎日が生き地獄のようだった。
自分自身への嫌悪感でいっぱいだった。
何故人間は食べないといけないのか?
生きるために食べなきゃいけないのなら
死んだ方が良いと思っていた。
それなのに食べ始めると止まらなくなり
お腹に食べものが入っていると思うと
パニック状態になった。
お腹の中のものを全て吐き出して
空っぽにしなければ気持ちが済まなかった。
こんな状態が4年以上も続くと
体重の減り方も半端じゃなくなっていった。
また神経も変になっていった。
正直私は自分が何のために生きているのか分からなかった。
食べて吐くという行為は自分の心の中では最低の行為だった。
でも、それをやめられなかった。
あの頃の私は一体何をしたかったのだろう?
何を訴えたかったのだろう?
あの時やせ細って25キロにまで痩せて、
後はもう死しかないと分かったとき、
あれほど死にたいと願っていた私が
母を呼んで病院へ連れて行ってくれと頼んだ。
本当に人間の欲望って凄いものだ。
生への執着なんてないと思っていたのに・・
情けない・・・
本当にバカな私だった。
ベッドから立ち上がることが出来なくなって
死というものを感じた。
25キロという体重も人としての限界だったのかもしれない。
そして、私は九州大学付属病院へ入院した。
(つづく)
今思うと、あの時に私がもっと強かったら
きっとあんな病気にはなっていなかったはず。
何故あの時に心の中の全てを彼にぶつけなかったのだろう。
恨みでも、
憎しみでもいい、
思っていることを言葉にしてぶつければよかった。
出来なかったのは、
きっと私がある意味で卑怯だったからだろう。
彼に去られるのが辛かった。
今じたばたしたらもっと嫌われるかもしれない・・
どんなことをしてでも彼との間を無にしたくなかった。
考えたらバカなことだと思う。
あの時の私には私自身がなかったのだと思う。
私が痩せていき、神経が細くなって、
色々なことにイライラしていったことが
かえって、彼の気持ちを私から遠ざけてしまったのだと思う。
今は色々なことが分かる。
不思議なことに私の記憶の中で
あの大学二年から四年までの三年間の
大学生としての思い出がほとんど残っていない。
何をしていたのか・・
友達と何を語ったのか・・
笑ったのか・・
この記憶の代わりに
彼への思いと食べることへの嫌悪だけが残っている。
人間はどのくらいの期間、食べないで居られるのだろう。
私が朝から晩まで何も食べないで大学生活を送れたのは、
今振り返ってみると
数ヶ月しかなかったような気がする。
友人達が何か食べていても、
私には全く食べたいという気持ちが起きなかった。
一生こうして食べないで居られると思っていた。
それなのに・・
それなのに・・
ああ〜情けない・・
断食生活を続けた後のように
何でも良いからとにかく口に入れたいと思った。
理由は分からない。
このまま食べないでいたら
死んでしまっていたかもしれないという
本能的な不安を感じていたのだろうか?
私は食べた。
とにかく食べることしか頭になかった。
異常な世界だった。
正常な食べ方とは違い、
吐くために食べていたのだから。
朝起きて今日はいっさい何も口にするまい!と決心する。
でも、しばらくして何かのはずみで一口食べてしまったら最後、
もう後はどうでもなれというやけっぱちな気持ちになった。
無茶苦茶な食べ方をしていた。
家族に隠れて、冷蔵庫の中を漁った。
誰かが居ると食べられない。
自分が食べる姿を見せたくなかった。
まるで餓鬼のようだった。
一度に炊飯器のご飯を全部食べたこともある。
食パン一斤を食べたこともある。
家に食べるものがないときはイライラしていた。
そしてサイフ一つを持ち食べものを買いに行った。
時には家の近くの食堂のはしごをした。
お腹が空いていたのではない。
吐くためにはお腹いっぱいにしなければならなかった・
そして水分をいっぱい飲まないといけなかった。
私のお腹に入った食べ物は何も吸収されてはいけなかった。
早くそれを吐き出さないといけないと思った。
勿論空腹で食べているのではないから
美味しいとか楽しいとかそんな思いはなかった。
食べることは罪悪だと思っていた私が居た。
焦りの気持ちでいっぱいだった。
顔も化粧することなく、
着るものもどうでもよく、
頭の中は食べることでいっぱい。
早く!
早く!
早く食べないと!
私は心で泣きながら食べ続けた。
そして急いで家に帰り食べたものを全て吐いた。
(つづく)
私が食べものを口にしなくなった
そもそものきっかけはあのことだった。
私が大学一年の時、
私には結婚するつもりで付き合っていた人が居た。
彼は私の従兄弟だった。
私は物心付いた時から彼のことが好きだった。
いつも側に居たかった。
彼と過ごす時間の楽しかったこと!
そんな彼から「結婚しよう」と言われたとき
天にも昇るような気持ちになった。
嬉しかった。
勿論私にとっては本気で愛した初めての人だった。
全てを彼にあげた。
あの大学一年の秋、私にとってとても辛いことが起きた。
妊娠してしまったのだ。
その年明けに心臓の手術を控えていた私は
躊躇うことなく赤ちゃんを始末する道を選んだ。
そう、初めて授かった子どもを殺してしまった。
このことが私の心にどれだけのダメージだったか!
罪悪感と後悔と・・・
色々な感情が私に押し寄せてきた。
私はこの時から物を食べることが出来なくなった。
彼との付き合いはそれから4年続いたけれど、
結局は敗れてしまった。
私の初めての恋は失恋に終わった。
悲しいとか辛いとかいう
ありきたりの言葉では言い表せないほどの苦しみだった。
人間不信、男性不信に陥った。
そして、私を守ってくれるのは
たった一人母しか居ないと気付いた。
勿論母には何も話すことはしなかったけれど、
私の心は幼子のように母の懐にもどって行った。
つまり退行現象を起こしたのだ。
自分自身の気持ちの不安と
もうどうでも良いと思う投げやりの気持は
それ以降の私の生き方を完全に変えてしまったと言っても過言ではない。
人生の中で辛く悲しい思い出は色々ある。
ありがたいことに記憶は薄れる。
そして、段々とその苦しみとさようならできるときもある。
でも、その苦しみによって生まれたものの存在は
自分自身の人生にとって大きな意味を持つものになるということもある。
今の私がいつも誰かを好きになっていないと不安になるという
この奇妙な心の現象は
あの時が原点になっているのではないかと思う。
それからの私はまるで人格が変わったかのように
顔の表情もなくただ毎日をぼんやりと過ごすことになった。
消えたかった。
自分自身の体、自分の存在を無にしたかった。
(つづく)
私が拒食症を発症したのは19歳の時だった。
あれからもう30年以上の月日が経った。
長く暗いトンネルの中に随分居たように思う。
入退院の繰り返しが14年続いた。
そして、娘を出産して治ったかのように思えたけれど
今も時にあの頃に戻りそうな私が居る。
あの頃のことをこうして書く事によって
今の私を自分自身で支えることが出来るかもしれない。
記憶は風化しつつあるけれど、
少しずつあの頃の私のことを
客観的に見てみたい。
あの頃の私は本当のことが見えなかったのだと思う。
毎日考えることは、今日は何を食べようか・・
何を食べてその後吐いて、その後何をしようか・・
そんなことしか頭になかった。
食べることは体のためではなく
私の心の不安を一時的に解消させるために過ぎなかった。
決して食べたかったのではない。
食べることを嫌悪していた私が
何故あんなにも食べることにしか
心を集中できなかったのか・・・
あの頃の私は、
美味しいものを美味しいと感じられない、
満腹感も感じられない、
食べるという行為がとてもいやらしい行為だと感じていた。
恥ずかしいことだと感じていた。
出来るなら一生何も食べないで居られたら
こんなに幸せなことはないと思っていた。
朝から晩まで何一つ口にせず
大学生活を送っていた。
でも、楽しいはずはなかった。
友人達が学食で楽しげに語らってる時も
側に座っているだけで何も食べなかった。
食べる気もしなかった。
食べないことが幸福だった。
でも、幸福であったはずの
私の心は本当は泣いていた。
淋しかった。
孤独感でいっぱいだった。
食べないと心がとても緊張して
線が段々と細くなっていくのは
体だけではなく
心の線も本当に鋭くなっていった。
毎日鏡を見て、
体重計に乗るたびに
私の顔も細くなり
体重も段々と減少していったのだが、
毎日何gずつでも減っていくことに
私は喜びを感じていた。
どこまで痩せ続けることが出来るのか?
自虐的は挑戦だったように思う。
(つづく)
今日、一年に一度のピアノの調律をしに来てくれる。
昨日電話をもらってちょっと考えた。
この最近ピアノを弾いてない。
勿論、娘も皆無状態だ。
それでも、調律はしないといけないのか?
費用も結構高い。
私の気持を正直に伝えたら返事は「YES」だった。
やはり一年に一度は必要だとか。
ピアノの音って本当に不思議だ。
弾くときの心がとても出る。
淋しいときにはさすが元気な曲を弾く気にはならない。
同じ音を弾いても微妙に違うのが分かる。
そして少しずつ音が狂ってくるのも分かる。
専門の人の手にかかるとそれが不思議・・
とてもステキな音に変わる。
彼の耳の素晴らしさにいつも感動している私。
ピアノって良いよね。
こうして一年に一度また生まれ変わることが出来るのだから。
やさしい音色、
澄んだ音色、
心を動かす音色、
訴える音色、
それらの音色がまた新しい時を刻む。
私の心も調律してくれたら良いのに・・・
苦しい音や、
悲しい音や、
涙を誘う音や、
恋しくて狂いそうになる音や、
身をよじってもだえる音や・・
そんな全ての音を
明るい音、
元気な音、
楽しい音、
夢のある音、
笑っている音・・
そんな音に変えてくれたら良いな・・・
あはは!笑
無理よね。
ピアノの調律は専門の調律師が居るけれど、
心の調律は誰もしてはくれないのだから。
自分でハンマーを持って
心の音を一音一音叩いてみないといけない。
正しい音、
未来のある音、
明るく笑える音、
私の心の中の音を自分で変えなくちゃ。
自分の心の調律は自分しかできない。
私の心の調律は何時間かかるかな。
ピアノの音に負けないくらい、
正しい音を出せるようにしたいな。
ああ〜本当にもうどうでも良くなった。
あんなに思いつめていたことが
どれだけ馬鹿みたいなことだったのか?
この数日の間で分かってきた。
もうやめた。
無意味なこと、
無駄なこと、
無理なこと、
無責任なこと・・
無という文字がつくことを
しないようにしよう。
意味のあるもの、
安心できるもの、
安定していること、
後悔しないこと・・
無難な人生。
そう、間違いのない生活。
こういう生き方をつまらないと思ってきたけれど、
それは間違いだった。
無理をしても疲れるだけだ。
無駄なことをしてもメリットは何もない。
無意味なことは心が痛む。
無責任なことは後悔することになる。
足元を見つめて、
真っ直ぐ前を見て、
後ろばかり見ないで、
真っ青な空を見上げて、
あの二年間は私には本当に無意味な日々だったと思おう。
忘れよう。
なかったことだと思おう。
居なかった人だと思おう。
本当にもうどうでも良い。
もう過去のことなのだから。
今、現実を大事にしていこう。
過去に捉われているということは
これからの私の人生をまた無意味なことにしてしまう。
さよなら。
もう考えない。
心の中でああだこうだと悩んでいるのは
きっと日常のことに心が動いていないのだと思う。
そういう点では幸せなのかな?なんて思ったりする。
日常のことで精一杯なら
くだらない悩みも持たないし、
心の不自由さを嘆くこともないと思う。
あの忙しすぎた頃のことを思うと、
少々のことは気にしている暇もなかった。
毎日がただ時間の流れと共に過ぎ去っていたような気がする。
今、私が毎日色々なことを思い、
時には心を痛めることが出来るのも、
私の中で日常的なことで悩むことがないためかもしれない。
本当にささいなことなのだ。
私にとっては一大事だと思うことも、
日常のことの中では取るに足らないことなのだろう。
晴れ晴れする時はまたいつか訪れるに違いない。
それまでは日常のことに心を向けよう。
毎日の家事、父や母のこと、娘のこと・・
そういうふうに淡々とした日常のことをこなしていけば
きっと今のこの辛さや苦しさや切なさとさよならできるような気がする。
今日は私の心臓の病院の診察日、
そしてその後は娘の高校の参観日やPTA総会がある。
今日一日はそういう日常のことを頑張ろう。
考えても仕方の無いことは考えまい。
電話したくてもやめよう。
プッシュしても受話器は上げまい。
自分にもっと強さを持とう。
私は今の家で満足しなきゃ。
望むことはいっぱいあっても
私の身近な幸せを再認識しなきゃ。
今日一日が無事に済むことをありがたいと思おう。
さあ、今日も一日しっかりしなくっちゃ!
昔、愛した人との思い出の地、
そこには私と彼との楽しかった思い出がいっぱい詰まっている。
私は昨日、その地を訪れた。
本当は行きたくなかったのかもしれない。
きっとあの彼の笑顔とやさしさが
私の心の中からあふれ出すだろうから。
案の定昨日行ってみたあの地には
彼の姿を追い求める求める私が居た。
でも、実際にはもう彼を見つけることは出来い。
もう二度と会うことはないから、
あの地へも一緒に行くことはない。
分かっていた。
こういう気持になることを知っていた。
なのに、昨日の私はそんな自分自身の心を試すように
あの地を訪れてしまった。
ああ〜会いたい・・・
もう一度会いたい・・・
彼と二人であのクスノキの前に立ちたい。
あの時は楽しかった。
彼も私も笑い顔しか思い出せない。
行くのではなかった・・・
彼を思い出しに行ったようなものだ。
同じ道を歩き、
同じことを思っていたけれど、
昨日、私の側に居たのは彼ではなかった。
彼の姿を一生懸命に探していた私が居た。
所詮無理だということは分かっている。
でも、できるならもう一度彼と一緒にあの地を訪れたい。
そして、もしそれが叶うのなら
彼の手をいつまでも離さないで居たい。
会いたい・・
本当にもう一度だけで良い、
会いたい・・
でも、どんなに私が願っても、
もう会えない遠い人になってしまった。
思い出の地は私にとって思い出だけではなく
彼を求める地にもなっていた。
昨日過ごした1時間だけの私の心の旅路、
その地が今の私にとって
遠い過去のものになる日は
一体いつになるのだろうか・・・
2005年05月15日(日) |
世の中そんなに甘くない |
昨日、出版社から返事が来た。
私が今まで書きとめていた31文字の詩「風の詩」を
自分でプリントアウトして友人たちに
読んでもらったことはあったけれど、
先日、思い切ってK出版社に送ってみた。
その出版社は送られてきた原稿を
三段階に分けて判断してくれるということだった。
Aランクは出版社が自社で出版して世に出してくれるというもの。
Bランクは費用は自分持ちだけれど、
後のことは皆出版社がしてくれるというもの。
Cランクは完全自費出版となるというものだった。
勿論初めから自費出版などする気はなかった。
ただ、プロの目で見定めて欲しいと思ったのだ。
結果はBランクだった。
つまり初版の費用は私持ち、
出版部数の半分は出版社に置き、
後の半分は私の手元に置くもの。
原則的には書店には並ばない。
でも、新刊として新聞の新刊案内や
書店の新刊案内には載るという。
また日本図書館協会選定図書にも申請され、
インターネットでも紹介してくれるらしい。
出版社も商売だから
全国から送られる原稿は殆どこのBランクに選定するのではないかと思う。
本になったら四六版で上製本つまりハードカバー本になるらしい。
自分の書いたものが本になり世に出ることは嬉しいけれど、
この出版費用が100万円かかるというのだ。
勿論私に出版する気持ちはない。
宝くじでも当たって要らぬ金があるのなら別だが、
そこまでする気はもうとうない。
私の原稿を読んでの感想は次のように書かれていた。
「とても、心あたたまる作品ですね。
恋愛の歌も少しも色あせた感じもなく、
今の若いにも共感できるものであるように思いますし、
日々の生活を歌ったものも、
ささやかな事柄を大切に愛しんで暮らしていらっしゃる
心豊かな空気が伝わってくるようでした。
社長も拝見して編集的にはとても味わい深い作品だと言っております。」
お世辞だとは分かっていても
プロの感想をもらったことはとても嬉しかった。
ありがたいことだ。
でも、出版する気持ちはないという返事を出しておいた。
いつか本当に私の本が世に出ることを夢見て
これからも日々思うことを好きなように書き続けて行きたいと思う。
2005年05月14日(土) |
本当に好きになったら |
誰かを本当に好きになったら
その人の全てを受け入れることが出来る。
どんなことがあっても許せる気持になれる。
端から見て「どうしてそこまで言われても耐えることが出来るの?」と
聞かれても返事はできない。
だって、それは感覚的なものだから。
頭ではいくら分かっていても
自分自身の心の中ではどうしようもないことだってある。
こんな気持ちになったことのない人には
きっと一生わからないことだと思う。
どんなことがあっても、
何を言われても、
何をされても、
その人を許すことが出来る気持ち、
私は天使かそれともイエスキリストかと思うほどの気持ちになる。
バカかもしれない。
開いた口が塞がらないほどバカかもしれない。
呆れてものが言えないくらいバカかもしれない。
でも・・・
でも・・・・
やはり好きな気持ちは否定できないのではないかと思う。
一般論は通じない。
誰にもこの思考回路は理解不可能。
自分自身だって分からなくなるのだから、
誰に言ったとしても分かってもらえるはずはない。
時間が経てば薄らぐものらしいけれど、
一生続く気持ちかもしれない。
本当に誰かを好きになったら、
その人の顔が悪くても、
性格が少々悪くても、
やさしくなくても、
その人の心が見えなくなっても、
どんな状態になっても、
やはり想い続けるのだろう。
そんなバカな人間もこの世には居るということだ。
理解不可能な世界があるということだ。
バカは死ななきゃ治らないということなのかもしれない。
2005年05月13日(金) |
神様に願うとしたら・・・ |
今、神様が一つだけ願いを叶えてくれるとしたら
私は父と替わりたいと思う。
父の病気を治してほしい。
父の存在は私にとって母ほどの意味がないということを
私が小さい頃からずっと感じてきた。
でも、やはり父は私の側に居て
私のために生きていてくれたのだと思える。
父の存在が当たり前のことになっていたから
父がこの世から居なくなるということを
想像できない私が居る。
喪失感を味わったのは今まで一度しかない。
私にとってその一度しかない経験は
その後の私の人生を大きく変えた。
あれから30年という月日が過ぎ、
また今この年になって喪失感を味わうことになるのだろう。
悲しみがやってくるのか、
それとも虚無感に襲われるのか、
自失呆然で何もできなくなるのか・・
考えるのも恐ろしくなるけれど
これは近いうちに必ず訪れることになる。
神様が本当に居るのなら
父と私を取り替えて!
私の命はもうなくても良い。
今まで一所懸命に生きてきたから
もうこれで終わっても悔いはない。
父を生かしてくれたら、
私はどうなっても良い。
今、私は本気で神様に願う。
どうか、私の願いを叶えて欲しい。
人生の中にはどうしてもどれか一つを選択しなければいけないときがある。
そしてその選択によってその後の自分の人生が変わることだってある。
その時は良いと思って選んだ道が
後になってしまった!と思う時さえある。
沢山の道の中から選ぶ時よりも
たった二つしかない道のどちらかを選ばなければいけない時の方が
辛いのではないだろうか?
でも、人生は選択の連続で流れている。
生まれてくる時は自分で選ぶことは出来ない。
大金持ちで地位名誉もある親の下に生まれてくるか、
それともろくでもない親の下に生まれてくるか、
自分が選べないだけに、
その後の自分自身の人生を大きく左右することにもなる。
でも、考えてみたら、
生まれてくる時以外、自分で選ぶことの出来ないことはない。
進学、就職、結婚・・・
どれも自分で選ぶことが出来る。
私の今までの人生を考えると、
選択を間違ったと思うことはいっぱいある。
もう後戻りできない頃に気付くのだから始末が悪い。
いくらあがいてもどうしようもない状態になった時、
初めて自分の選択が間違っていたと気付く。
勿論全ての選択が間違っていたとは思わない。
今の私はこの選択の上に存在しているのだから。
後悔のない人生なんてないのかもしれない。
選択が全て間違いのないものなら
後悔はしないだろうが、
そんなことは所詮無理なことだ。
今の私も一つの選択の時を迎えている。
結果は想像できる。
でも、一歩踏み出すことができない。
やってみようと思う心と
もし、失敗したらどうしようと思う心が同居している。
これは若いときだったら決して迷うことはないはずだ。
間違ったとしてもまたやり直す時間がある。
私が今悩んでいるのはきっと年をとったせいだろう。
人生の折り返し地点を過ぎて
後の人生を後悔のないものにしたいと願う思いが
今の私の決心を鈍らせているのかもしれない。
さあ、どうしよう・・
やめるか踏み出すか?
究極の選択に迫られている。
今日は私の母の84回目の誕生日だ。
母の存在は私の中で大きなものになっている。
私は今までずっと母なしでは生きていけないと本気で思っていた。
結婚するまでの母と共に生きた33年間は、私の生きてきた歴史でもある。
言葉では言えないくらいの苦労、心配をかけてきた私。
そんな母に対して私がして上げられることが
こんなにも小さなことしかないということに
何か情けない思いがする。
母の愛は無償の愛。
偉大なる愛。
損得抜きの愛。
親不孝ばかりしてきた私が結婚して
たった一人だけれど子どもを産み、
そして育ててきた中で
いかに親、特に母親の愛が大きいかをしみじみ感じた。
私が娘にしてやったことは
母が私にしてくれたことの数分の一しかない。
精一杯したことであっても
母がしてきたことに比べたら足元にも及ばない。
でも、これは当然のことなのかもしれない。
母が私に対してしてくれたことや思いは
きっと誰よりも大きなものであったと確信できる。
私がこうして今無事に生きていることが、
母のお陰であると断言できるから。
私が何度も繰り返してきた自殺未遂、
そのたびに母は私を救ってきた。
命をかけて守ってきてくれた。
そんな母へ私は今また大きな親不孝をしようとしていた。
この数日間というものは
母への思いなどどこかへ行ってしまっていた。
自分自身の心の暗闇を見つめるだけの日々だった。
母の誕生日を祝うという
いつもなら当たり前のことなのに、
心の余裕のなかった私は
昨日、また母を悲しませることを口に出してしまった。
私の命のことを一番心配している母へ
同じ心配をかけようとしていた私。
一体、何をしてきたのだろう。
本当に情けない。
母を心配させることや
母を悲しませることだけは絶対にしたくないと思っていたのに・・
今日の母の誕生日は、私の心の誕生日にしよう。
もう考えないで前を向こうと思う。
母に対する私の思いを口にこそ出さなくても
そっと心の中で言おう。
「誕生日おめでとう、いつまでも元気で長生きしてね。」
昨日描いて出した私の絵手紙、母は喜んでくれるだろうか。
たったあれだけのことでこんなにも心が苦しくなるなんて
考えたら本当に情けないことだ。
人の言動に振り回されているということだ。
たとえ、相手からどんなことを言われても
それに対して言い返すことはしたくないと思っていた。
それなのに、あの時は我慢できなかった。
言わなくてはいけないとい気持ちばかりが前に出て、
後のことを考える暇もなかった。
今までの私なら言いたくてもじっと我慢していただろう。
もう、これで終わりになっても良いという覚悟があったはずなのに、
あれから4日目になるというのに
私の心は晴れない。
考えるのはやめよう、
他のことに専念しよう。
そう決心したくせにいつも堂々巡りをしている。
私の思考回路はどうなっているのだろう。
こんな思いをするくらいなら
出会わなければ良かった。
一生存在を知らなかったら
こんな思いをすることはなかった。
ああ〜本当に嫌だ。
相手を嫌だと感じるのではない。
たった、あれだけのことで
まるで世界が終わってしまうような
悲壮感を持つ自分自身が嫌なのだ。
どうにかして立ち直ることは出来ないだろうか。
そう思って一人車を走らせてみた。
四国八十八か寺の四十四番札所である
大宝寺を訪れてみた。
春の巡礼をしている人たちに沢山出会った。
皆、般若心経を唱えながら一心に手を合わせていた。
私も手を合わせてみた。
でも、私の心からは煩悩は消えなかった。
お線香の煙と木々の若葉が目に沁みて、
思わず涙ぐんでしまった。
本当は、この涙は別れを決める悲しみの涙なのかもしれない。
高く立ち並ぶ杉木立の合間からほんの少し見える青空、
その青空を見上げて深呼吸をしたら、
少しだけ元気が出てきた。
帰りの車の中で窓を全開にして風を入れた。
気持ちが良かった。
これが空元気というものなのかもしれない。
でも、今の私は空元気でも良いから
自分自身を支える元気を作らないと生きていけない。
頑張ろう。
あのお遍路さんの姿と若葉の緑と青空に
ちょっとだけ心が癒された気がする。
もういい。
何もかも、もういい。
何もしたくない、
何も食べたくない、
何も考えたくない、
一人ぼっちになるのがたまらなくつらい、
たまらなく怖い。
またいつもの思考回路になるのが怖い。
何もせず、
何も食べず、
何も考えないで居られたらどんなに良いだろう。
でも、できない。
無理だ。
死ぬしかないことだから。
生きている。
家族が居る。
父も母も居る。
無責任なことは出来ない。
自分で自分を支えるしか方法はない。
真っ暗なトンネルの中から
かすかに見えるであろう、
先の先の先にある、
出口を見つけて歩かなきゃ。
父が居る。
私にはしなければならない父が居る。
父のことを一番に考えよう。
もう他のことは考えるのはやめよう。
しばらくの間、
嫌なことも
辛いことも、
何も考えず、
ただ、ひたすら父のことをしよう。
母を手伝おう。
父と母のために生きよう。
そう、私は生きなきゃ!
あんなことでへこたれては居られない。
今日からしばらくは自分のことを放っておいて、
父と母のために生きよう。
あんなにも自分自身の心の中に
怒るというエネルギーがあったとは、
本当に今でも不思議に思う。
そして言いたいことを言ってしまった後の
この虚しい気持ちをまたとても不思議に感じる。
今までも何度もぶつけてやりたい気持ちはあった。
でも、私の中の何かがその気持ちに歯止めをかけていた。
失いたくない・・・
今のままで居たい・・
というような、私の卑怯な心が働いていたのかもしれない。
これを言ったら絶対に終わりになると思っていたから
それが怖くて言えなかった。
でも、今度という今度はその私の心の中の歯止めがきかなかった。
売り言葉に買い言葉、
というわけでもない。
今言わないと一生言えないままに終わるのでは?と思った。
正直どうにでもなれという投げやりな気持ちがあったのも確かだ。
でも、一時的に自分が気持ちよくなるということは
言われた相手を最悪の心の状態に追い込むことになる。
そんなことは百も承知だったのに
今度は気持ちを抑えきれず言ってしまった。
もう何もかも終わり。
もう後に残るのは私への憎しみだけだろう。
これも私のまいた種。
刈り取らないといけない義務がある。
でも、後悔の気持ちが強くなってきた。
虚しさを感じる。
人ってどうしてこんなに弱いのだろう。
何故、もっと心が強くなれないのだろう。
情けない。
本当に情けない。
もう後戻りの出来ない今、
これ以上ガタガタするのはやめよう。
もう完全に終わったことだ。
私自身の心の中で幕を下ろせば済むことだ。
怒りの心と虚しい気持ちは比例する。
虚しい気持ちと後悔の気持ちも比例する。
反比例するものは何もない。
ああ〜本当に馬鹿だった。
ああ〜虚しい。
大型連休中の一日、夫と二人で映画を見に行った。
二人だけで映画を見に行くなんて本当に久しぶりだった。
結婚して二十年、外出するのはいつも娘と三人だった。
娘が成長して友人たちと遊びに行くようになったお陰で、
まるで、昔の恋人時代のように
二人だけで映画を見に行くことが出来た。
私の心はまるで暖かな春の風が吹いてきたように、
何を着て行こうかな?帰りに何を食べようか?
などと朝からウキウキしていた。
夫と私の初めてのデートは映画「ああ、野麦峠」だった。
あれからもう二十五年になる。
夫はきっと忘れているだろうけれど、
私は今でもあの日のことを覚えている。
そして、いつかあの日のように
二人だけで映画を見に行く日が来たら良いなあと思っていた。
その私の願いが叶って「映画でデート」が実現したのだ。
長く夫婦をしているとお互いに空気のような存在になり、
新鮮さや胸のときめきを感じなくなる。
でも、たまにはちょっとしたことで夫婦の絆を深めることが出来る。
私は夫のちょっぴり嬉しそうな笑顔を見ながら、
また見に行こうねと心の中でつぶやいた。
昨日久しぶりに聞いたあなたの声が
とても暗かったのが気になる。
何があったのだろうか?
何か落ち込むことがあったのだろうか?
それとも、単に疲れているだけなのだろうか?
まさか、私と話すのが嫌だったから・・・
そんなことはないと思いたい。
話すのが迷惑で億劫ならそう言ってくれたらよかった。
それにしても、どうしてそんなに暗い声なのだろう。
声って不思議だ。
特に電話の声は不思議だ。
声でその人のその時々の心の状態が分かる。
嬉しい時の声は明るく弾んでいて元気な声になる。
でも、何かで悩んでいたり落ち込んでいたりすると、
暗く、重たい声になる。
本当にどうしたの?
私に話しても仕方ないから言わないのだろうけれど、
私は心配してしまう。
あなたの声が元気そうだと私も嬉しい。
きっと体が疲れているのだと思う。
休みなしの仕事、仕事の毎日だものね。
連休もきっと休めなかったのだと思う。
今までもあなたはしんどい時はとても機嫌が悪かった。
私は心配しているけれど
要らぬおせっかいだと言われるかもしれない。
今はそうっとしておくのが一番なのだろう。
今度電話したらきっと元気になっていると信じてる。
本当にいつものあの元気な声を聞かせて欲しい。
真っ白な心、
透明な心、
無垢で純真な心、
天使のような心、
そんな心を持っているときもあった。
いつからそんな無に近い心の中に
苦しみや悩みや恨みなどという
暗くて醜い塊が生まれてきたのだろう。
あの無の心に戻ることは出来ないのだろうか?
今は何も考えたくないと思うときがある。
心の中を空っぽ状態にしたいと思うときがある。
忘れたい、
逃れたい、
絶縁したい、
私の心の中の妄念や雑念をすべて捨てたい。
そして、生まれ変わりたい。
怒らず、怖れず、悲しまず、
いつも心の中を真っ白状態にしていたい。
生きているからこそ
私のように色々な心を持つのだろう。
死んでしまえばそんな醜い色の心も消えるのだろう。
でも、死ぬことは出来ない。
今は出来ない。
生きるしかない。
それならば、私自身の心の持ち方を変えるしかない。
無にはなれないかもしれないけれど、
小さなことにでも幸せを感じることの出来る心になりたい。
美しい花を見ては美しいと感じる心、
真っ青な空を見上げて生きていてよかったと思える心、
それらの心を持つことは私次第なのだ。
簡単なことではないか。
今は何も考えるのはやめよう。
もう全て終わったことなのだから。
無なのだから。
記憶というものは有り難いものだ。
あれほど辛く悲しく死にたくなったことがあっても
月日が経つに連れて思い出に変わっていくのだから。
でも、何年経っても心の奥深くに居座っている悲しみもある。
それはまるで大きな石の塊のように私の心にある。
あれからどのくらい人を愛しただろう。
どのくらい恋をしただろう。
でも、いつも空虚だった。
心が満たされなかった。
あの時に私の思いをぶつけていたらよかったのかもしれない。
それをしなかったから不完全燃焼のまま今に至っているのだろう。
私の心の中にある石の塊を取り除くことができたら
きっと私の心も晴れるのだと思う。
でも、これは誰かに取り除いてもらうべきものではない。
自分自身が取り除いてやらなければどうしようもないことなのだ。
分かっている。
よく分かっているのだ。
でも、それができない情けない私が居る。
いつになったら、少しは大人になれるのだろう。
いつになったら心の中の塊を取り除くことが出来るのだろう。
耐えるしかないのか・・
それとも忘れるのが一番なのか・・
今も私の心の中には暗く重い石の塊が存在している。
何故こんなに何もしたくないのだろう。
この間まで忙しくて忙しくて、
一日が48時間あれば良いのにと思っていた。
父のことが少し落ち着いて
さあ、これから私の時間的な余裕もできたから
したいと思っていたことをやろう!なんて思ってた。
昨日なんて、午後はいっぱい時間があった。
何をしようかな・・と思って、
まず絵手紙の道具を出してみた。
庭のテツセンを一輪取って来て花瓶に挿した。
墨を摺り、ハガキに向って描き始めたのに
何故か途中でいやになってやめてしまった。
まあ、良いか・・
じゃあ、次はピアノを弾いてみようと思った。
私の家には不似合いなグランドピアノの蓋を開け
イスに腰をかけ、
指で鍵盤をたたいてみた。
音が変?
そういえばもうそろそろ調律の時期だ。
でも、去年調律してもらってから
殆ど弾いてないものな・・
音だって狂うかもしれない。
それでも気分転換に本を開けて
前に弾けていた曲を弾こうとした。
弾けない!が〜ん。
やめた。
次にCDをかけてショパンを聴いた。
幻想即興曲を聞きながら
ああ〜良いなあ・・
ポロネーズ英雄を聴きながら
ああ〜こんなのが弾ける人って天才かも?なんて思った。
1時間も聴かないうちに電源を切り、
本に向ってみた。
でも、最近の目の疲れから読めないのだ。
ああ〜これもやめた。
結局は何も出来ないで午後の時間を過ごし、
親友に電話していつもの長話をして
ちょっとだけ元気になった。
私には何もない・・
もっともっと何かしようと思うのに、何も出来ない。
親友が言ってくれた言葉
「今は休む時期なんよ」の言葉通りなのかもしれない。
何もなくて、何もしたくないときは
無理にしなくても良いのかもしれない。
きっと今に何かしたい時が来るだろう。
それまで待つのも良いのかもしれないと思う。
人はどこまで愛に残酷になれるものなのだろう。 人を憎むことは容易い、でも人を本当に愛することは難しい。 本当に人を愛するってどんなことなのだろう。 愛される人を愛することはまだ容易い。 でも、愛されていない人を愛することって
とても辛いものではないだろうか。 人は時々愛というものを錯覚することがある。 自分が相手のことを思っているだけで相手はこちらを見ていないときでも 相手のことを想うだけで幸せな気分になる。 所謂片思いの世界であり自己満足の世界である。 これは相手に期待をするだけで 相手には通じないし、 相手から愛されるには程遠い。 また愛されなくても良い、 自分は相手のことを想っているのだから良いのだと思うときもある。 これも自己満足の世界であって 相手が迷惑しているときだってあるかもしれない。 愛されなくても愛していると勘違いをして それを無償の愛だと錯覚する。 これは無償の愛ではない。 やはり自己満足の愛である。 恋とは自己満足の愛に近いのではないだろうか? 本当の恋愛とはやはり相手があり自分自身の気持ちと 相手の気持が通じ合っている状態だと思う。 その通じ合っている愛を天秤にかけてみたら どちらかが重いはずだ。 どちらかが重いと無理がいき、 平衡がとれなくなって破綻してしまう。 やはり相手の気持ちを重くしないような恋愛をしたいものだ。 愛と一言で片付けることのできない愛情を 人は生きていく上でとても大事にしている。 愛に傷つき愛に失望しながら成長していくのだろうが、 愛の本質を知る頃には恋愛をするには 少し遅かったと後悔するようになるのかもしれない。 今、生きているこの瞬間の気持ちを大事にしたい。 良い人生を歩むためにも一生愛する心を忘れずにいたいと思う。
今年も我が家の庭に可憐なすずらんが咲き始めた。
このすずらんを見るたびに十一年前のことを思い出す。
その頃幼稚園に通っていた娘は
口中にヘルペスが出来て日赤病院に入院した。
娘にとって初めての入院だった。
二十四時間ぶっ通しの点滴と
食べられない辛さで精神的にも不安だったに違いない。
私もずっと病院へ泊り込んでいたので疲れを感じるときもあった。
そんなある日、
突然すずらんを手にしたスチュワーデスのお姉さんが
部屋の中に入ってきた。
そして、「早く元気になって退院してね」
という優しい言葉と共に
娘に可愛い小さなすずらんを手渡してくれた。
新聞社の取材があり、
翌日の新聞に娘の写真入りの記事が載った。
娘はその記事を恥ずかしそうに見ていたのを覚えている。
間もなく娘は退院し、もらったすずらんを庭に植えた。
その一輪のすずらんは段々と増えて
今では庭中いっぱい咲くようになった。
あの時幼稚園生だった娘も今年の春から高校生になり
毎日元気で通学している。
あれからもう十一年になる。
今朝、庭に出て可愛いすずらんを見ていると
あのときのことがとても懐かしく思い出された。
スカーレット
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