スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次|過去|未来
生きることは何かを捨て去ることだと思う。
幸せだったことも悲しい思い出も全て。
何故なら、生きるということは、
今を真剣に生きるということだと思うから。
過去の良い思い出に縛られて、
今の自分自身を見ないことは、
現実から逃避しているからだと思うから。
過去の栄光にこだわり自分自身を縛っていると
今の自分を認めることなく、見失うことになると思う。
思い出はその時はとても辛く悲しかったことさえ
ステキなものに変えることがある。
人間は本能的に悲しみや辛さを忘れ去るように出来ているから。
過去に縛られ今を生きなければ未来もなくなるのではないだろうか?
生きるということは、
楽しみや喜びだけではなく、
苦しみや辛さを受け入れ
それらから逃げずに
真正面から向かい合っていくことだと思う。
過去のことに捉われることは
今の自分が幸せだと感じないからだ。
今の自分を素直な気持ちで受け入れ
どんな状態であってもそれをよしとする気持ちがあれば
過去ばかり見ている暇はないはずだ。
もしも、今が辛く耐えられないような苦しみの真っ只中にあっても、
その現実から逃げないで時の過ぎるのを
静かな心で待てば良い。
時は過ぎる。
確実に過ぎ去るものだ。
そして今を見ていよう。
何事にも振り回されずに今を大事にして生きていこう。
そうすればどんなことでも乗り越えられるはずだ。
私にも色んなことがあったけれど、
今は過去も未来も見ないで今だけを見て生きることができるようになった。
生きるということはそんなことだと思う。
「百聞は一見に如かず」と言う言葉がある。
本当にそうだとつくづく思った。
神戸ではフジ子・ヘミングのコンサートを聴き、
実際にフジ子をこの目で見ることができた。
TVや本では話を聞いたり見たりしていたけれど、
彼女がいかに可愛い女性であるか!を改めて感じた。
見た目が可愛いというのではない。
でも、女性から見てもとても可愛い人だと思った。
自信たっぷりの人だと思っていたが、
何かちょっとはにかんだような
照れたようなそんなしぐさがとてもチャーミングだった。
演奏はいつもCDで聴いていたのと同じ
リストの「ラ・カンパネラ」を聴けた。
まるで、鍵盤の上で10本の指が踊っているような気がした。
彼女の魔法にかかったかのように思える指が鍵盤の上を動く。
そしてあの素晴らしい音色を奏でる。
彼女の魂を感じた。
涙が出た。
会場はしーんと静まり、彼女の奏でるピアノに魅了された。
多分皆の心が一つになっていたと思う。
弾き終えた後に湧いた割れるような拍手と歓声。
彼女の全身で奏でられた魂の響き。
私が彼女の演奏を生で聴くことが出来るのは
これが最初で最後になるかもしれない。
私は一生忘れることはないと思う。
2004年03月27日(土) |
不整脈、でも心は元気! |
この間から不正脈がひどくなってきている。
昨夜も寝るときに、脈が乱れに乱れて
このまま止まってしまうのではないか?と
一瞬不安に思った。
私のこの不整脈は数年前からひどくなり
24時間ホルダー心電図も取り、
薬も処方してもらって飲んでいる。
薬を飲み始めて大分良くなっていたのだけれど、
この数日の脈の乱れは気持ちが悪い。
でも、私は元気、そう心が元気だから大丈夫。
気にしても仕方ないし、
気にすればするほど気になるし・・・
忘れる時間が多い方が良いと思う。
昨日も午前中友人との( ^^)/\(^^ )時間を過ごすことが出来た。
お天気も良く、桜の花も咲き始め
それを眺めながら色んな話をした。
お昼は洒落た喫茶店に入り
ドイツ風のランチを食べて楽しい時を過ごすことが出来た。
明日、明後日は前から楽しみにしていた
フジ子・ヘミングのコンサートを聴きに
神戸へ行くことになっている。
両親も一緒に行くので久しぶりの家族旅行だ。
夫は一人で留守番だから少し申し訳ない気もするけれど・・・
行きのバスの松山の乗り場までは夫が送ってくれると言う。
°・:,。★\(^-^ )♪ありがとう♪( ^-^)/★,。・:・°
楽しい旅をしてくるね。
心が元気だと少々の体調の悪さも気にならないで元気で居られる。
やはり心の元気が大事なんだとつくづく思う。
2004年03月26日(金) |
友遠方より来る亦楽しからずや |
突然の電話。
「もしもし、私○○、お久しぶり」の声に吃驚した。
一瞬誰か分からなくて絶句。
でも、数秒して「ああ〜〜○○ちゃん!」と気づく。
なんと声を聞くのは20年ぶりだった。
私が結婚する前に大衆演劇にはまっていた時期がある。
生きがいにも近い気持ちがしていた。
三日に上げず芝居を見に行き、
ある劇団の座員だった彼女と知り合った。
彼女は芝居も踊りも歌も上手いとか言えなかったが、
それでも何か感じるものを持っている子だった。
あの頃は確か15歳中学を卒業したての頃だったと思う。
舞台から降りて素顔の彼女はまだ少女のあどけない顔をしていた。
何故か気が合ってプレイベートな話もするようになった。
私が結婚後もこちらに来る時には見に行き
付き合いは続いていた。
ある日劇団で休みをもらえるという彼女を
夫に頼んで夜一緒にボーリングや食事に行った。
いつもは大人びた彼女が心から楽しそうに過ごしてくれたのは
夫も私もとても嬉しかった。
大街道のこまどりでカレーを食べた。
あの時のカレーの味は彼女には忘れられないものになったはずだ。
生い立ちを聞くと、私が経験しない色々な苦労をしていた。
彼女の境遇に同情はしなかった。
それほど彼女には強さがあった。
でも、時々見せる淋しそうな表情を忘れることはできない。
その後彼女は劇団から逃げ出し行方不明に。
でもひょんなことから私に連絡があり、
元気で東京で暮らしていること、
結婚もして幸せになっているという便りも聞いた。
そんな彼女からの突然の電話だったから驚いた。
5月の中ごろに恩人のお見舞いに松山に来ると言う。
その時に会いたいと言ってきたのだ。
私は勿論直ぐにOKした。
そして携帯の番号やアドレスの交換をしてメールももらった。
来月に会えることが待ち遠しくてワクワクしていると言う。
私も同じ気持だ。
彼女にはまた新しい楽しい思い出を作って欲しい。
そんな彼女のためにも私自身が幸せな顔を見せなければ!
今朝、夫に今日の私の予定を伝えた。
夫は今日は送別会だとか。
私は午前中は美容院、午後はヴァイオリンのレッスンに行く予定なので
夫にそう伝えた。
夫は笑いながら「へ〜美容院にヴァイオリンですか!」と言った。
今までの私なら、夫の嫌味っぽい言い方に
ちょっと気を悪くするところだった。
でも、私は笑いながら答えることができた。
「妻が美容院やヴァイオリンのレッスンに行くことは、優雅で贅沢に思う
かもしれないけれど、これはみんなあなたのお陰よ。」
「もしも、私がなりふりかまわず一生懸命に働いていたら、あなたは嬉しいかな?」
「私がこうして好きなことが出来るのは、あなたのお陰、あなたの甲斐性があるからよ。」
「私が食べるために身を粉にして働いているということは、言い換えればあなたがそれだけの人だからよ」
「妻が、家族が不自由せずに暮らせることは、あなた自身にとっても幸せで嬉しいことではないかな?」と。
ものは考えようだ。
私がこうして毎日小さいながらも幸せを感じ、贅沢はしないでも、
外で働かずにやっていけるのはあなたの、つまり夫のお陰だ。
それはあなたの甲斐性だと思う。
私はこの自分自身の置かれている立場に感謝している。
私がこうしていられるのは皆あなたのお陰。
本当に°・:,。★\(^-^ )♪ありがとう♪( ^-^)/★,。・:・°
感謝してるよ。
2004年03月24日(水) |
パッヘルベルのカノン |
私がクラシックを聴くようになってから今までの間に、
これほど心に響いてきた曲は初めてだった。
先日、本屋に行った時、本売り場の隣のCDのコーナーで
何気なく映画音楽のCDを買った。
12曲入っているCDだった。
映画を見ていなくても音楽だけは知っているものが多い中で
私の心を捉えたのがこの曲「パッヘルベルのカノン」だった。
はじめて聞いた途端に何故か涙が出そうになった。
心が洗われるというか、
魂が浄化されるというか、
清らかで美しい旋律は、私の痛んだ心を癒してくれた。
痛みも悲しみもすーっと消えていくように感じた。
祈りにも似た、ゆったりとしたリズム、
心をふわーっと包み込んでくれるような魔力を感じた。
この曲に出会うために私は色々なクラシックを聞いてきたようにさえ感じた。
このカノン一つあれば私にとって他のクラシックは要らないとさえ思った。
毎日何回も繰り返し聴いていくうちに、
心が和み、癒されていくのを感じた。
音楽とはなんと素晴らしいものだろうか!
このカノンが流れている映画は「普通の人々」という映画である。
アカデミー賞を取った映画である。
私は見ていなかったので早速ビデオを借りてきて繰り返し見た。
家族の愛がテーマである映画の中に流れるこのカノンを聴くと
本当に涙が出てきた。
何時間でもこの曲を聴いていたいと思った。
そして、このパッヘルベルのカノンだけが集められているCDを手に入れた。
欲しくて欲しくてたまらなかった。
同じ曲を色々な演奏方法で演奏しているこのCDを私は一生の宝物にしたいと思っている。
私のバイブルになるにちがいない。
この典雅で夢みるような美しい響きは
教会の荘厳な雰囲気とは違っているような気がするが、
これもまたバロック音楽の一つの面なのであろう。
この曲に出会えたことで私は生き返ったように思う。
身近にある小さな幸せを感じるようになった。
私の人生において最も心に響く音楽に生るであろうこの曲を
いつまでもいつまでも聞いていたい気がする。
日曜日のあの出来事以来、
私のこれまでの心は嘘のように
晴れやかになってきている。
人は心の持ち方一つで変わると言うけれど
まさにその言葉どおりだとつくづく思う。
一喜一憂ではなく
今のこの気持は私が生きている限り
いつまでも続くであろうと思う気持である。
心が安定することの素晴らしさを感じる。
どんなことが起きようとも
今の私の心は崩れることはないと言える。
いつも私の心の中にはほのかな喜びと
あれでよかったんだというほっとした気持ちが存在し続けるだろう。
これで私は生きていける。
あなたを思うことだけで生きていける。
私にはやはりあなたしか居ないと再認識できた。
本当に有難う。
あなたに対する今までの私は間違っていた。
あなたは言葉には出さなくても私のことを思っていてくれたのね。
本当に有難う。
白黒をつけることなく、今のグレーな心のままで
今のままで生きていくね。
だから、あなたも今までと同じように
私の側に居て、私を見ていて欲しい。
私は今本当にこの小さな幸せを感じている。
今のこの小さな幸せを失くすも存続させるのも
全て私次第だから、
私は私の人生を私のために生きるだけではなく
一番大事なあなたのために生きて行きたいと思う。
本当に私は今とても幸せ・・
心からの有難うをあなたに。
何でも白黒をはっきりつけないと気のすまなかった私が
まあ良いや・・・
なるようにしかならない、
気楽に居よう、
グレーな世界を楽しもうと思うようになった。
私が生まれてから50年経ち、
やっと気づいたことだから、
他の人には当たり前のことなのかもしれない。
でも、もしかしたら一生気づかずに終わっていたかもしれないと思うと、
今こんなふうに物事と捉えることができるようになって
私にしては凄い進歩だと思う。
これもこの数ヶ月の色々な体験を通して
私自身で掴み取った結論だったからだと思う。
今、私の心はとても安定している。
もう、どんなことがあろうとも揺らぐことはない自信がある。
悲しみなんてない。
勿論反対に喜びと希望に満ちているわけでもない。
でも、今のこの状態を素直に受け入れることができる。
心ひとつでこんなにも穏やかな暮らしができることが
とても不思議だ。
グレーな世界は決して悪なのではない。
そうではなくてふわっとした世界なのだ。
グレーという色のイメージが悪いなら
今の私の心を表現すると
薄いピンク色だと言えよう。
3月も終盤に近づいた。
もう直ぐ桜も満開を迎え、
季節は春爛漫になる。
私も今のこの穏やかな気持のまま
どんなことがあろうとも一喜一憂することなく
生きていきたいと思っている。
今までの私の人生ってとてもラッキーな人生だったのかもしれない。
私はとても正直で自分に素直な人だから
いつもありのままの自分自身をそのまま人に見せてしまうところがある。
私はそれで良いと思っていた。
そして、私の周りに居る人たちも皆、
私と同じで正直で良い人たちばかりだと思っていた。
だって、今まで私は人にだまされたことはないし、
人から悪意的な行為を受けたこともない。
そして、このことが当たり前だと信じていた。
パソコンを始めて色々な人との出会いがあった。
私が出会った人は皆良い人たちばかりだった。
思いやりがあり、人の気持を理解し、
やさしい人たちばかりだった。
勿論、ネット上のことだから、
それは私の思い込みであり、
実際は違っていたかもしれない。
それは私には分からない。
でも、私は皆良い人たちばかりだったと思う。
この3年間の間に私が辛く、悲しい思いをしたのは
決して相手が原因ではなく、
私自身の考え方や受け取り方が間違っていたからだと思う。
だから、トラブルがありお付き合いが終わった人に対しても
恨みなんて持ってないし、
寧ろ、申し訳ない気持ちでいっぱいである。
でも、この頃は私のこの性格を踏まえた上で、
少し発展した考え方にしなければいけないと思うようになった。
人を疑うことはしたくないけれど、
たまには警戒する態度も必要なことではないかと思う。
私の今までの人生がラッキー過ぎたから、
これからも今のままラッキーであり続けるという保障はない。
人生を50年も生きてきたのだから、
もう少し世の中の悪の部分を事実として受け止め、
私自身が大人にならなければいけないのだとつくづく思う。
昨日のヴァイオリンのレッスンは自己嫌悪の時間だった。
先生が言った通りの練習の仕方ができていなかった。
毎日45分は練習をしているが、
長くすればそれで良いというものではない。
短くても的を射た練習が出来れば良いのだ。
分かっているのに、出来ないとつい諦めそうになってしまう。
私は元々努力するタイプ。
真面目でサボることができない人だ。
だから何事も一生懸命にする。
適当に休みながら気楽にすることができない。
色んなことを経験してきて、
これじゃけないと気づき、
少しずつは変わってきたように思うが
本当のところは何も変わっていないのかもしれない。
そう思っていた私が
今のヴァイオリンの練習にかけては
まるで人が変わったようにサボりたくなるのだ。
こんなときこそ真面目にすれば良いのにと思う。
でも、まあ良いか・・・
いつまでにここまでをしなければいけないというものでもない。
それこそ適当に楽しくすれば良いのだ。
なんて自分に楽な言い訳を考えている。
投げず、諦めずに進んでいこうと思っている。
先生の言った言葉「3年間少しの忍耐の連続」
この言葉をいつも頭に入れて初心に戻って頑張ろうと思う。
私は諦めない!
春は別れの季節でもあり、また出会いの季節でもある。
パソコンを始めてから色々な出会いと別れを経験した。
嬉しい出会いがあれば心に残る別れもあった。
悲しく辛い思いもいっぱいした。
友人は「所詮ネット上のことだ」と言う。
勿論それはそうに。違いない
でも、人と人とが出会うことは
偶然にしろ何か意味のあることだと思う。
その出会いを大切にしたいと思っている私だから
どんな小さな出会いも大切にしてきた。
無視すればそれで済むこともあったけれど、
私には出来なかった。
それはそれで良いと思っている。
本当に一度話して終わりになったこともあるけれど、
相手と私の存在は事実であり意味もあるのだから。
もう二度と出会いたくないと思ったこともあった。
でも、それば逃げていることになる。
逃げたくなかった。
どんな出会いも私の宝物箱に入れておきたかった。
そしてまた新しい出会いがあった。
この出会いがいいものになるか
それとも苦いものになるかは全く分からない。
どちらにせよ私の人生に彩りを添えてくれるものであることに間違いはない。
今までの苦い経験を生かして今度は良い出会いだったと思えるものにしたい。
今日はお彼岸の入りだ。
「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉のとおり
この数日は本当に暖かい日が続いている。
去年の今頃はとても肌寒くまるで冬のようだった気がするが、
これも今年の春の来るのが早いことを示しているのだろう。
昨日は両親と実家のお墓の掃除に行った。
二人共高齢で自分たちのこれからのことを思うと
余計にお墓のことが気になるみたいだ。
母方のお墓は少し山手にあるので
去年はお盆から行ってなかった。
父方のお墓の帰りに母方のお墓にもお参りした。
母はこの数日前に自分の母親の夢を見たという。
きっと、母の心の中でお墓参りのことが
気になっていたのだと思う。
お参りの後、母が心から安心したようだったので
いつでも行けるのに、遠慮しないで連れて行ってと
言って欲しいと心から思った。
お彼岸は生きている人たちに
生きている自分たちの生き方を考えさせる期間だと言う。
私も日頃の自分自身を反省し、
後悔のない人生を送れるようにしたい。
昨日、アテネ五輪のマラソン選手選考会で、高橋尚子が選ばれなかった。
これは意外な気がするが、やはり・・という気もする。
選ぶということの難しさ、苦しさを感じた。
何を選考の対象にするかで結果は大分違っていたはずだ。
今までの実績を重視するか、
今回の選考会を重視するかだ。
高橋尚子を選べば、誰かが代わりに落ちている。
でも、名古屋女子マラソンを見ていても、
じゃあ誰が落ちれば良いかなんて分からないし言えないと思った。
結局は選ばれた人たちの健闘を祈るしかないのだと思う。
高橋尚子がマラソンを始めるきっかけになったのが
1997年のアテネで行われた陸上世界選手権大会の500メートルに
出場したことだそうだ。
今度のアテネ五輪には行きたかっただろうと思う。
自分でも走っている姿を想像していたと言っていた。
どうか、オリンピック出場のプレッシャーを感じず、
走るという楽しさを感じてこれからのマラソン人生を
走って欲しいと心から思う。
選ぶことの難しさをつくづく思う。
目の前の真っ赤なバラの花、
向こうまで広がっている黄色の世界、
永遠を感じる銀白色の光景・・・
色はいつも私の前にその世界を広げてくれる。
私好きな色、
花は真っ白、着る服は黒。
真っ白な花を見ていると心があらわれて、凛としてくる。
清楚で可憐な花に強さを感じる。
何にも染められていないという誇りを保って、
背筋を伸ばして咲いている花をみていると、
私までしっかりしなくっちゃという気持になってくる。
黒の服を着ると落ち着く。
春だから少し綺麗な色の服を着てみたいと思うときもある。
でも、結局最後は黒い色の服を着てほっとしている私が居る。
黒は喪服の色、でも華やかな色だと思う。
黒い服の似合う女性がとても大人に見えていた頃からの
私の憧れの色だ。
また、赤はとてもパワーを感じる色だ。
心が参っているときに赤を着ると元気になるらしい。
黄色は幸せを運んでくれるラッキーカラー。
今近くの菜の花畑は黄色の世界が広がっている。
いつか、一日菜の花畑の真ん中に座って
青い空を眺め続けていたい。
モノクロの世界の中では感じられないカラーの世界、
これからも私の人生に色んな色があるだろう。
歌にもあったように、人生いろいろ、女もいろいろ・・だから。
何にでも合う、合わないってあると思う。
昨日TVで食べあわせのことを言っていたが、
普段は気にもしないで食べていたものが、
その食べ方で毒にも薬にもなると言っていた。
きゅうりとトマトをサラダに入れて一緒に食べると、
きゅうりの成分がトマトのビタミンCを破壊してしまうらしい。
お酒とからしも駄目だと言っていた。
この合う、合わないは食べ物のことだけには限らず、
人と人の合う、合わないも大きな問題になってくる。
私は母にも親友にも言われることがある。
それは私と夫が今も結婚生活を上手く送っていけるのは
夫だからこそであって、他の人ならもうとっくの昔に
離婚していることは間違いないと言われることである。
確かにそうかもしれない。
私の周りにも沢山の男性をみる機会があるけれど、
よく考えてみると、その中の誰であっても
私とは長くは付き合えないのではないかと思う。
通り一遍の付き合いで差障りのないことでの付き合いなら、
お互いに本音を出すこともなく、遠慮する部分もあるので
一見は上手くいくように思える。
でも、この私のように我儘で自分の素直に生きたいと思っている人間に撮って、
夫だからこそ、私とやっていく力があるのだと思う。
有り難いことだ。
私は元々一人で生きていこうと思っていた。
だから自由な生き方をしたいと思って生きてきた。
それが今はこうして専業主婦として生活できているのだから
本当に不思議なものだ。
やはり夫と私は合わないようで一番相性がいい関係なのかもしれない。
私はこの「彩」という文字がとても好きだ。
「あや」、「いろどり」どちらにしても、
とても心が暖かくなる字だと思う。
同じ食事をするにしても、
彩りのことを考えるのと、まったく考えないのとでは
食べようとする時の気持ちが変わってしまう。
ちょっとした心遣いで、食卓も和やかになり、
また彩りの変化により食指も動くというものだ。
彩りは食卓だけではない。
人生においても彩りを添えるということは
とても大切なことのように思う。
何でもいい、
その人が生きていくときに、ほっとする時、
心が癒されるもの、
生きていて良かった!と思える瞬間、
心がときめくこと、
絵を描きたいとか、いい音楽を聞きたいとか、
何でも良いのだ。
人生に彩りを添えることがあるのとないのとでは
同じ人生でも大きく違ってくる。
私の人生に彩りを添えるものってなんだろうと考えた。
それは恋をすることかもしれない。
自分自身の心の中で、誰かのことを想う事、
この気持ちって人生を明るく楽しいものにしてくれる。
勿論叶うものでもなく、実際に恋をすることがなくてもいい。
恋心を忘れずにいたいと思う。
また、音楽もいい。
今朝も6時からバロック音楽を聞きながら
とても爽やかな朝のひとときを過ごすことができた。
幸い、私にはピアノやヴァイオリンがある。
ヘタでもいい、
何か辛いことや嬉しいことがあったとき
ピアノやヴァイオリンを弾いてみると、
心が落ち着き、悲しみは薄くなる。
絵手紙もそうだ。
イライラしそうなとき、机の前にすわり、
硯で墨をすると、心が落ち着いてくる。
そして可愛い花を見ながら描いていくうちに、
何故イライラしていたかを忘れることもある。
何でもいい、
その人の人生を楽しくしてくれるものを持ちたいものだ。
人生は短い、
私の人生もあとどのくらいかあるかは分からない。
でも、最期に後悔のない生き方をしたい。
彩りを大切にしていきたいと思う。
昨日は朝起きると本当に憂鬱な気分だった。
正直言って、私自身にも理解できない気持ち、
何もしたくない、
このまま蒲団をかぶって寝ていたいという気持ちだった。
でも、そうはいかないと思っていつものとおりの生活を送った。
午前中はとても沈んだ気持ちだった。
思いついて絵手紙を描いた。
フリージアがあったので、その黄色の元気に心惹かれた。
考えても仕方ないことは考えるのをよそうと思った。
なるようになれと半ば諦めの気持ちになった。
絵手紙を描いているうちに、何か馬鹿らしくなってきた。
どうしてこんなことで悩む必要があるのか?
私はいつでも私なのだ。
人がどう思おうが私の気持を相手に伝えることが一番だと気づいた。
そして、久しぶりのヴァイオリンのレッスンに行った。
いよいよ3ヶ月目に入り、基本的なことは勿論だが、
綺麗な音色を出す工夫、音を作り出す工夫、
フレーズを考えて歌えるように弾く弾き方、
色々なことは一度には出来ないけれど、
一つずつクリアしていきたいと思った。
レッスンから帰宅するとあれだけ落ち込み憂鬱だった気持ちが
嘘のように消えていた。
私の悪いクセである気持ちの浮き沈みで、
皆に不愉快な気分をさせてしまったことだろう。
でも、こんな私だ。
開き直りの気持ちでいこう。
明るい私も私だし、憂鬱な私も私。
これで良いのだと思う。
昨日、ある人が「山しゃくやく」の写真を画像として送信してくれた。
その人はどうしても山しゃくやくを撮るために、咲いている山を調べたそうだ。
でも、なくて諦めかけていた所、
たまたま、杉の伐採した後に咲いているのを見つけたとか。
真っ白な2つの花が本当に仲良く寄り添って咲いている姿に、
私の心は惹かれた。
元々白い花が好きな私、山に咲いているこの2つの花を想う時
胸がじーんとしてきた。
本当にひっそりと誰に見てもらいたいと思うのではなく
2つの花がお互いの顔を見つめながら、何か言いたげに咲いている、
言葉は要らない、あなたの側に居られるだけでいい・・
そう言っているように思えた。
その人の希望は、この画像で絵手紙を描いてほしい、
そしてその絵手紙を写真に撮って、画像を送信してほしいとのこと。
送ってもらった画像をファイル保存して早速描いた。
自分でも不思議なくらい描きたいって思った。
これが絵手紙の心なのだと思った。
感動とは感じて動くと書く。
この言葉どおり私の心が感じて私に筆を取らせたのだと思う。
思いついたら即行動する私でもこれほどのすばやい行動力があったとは
自分でも驚いた。
出来栄えはどうであれ、私の心は伝わったはずだ。
言葉はこの2つの花を見ていて私の心に浮かんだ、
「あなたの心によりそって」と書いた。
久しぶりに絵手紙に対する真摯な気持ちがわいてきた。
送ってくれた山しゃくやくの花に感謝するとともに
私にとって絵手紙について再認識させてくれた彼女に心から有難うと言いたい。
友情は同性の間にしか存在しない!
これは、私が今までずっと思い続けてきていることだ。
男と女の間には友情は育たない!
これも同じように私の思っていることだ。
こんな私の気持を何故?と思う人も多いと思う。
でも、小さい頃から男の子は恋愛対象にしか考えられなかった。
私の初恋は幼稚園の時、
いつも隣に座る男の子、
今でも覚えているのはお遊戯が終わり
お弁当の時間になると、私は自分のイスを持ち
彼の隣に座っていた。
その頃から男の子を好きになる時は
いつも自分の気持を相手に伝えるようにしていた。
私には片思いはできなかった。
振られてもいいから、自分自身の気持ちは相手に伝える、
心は伝えなければ相手にはわからないと思っていた。
それは今も同じで、男性に限らず、今の私の心は相手に伝えようとしている。
さて、友情が何故考えられないか?
それはズバリ、男と女の間には恋愛しか存在しないと思っているからである。
既婚、未婚に関わらず、私が男性を見るときは
必ず相手が私の恋愛の対象になるかどうか?と考える。
どうにかなるものでないことは分かっているし、
進展させようとは思わないけれど、
心がときめく相手でなければ楽しくないと思う。
まあ、こんなことを思っているから、
思わぬことに出会い、うろたえ、悲しく辛い気持ちを味わうこともあったのではあるが・・・
でも、それはそれで私の人生で無駄になってきたとは思わない。
こう書くと男性のメル友が怖くなって逃げていくかもしれないな?
でも、私のこんな面を知ってもらうのも良いかもしれない。
良い意味での開き直りの人生を歩みたいって思っているから。
というわけで、私の中では男性との友情は成り立たないということだ。
こんな情けない気持ちを味わったのは本当に久しぶりだった。
先日の辛く悲しい気持ちとは全く違う気持ち、
自然に涙がこぼれてくるほどのものだった。
悲しいという気持ちよりも情けないという言葉が
ぴったりの気持ちだった。
原因は娘のこと。
私が母親として育てた子なのだから
誰に文句を言えるものでもなく、
娘に対する情けなさは全部私自身が育て上げたものだ。
でも、何故?という気持ちでいっぱいになった。
ここまで我儘の言い放題し放題をするのは何故か?
私に甘えているからだとは思うけれど、
私も不完全な人間だから、神様のように
娘のことを全て受け入れ許すことなんてできはしない。
娘を思いっきり殴るか、私が消えるか?の
二者選択しかないとまで思った。
一生口をきかないとまで思った。
私の心が狭いのがいけないのだろうか?
もっともっと深い愛が必要なのだろうか?
私にはそれは出来ない。
誰にも愚痴をこぼすこともできないし、
私一人が耐えていくべきことなのかもしれない。
昨日の夜はそんな気持ちで床についた。
今朝の娘は、昨日のことがまるで何もなかったように
いつものとおりだった。
そして、私も忘れてはいないけれど、
心が落ち着いて娘に対しての怒りも情けなさも消えていた。
これが親子のよさなのか?
これが血の繋がりのよさなのか?
でも、またきっとあの情けない気持ちが私に襲う時が来るはず。
やはり、私がもっとしっかりした母親にならなければならないのだろうか?
私はどちらかと言うと、自信過剰な人よりも
少し控え目な人の方が好きだ。
自分自身で言わなくても、端から見ていれば
その人の凄さは分かると思う。
芸術家は我々とは違うものを持っていると前から感じていたが、
先日ある人が話しているのを聞いて、やっぱりなあ・・と思った。
でも、考えてみたら自分に自信がなければ
絵でも音楽でもいいものは描けないし作れないし
演奏できないような気もする。
自信と自惚れは全く違うものなのだろう。
自惚れは鼻持ちならないものだが、
自信はなるほどと共感できるところがある。
人間は自分でも気づかないうちに色々な面を持っている。
私の友人にとても強い人が居る。
その強さはそれまでの彼の生きてきた人生の中から
生まれてきたのだと思うのだが、
初めは何故そんなに強く自信のある生き方が出来るのだろうかと
とても疑問に思っていた。
でも、付き合っていくうちに彼の持っている強さや自信は
そうしなければ生きて来れなかった事情の裏づけがあることに気づいた。
勿論彼は気づいていないのかもしれない。
彼の心の中の悲しみや辛さ、絶望感から自然発生的に生まれてきたのだろう。
それから私の彼に対する見方が変わってきた。
感心してばかりいた事柄も、裏を返せば自信のなさ
生きることへの不安感、そういったものがあるのに気づいたから。
私は自信なんてない。
でも、考えてもどうしようもない劣等感もない。
人から見たらかわいそうだと哀れに思うかもしれないが、
私自身をそのまま受け入れるしかないことに気がついてから
私の劣等感などというものは消え去ってしまった。
そして今は私のことを自信たっぷりな人と思う人がいるかもしれない。
それほど心を強く持とうとしてきたのだから
誤解されても仕方はないと思う。
まあ人の思うことは様々だ。
人の思惑を考えていては自分自身の人生なんて歩めない。
主人公になって思うように自分の人生を歩こうと思うなら
少々の誤解も仕方ないし、自信を持つことも不可欠なことなのかもしれない。
人って分かってもらおうと思うこと自体が間違っているのだろうか?
私はこの数日間風邪で寝込んでいた。
熱もあったし、しんどかったけれど
結局は医者にも行かずなるがままに任せて
治るのを待っていた。
昨日は母の病院があったので気持の張りがあり
そのお陰で風邪による熱も吹っ飛んでいたのかもしれない。
こんな私は強いと思われるのだろうな・・・
私は生まれた時から今まで一度も健康な状態で居たことはない。
そして、このことは私が死ぬまで一生続くことだ。
心臓を移植して健康な心臓と入れ替えない限り。
でも、私は自分自身を病気だから・・・と思って甘えさせないように頑張ってきた。
だから傍目には強気で勝気な人に思われてきたのだろう。
本当の私を知らない人が私を判断することであり、
私がいくら違うと叫んでも仕方のないことだと思っている。
だから、どうでも良いことなのだけれど、
本当の私は心がとても繊細で弱くて神経が細くて
ちょっとのことでも傷つきやすい人間なのだ。
弱さの裏返しとしてつっぱりや強さを見せているのかもしれない。
この点が誤解の元になっているのだろう。
今までもこのことで色々な別れを経験してきた。
本当の私を知ってもらえないままの別れは苦い思い出として残っている。
所詮人は一人なのだとつくづく思う。
風邪は同じ状態だ。
熱もあるししんどい。
昨日はここで一人ならどんなに良いか!と書いた。
確かにそう思った。
でも、考えてみると如何に私は勝手なのだろうと思う。
一人で良いなんて言ってはいけないのだと気づいた。
友に「放っておけば良いんだ」と言われて、
私の気持をもう一度見つめなおした。
一人で良いと思いながら家事をすることは
私の我儘なのだと気づいたのだ。
家族は私のことを心配しているはずだし、
私が寝ていればそれなりに家事をするだろう。
私がしんどいしんどいと文句を言いながら
家事をしているのを見ていて、
良い気持ちになるはずはない。
そんなにしんどいのなら寝ていれば良いのにと思っていると思う。
それでも、その言葉を言わない夫や娘の優しさを感じた。
今日は母の病院があるのでどうしても行かねばならない。
母は昨日私のために果物を色々といっぱい買って
重いのに家に持ってきてくれた。
親心の有り難さをつくづく感じた。
家族のためにも私自身のためにも
やせ我慢をやめ無理をせず、早く治したいと思う。
夫や娘にこころからごめんと言いたい。
一昨日からの風邪で思ったこと!
一人ならどんなに楽だろうかということ。
朝だって起きなくても寝ていられるし
食事を作る必要もないし。
昨日も買いものに行って夕食を作って・・
なのに、
夫も娘もなんとも思っていないように
私がこうして働くのが当たり前のように
いつもと同じように・・
今朝も寝ていたかったのに起きて朝の支度をした。
ああ〜〜一人ならどんなに良いだろう!
とうとう、私風邪引いてしまった。
一年に一度は風邪を引くのだが、どうやら今回の風邪がそのようだ。
油断したのだと思う。
夜暖かい日に薄着でいたのが原因だと思う。
自分の健康管理ができなかったことが残念だ。
のどの痛みから熱が出始めた。
昨日は歯医者を、
今日は心臓の病院を電話で断ってしまった。
でも、主婦の辛いところは
いくらしんどくてもいつものとおりに家事をしなきゃならないところだ。
朝もゆっくりと眠っていたくても
いつもと同じように起きて朝の支度をした。
誰も居なければ一人で好きなほど寝ていられるのにな・・
今週はずっと用事で外出の予定だったから
金曜日までには治そうと思う。
今日、明日はしばらく休もうと思う。
昨日、母と話していてふと気づいたことがある。
母は私が貸した本を読んでいた。
サスペンスもので母の好きな本だ。
時間が経つのを忘れて読みふけると言っていた。
私はその時思った。
私は何かをするときに果たして楽しんでしているのだろうかと。
初めは何でもしてみたくて楽しくてしているのに、
いつの間にか楽しんでしていたことが
苦しみに変わるのだ。
今回掲示板を閉じたのも、色々と事情があったにせよ
私の中で疲れてしんどくなり楽しいという気持ちが
段々と消えて行ったからだ。
絵手紙も初めは面白くて楽しかった。
でも、今は何となく惰性で描いている私が居る。
ピアノもそうだ。
あれほど小さい頃から弾きたくてたまらなかったピアノ。
やっと自由に弾けるようになり、習いに行って
毎日毎日一生懸命に弾いていた。
練習すればそれなりに上手くはなるけれど、
それが度を過ぎると苦しみに変わりやがては嫌になってしまう。
今年になってはじめたヴァイオリンも
最初の一ヶ月は一生懸命にしていた。
難しくなって思うように弾けなくなり
今はちょっとだけ休みたい気分になっている。
せっかくはじめたものを苦しみには変えたくないので
「まあ、ぼちぼちしよう」と自分自身に言い聞かせている毎日だ。
こういう私の一生懸命になりすぎて
結局長く続かないことは、物に対してだけではなく
人に対しても同じだ。
例えば知り合い気も合って、メル友になり
毎日毎日のメールの交換をしているうちに
それが楽しみではなく苦しみに変わる私が居るのだ。
そのために今まで何人の人との別れを味わったことか。
いくら馬鹿な私でも同じことを繰り返したくなくて
今は少し余裕と持って交際しているつもりだ。
私が出しても返事が来なくても「まあ良いかと」と
思えるようになった。
お互いに負担にならぬよう、
長く続けるためにも、また私自身のためにも
もっと気楽に楽しんでしたいと思った。
人生は短い。
同じことをするにしても
苦しいと感じてすることよりも
心から楽しいと思えるように生きて行きたいと思う。
今日から3月、春本番だ。
私にも春が来た。
心が軽くなり、小さなことにまで幸せを感じることができる。
考えてみたら今まで起きたことは、通過点に過ぎないのだと気づいた。
過ぎてしまえば大したことのないことばかりに
一喜一憂していた私。
今は不思議な気がする。
過去を消そうとは思わない。
過去にあったことは皆それで意味を持っていたことだと思う。
その時には私にとっては本当に大きなことだったからこそ
悩んだり苦しんだりしたのだから。
でも、もう過去を思い出し同じような気持ちになることはない。
これは声を大にして言えることだ。
私は今私が居る意味と存在感を強く感じることができる。
私の居場所はここしかないと思うし
私の心の自由は私を苦しめることへは使わないことにした。
心の自由は私のもの。
人生も私のもの。
私には大事な家族、守るべきものがある。
その上で私の思う心の自由を思い切り羽ばたかせたいと思う。
スカーレット
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