スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次|過去|未来
澄み切った空、
冴え渡った空気、
透明な湖、
そして晴れ晴れとした心。
以前誰かが言った。
「僕は透明だと感じる」と。
そして、「それは自分が生きているという実感がないことを意味している」と他の誰かが言った。
透明って色はあるのだろうか?
無色透明という言葉があるように、色はないのだろう。
透明な心、
透明な目、
透明な生き方。
私の憧れ。
誰でも皆子どもの頃、否、生まれたときは透明に近い真っ白だったはずだ。
それが年を重ねるたびに、一つ一つ色をつけていく。
同じ色の人の心は存在しない。
同じような考え方をする人は居るけれど、
同じ色には染まらないと思う。
私は生まれてから病気では辛い経験をたくさんしてきた。
でも、私の周りには愛という暖かな色合いの心に恵まれていた。
自暴自棄になって、自らの命さえ投げ出そうとしたこともあったけれど、
今、こうして生きている私が居るのは、
この私の周りにあるとてもやわらかな、とても暖かな空気のお陰だと思う。
生まれたままの透明な目を持ち、
透明な心を持って、
生きていけたらどんなに良いだろう・・・
人の思惑も考えず、
只、人を信じて生きていけたらどんなに楽だろう・・・
苦しみや悲しみや、痛みを感じない透明な心で居られたらどんなに良いだろう・・・
でも、現実のこの世界で生きていく限り、
そんなことは言っていられない。
何物にも負けない強い心、
成功を信じる強い心、
自分の理想とする生き方に向かう強い心。
それらを身につけることによって、
自分自身に存在する邪悪な心を追い出すこともできるのだ。
私は今透明な心になりたい。
何も考えず、何も思わず、何もしない心。
凪いだ瀬戸の海のような心、
摩周湖のように透明度の高い心。
子供のように澄み切った目を凝らして
私の周りを眺めたい。
ダイヤモンドのような透明度と硬度を持った人になりたい。
透明とは、決して無意味な存在ではないのだ。
煌びやかな生き方ではなく、
透明な心で、自分の信じる道をゆっくりと、
自分のペースで歩いていく、
そんな生き方がしたいと思う。
朝、起きてみると外は雨。
静かな雨が降っていた。
そのためか暖かい朝だった。
秋は一雨ごとに寒くなると言う。
こうして11月も終わりの頃の雨は初冬を迎える雨だろう。
私の心にも雨が降っている。
この雨は台風の時の激しい雨ではない。
一時はそんな雨も降っていたけれど、今は違う。
今は静かにしっとりと降る雨に変わった。
まるで梅雨を思わせるようなしとしとと降る雨だ。
いつかこの私の心にも晴れ間がのぞくのであろうけれど・・・
それがいつ来るか私には分からない。
こんなときは外へ出て無理に動こうとしないで
雨がやむのを待つのが良いのだろう。
誰かの家の軒下を借りて雨宿りをするのも良いかもしれない。
軒先を借りる家の人に迷惑をかけないように、
静かに佇んでいよう。
家の中の人に気づかれないように・・・
そうして、少し小降りになったら、出て家に帰ろう。
私は傘を持っていない。
いつもなら携帯の傘を持って出かける私なのに、
今回は突然の雨に戸惑うばかりで
心の準備は出来ていなかった。
だから、
傘を差さずに出てきた私。
そして、ちょっとだけ小降りになるのを待っている私。
そう、
心の雨宿り。
もう少し経ったらきっと晴れてくるだろう。
そうしたら私の心に虹がかかるかもしれない。
それは案外早くに訪れるのかもしれないな・・・
私は今までにどれほどの人たちに想いを寄せただろう?
いつも誰かを想っていないと不安になるのだ。
人を想うことはそれ自体悪いことではないと思う。
でも、私のように人への気持ちが恋愛に変わるのは時に不都合なことがある。
これってもしかして「恋愛依存症」?
一つの恋愛が終わったら、また次の恋愛を求めている。
まるでいつも恋愛をしていないと心が落ち着かず、
何か不安で、何も手に付かず、イライラしてしまう。
まるで「アルコール依存症」だ。
父が昔禁煙していた時、何かとてもいらだっていた。
ちょっとしたことで腹を立て家族に当り散らしていた。
お正月に旅行に行ったときもそんなことがあった。
お正月を機会に思い切って禁煙すると決めたのだと思うが
周りに居る私達に当たるなら、禁煙なんてやめて
お好きなように!と思ったものだ。
今回の私が同じだ。
何かイライラする。
あれほど心を元気にと思ってそれなりに頑張ってきた。
でも、やはり駄目だった。
この一ヶ月あまりの私がおかしかったのだ。
これで本来の私に戻れたのかもしれない。
だから、これでよかったのだと思う。
恋愛に依存する生き方を肯定するつもりはない。
でも、私はいつも誰かに想われていたい、誰かを想っていたい。
それが実現するかどうかは分からない。
只、私の中のもう一人が「恋愛をしたい」と叫んでいる。
この恋愛依存はあの19歳の失恋が原点になっている。
もしかして私は心の病気になったのだろうか?
あの19歳の時に発症して長く患った心の病気。
もう二度と経験することはないと思っていたのに・・・
この気持ちはどうしようもないのだ。
自分が「恋愛なんてどうでも良いや」と思えた時には治るのかもしれない。
でも、それまでは私は誰かにいつも恋していたい。
それが世の中の不道徳だと言われても良い。
私は私の心に素直になりたい。
恋愛依存症だと言われても良い。
それが私の選んだ道なら・・・
この地球以外に、
人間以外の生物は存在しないのか?
もしも地球のような星に今こうして悩んだり苦しんだり 笑ったりしながら
生きているものが居るのなら?
もしもそうなら
私はその星へ行きたい。
私の今のこの存在を消したい。
今直ぐに消したい。
自分を無くすことはすなわち家族を無くす事だ。
家族っていう重たい存在は私には要らない。
私は私。
何者でもない。
私は何でこんなに悩まないといけないのか?
もっと笑って過ごせる世界があるなら
私は今直ぐにでも行きたい。
今私の周りは八方塞状態だ。
何所へも行けず、
こうして今の状態の中でもがくしかないのか?
私は何で生きているのだろう?
私の存在って何だろう?
私が居なくなっても悲しむ人っているのだろうか?
母と父たったこの2人しか居ないのではないか?
高齢の両親を悲しませることは、
いくら我儘な私でもしたくない。
今はそう思う。
でも、
いつかこの気持ちさえも持てなくなるときが来るに違いない。
それはもうそこまで来ているような気がする。
私の心は極限状態。
まるで空気をいっぱい詰め込みすぎた風船のよう。
何か先の尖ったもので一突きすれば
大きな音と共に形をなくすだ。
昔あった風船取りゲームのように
針の付いた汽車がもうそこまで来ているような気がする。
出会いって不思議。
どんな偶然の仕業か分からないけれど、
人と人との出会いを思うと何か人間の力以外の
大きな力が働いているように思える。
昔から「赤い糸で・・・」という言葉がある。
これは男女の仲の話しで使われることが多い。
この広い世の中でその人と出会うということの不思議さと
有り難さを感じる今回のオフ会だった。
私は出会いを大切にしたいといつも思っていた。
心と心はぶつかることもあるけれど、
反対に引き合うことだってあるんだなあ・・・と思う。
出会いは大切にしたい。
たとえ相手がどんな人であってっも。
人との出会いを通じて今まで知らなかった世界が広がることだっていっぱいある。
PCを始める前までは専業主婦の私が、 人と新しく出会うということは 娘の学校の関係以外ないと言っても過言ではなかった。
それが、こうして今では全く見知らぬ人と話すことができる。
そして、話すだけではなく 会うことだって出来るのだ。
何かの縁で知り合った人達との出会いを大事にしたい。
私の宝物になるような出会いがしたい。
久しぶりに笑った。
おなかを抱えて笑った。
昨日までまるで地獄のような毎日を送っていた私。
いくら思うのをやめよう、
考えても仕方ないと思いながらも
家事さえ手につかなくなるほど
落ち込み、苦しんでいた私。
昨日、大阪からメル友たち6人が私に会いに来てくれた。
半年前にこの話しを聞いたときは、
夢の中の話のように思った。
それがあれよあれよという間に現実味を帯びてきた。
そして、昨日とうとう実現したのだ。
初めて会う人だから正直言って不安もあった。
写真ではお互いの顔は知っているし
電話でも話したことはあるけれど、
やはり初対面の人達だったから
「私のことをどう思うかな?」なんて考えても居た。
それが昨日の昼、駅の改札出口で彼女たちに会った時
初めて会った気がしなかった。
皆、気さくで、話しやすい笑顔のステキな人達ばかりだった。
まるで旧友との再会をしたような
妙に懐かしい気持ちがした。
皆の笑顔が眩しかった。
話の楽しさ、面白さについ笑ってしまう。
私の心は泣いていたのかもしれないけれど、
顔は笑っていた。
涙が出るほど笑った。
目じりのしわが増えるだろうなあ・・・と思うほど。
そして笑って、踊って、歌って、食べて・・・
時間の経つのが本当に早いと感じた。
そしてこうして私を支えてくれる彼女たちを
心から有り難いと感じた。
一人になると昨日までのことを思い出し
急に胸が痛くなったりもしたけれど、
私の心にちょっとだけ笑顔の目が芽生えたような気がする。
人は一人では生きていけない。
お互いに支えあって生きていくのだとつくづく思った。
私は一人ではない。
私は一人ぼっちでもない。
あの人はあの人、
私は私。
そう思えるように少しずつ変わっていっている。
さあ、今日も彼女達との時間を過ごそう。
私の心のキャンバスに幸せ色の「ハッピーバード」を描いてみよう。
2003年11月23日(日) |
明日はまた明日の陽が照る |
この2週間ほど、これほどの悲しみがあるのかと思うほど 落ち込んだ私。
食事も喉を通らず、眠りもとれず、
まさに心の病気になりかけていた。
考えても考えてもどうしようもなく
いくら私が心を元気にしようと思っても出来なかった。
このまま一生立ち直れないと思っていた。
でも・・・
でも・・・
少しずつまるで絹糸をほぐすような感じで 私の心が楽になっているように思える。
急には無理だろう。
もしかしたら相当の日にちがかかるかもしれない。
でも、昔の私と違ってしたたかさを感じている。
これが年を重ねた意味なのかもしれない。
あの青春真っ只中のころのあの同じ気持ちではあるけれど、
そして、死にたいとも思ったけれど、
このまま私が負けてこの世から消えたとしても 誰が喜ぶだろう?
誰も喜ぶ人は居ない。
私がこの世の中から消えてなくなったとしても
原因はなくなりはしない。
元が消え去らない限り、私が考え方を変えない限り事態は変わらない。
こう思うと、今悩み苦しんでいることが馬鹿らしくなってきた。
きっといつか私が今悩み苦しんでいることから解放されるだろう。
否、解放されるのではなく
私自身の気持を呪縛から自分自身の手で解放してやらなければならない。
そうすることによって、いつか今のこの苦しみを思い出すこともなく
忘れ去ることができるはずだから。
私は無駄に生きてきたのではない。
無駄に年を重ねてきたのではない。
この50年という年月は私に勉強の場をいっぱい与えてくれた。
同じ失敗はしたくない。
同じ轍は踏みたくない。
一歩ずつ前進していこう。
365歩のマーチではないけれど、
3歩進んで2歩下がる。
カタツムリのようなのろい歩みでも良い。
今のこの苦しみはこれ以上大きくはならないはずだ。
そして、一本の光が私に差し込んできている。
壊れてしまったかけらを繋ぎ合わせても、もう元には戻らない。
あの楽しいと思えた頃には戻れないのだ。
さあ、スカーレットよ、
名前の通り大地にしっかりと足を踏みしめて
「タラの地」で言った言葉を思い出せ。
「明日のことは明日考えよう。明日はまた明日の陽が照るのだ!」
人は何故悲しくなるのだろう?
どうして食事も喉に通らないくらいの悲しさを感じるのだろう?
この同じ胸の中にある「心」という不可思議なもの。
同じ人の「感情」の溜まり場であり、ゴミ捨て場になっている。
腹が立つという怒りの気持ち、
涙を流すという悲しみ、
生きていて本当に良かったと思える喜び、
満たされていると感じる幸福感、
どうしようもなく襲ってくる不安、
どこにぶつけて良いか分からないほどの焦燥感。
それら全部同じ人の心の中にあるものだ。
それらが今私の「心」というゴミ捨て場の中で 混沌とした状態で居る。
もう直ぐそれらの捨てられた喜びや幸福感が異臭を放つようになるのだろう。
その人の心の持ち方で気分は変わる。
落ち込むことが多い私は、
敢えてそんな私自身を変えたいと思った。
そして、せめて「心は元気で居よう」と思った。
真っ黒なキャンバスにカラフルな風船を描いて
真っ青な空に飛ばそうと思っていた。
でも・・・
でも・・・
今の私はまるで暗闇の中を手探り状態で歩いて行っているようなものだ。
なにが「心を元気に」だと思う!
そんなに簡単に心を元気になんてできはしない。
もしもそれが出来るなら
それは、
今のこの悲しみを怒りに変えることができたときのような気がする。
もしも、怒りに変えることができたなら、
私の今のこの思いのたけを全部ぶっつけて
破壊してみたい。
人の目を気にせずに怒り狂ってみたい。
そうすればきっと心が悲しみ色から真っ赤な色に変わるだろう。
「怒らず、怖れず、悲しまず」
私の目指しているこの目標ははるか彼方に行ってしまったような気がする。
人の心は様々。
考え方も、生き方も色々。
だから、その人が奏でる音色が違うのは当たり前だ。
昨日は私の持っているクラシックのCDをずっと聴いていた。
好きな音楽を聴くと心が落ち着く。
それがどんな音楽であれ、その人が聴きたいと思う音楽が その人の心を癒してくれる。
今の私の心を癒してくれるのはやはりショパン。
「ポロネーズ」「バラード4番」
涙が出てくる。
理由は分からないけれど、
自然に涙が出てくるのだ。
特に「バラード4番」を聴いていると
今の私の心そのものだと感じる。
切ないこころ、もの悲しい気持ちからショパンの憂いを思う。
繰り返されるあの主題のあのフレーズは私の心を震わせ
涙を誘う。
音色ってどうしてこんなに綺麗なのだろう?
演奏しているアシュケナージの弾く指にショパンの心が
映っているように思える。
演奏する人によって同じ曲でも感じが違う。
昨日はアシュケナージとブーニンとアルゲリッチとフジ子・ヘミングの演奏を聴き比べてみた。
激しさ、癒し、和らぎ・・・色々なものを感じた。
そして私の心にも色々な音色があるのを思う。
さあ、今日はどんな音を出せるのか?
少しは明るくリズミカルな音色を出せるかな?
それとももの悲しい音色になるのだろうか?
怒りや憎しみのもてない私には激しさはこの思いそのもの、 激情そのものなのかもしれない。
心の叫びをピアノにぶつけよう。
2003年11月20日(木) |
良い友人達に囲まれて |
私はなんて幸せ者なのだろうか!
こうして今まで2年あまりHPを持っているけれど
そして、色々とあったけれど
今この小さくても私が安心して続けて行くことができるHPを 持てることに感謝している。
画像掲示板へ書き込んでくれる人たち、
私にとってとても大事な人たち。
皆それぞれ、私のことを気遣い、励まし、勇気付けてくれる。
こういう私の周りに居てくれる友人達が居たからこそ 今の私が居るんだと思う。
本当に有り難い。
本当に素晴らしいことだと思う。
人は何かのことですぐに傷つき悩み落ち込む。
そして私はその落ち込みが激しい人間だ。
そんな時、私の大事な友人の一人が教えてくれた本と出会った。
私が考え方を変え、心だけは元気で居たいと思うようになったのも この友人が教えてくれた一冊の本だった。
もしも、その人に巡り合わなければ その本に出会うこともなかったであろうし 今のように、落ち込んでも立ち直れる私にはなっていなかったと思う。
本当に友人の有り難さをつくづく感じる。
人は字のごとくお互いに支えあって生きている。
一人では生きていけない。
いくら、私が「一人が好き」だと頑張っていたとしても それは私には夫や娘という大切な家族が居てくれるから そう思えることだと思う。
私は本当に幸せだと思う。
私の周りには暖かな、柔らかな風を送ってくれる友人達が居る。
幸せは人が与えてくれるものではなく 自分が見つけて、自分の心で感じるものだ。
今私はあの真っ黒なキャンバスに赤や黄色の風船を描いて 青い空へ飛ばそうと思っている。
人は無意識のうちに自分の身を守ることが出来るのだと思う。
肉体だけではなくて心も同じように、何かあると傷つきたくないという 力が働いているように思える。
これは人間だけではなくこの世に生きているもの全てに生まれた時から備わっているものではないだろうか?
確かに「自分を守る」ことは生きて行く上で一番重要な条件のように思える。
自分が自分自身を大切に思わなくなったら終わりだと思うから。
自傷行為を続けて、いかにも「もうどうでも良い」と思っているような 人でも、本当の心の中では「助けて欲しい」とう叫び声をあげているのではないだろうか。
私も色んなことがあり、もうこれ以上落ち込むことがない状態まで落ち込むことがある。
先日からの出来事で私の心は真っ黒状態だった。
否、今も同じ真っ黒い心で居る。
でも、ずっとずっと昔のように「死にたい」と思わない私が居ることに気が付いた。
だって、そんなことで、私の人生を終わらせることがいかに馬鹿みたいなことかと思うからだ。
私は私の人生を歩んでいる。
それが他の人と違って、石ころだらけの道であっても それは私に与えられた道、 否、私自身が選んで歩いている道だと思うから。
とことん落ち込んで、地球の裏側まで行くほど穴を掘って行っているうちに 笑っている私が居た。
「あほらしい」と思った。
そうしたら何か笑いが出てきたのだ。
悩んでも私一人の力でどうすることもできないことを ぐじゃぐじゃ悩むのはやめようと思った。
そして、そう思えることによって、あれほど落ち込み泣いていた私が立ち直ることが出来たのだ。
少しずつ前向きに上向きに考えるようになった。
私は私を守ることが出来たのだ。
人生は雨の日もあればお天気の日もある。
強風で吹き飛ばされそうになったときは 何かの物陰に身を寄せてその強い風が通り過ぎるのを待てば良い。
雨のひどい時は外へ出なくて家に居て好きな音楽を聴きながら 時間を過ごしていれば良い。
何事もそうだと思える。
さあ、私の真っ黒の心のキャンバスに暖かで柔らかい色の絵の具で自由に描いてみよう!
私は一日の終わりにいつも今日あったことを思い返すのが習慣になっている。
今日が良い一日であったかどうか?
思うような生き方が実行できたかどうか?
人を傷つけることを言ったりしたりしていないか?
いつも考えている。
でも、この頃は私自身が自分の気持に振り回されていたような気がする。
自分の心の中で勝手なことばかりを考えて いわば一人相撲を取っているようなそんな日々だった。
家の中は今とても上手くいっている。
夫との仲も良い。
結局は私が今の私自身の環境や生活に満足しているから 忘れそうになっていた感謝の心を持ったからだと思う。
家族の中でお互いに感謝の気持ちを持ち合うことはとても大事なことだと思う。
でも、家族というのは不思議なものでいつかそれが当たり前になって行く。
日頃感謝の心を持っていれば、夫婦も親子もお互いを思いやり、慈しみ合うことができるはずだ。
それが出来なくて、言いたいことを言ってしまうことが多い。
相手の気持を考えることもしなくてつい言わなくても良いことまで言ってしまうのだ。
私のように単純で思ったことを口にしてしまうものにとっては 自分が言った言葉が家族の誰かを傷つけているとは思わない。
でも、私のわからないところで娘の気持ちを傷つけていることだってあるに違いない。
本当に難しい。
人は人、私は私。
でも、やはり相手を思う気持ち、いつくしむ気持ち、感謝する気持ち これらを忘れてはいけないと思う。
さあ、今日寝るときに私は感謝の気持ちが持てたかどうか、 誰かと諍いをしなかったかどうか、 安心して眠れるように一日を過ごしたいと思う。
真っ黒な色は人の気持を暗くするのか?
それとも見えないから安心できるのか?
私には分からない。
人の心ってどうしてこんなに揺れるのだろう?
人に左右されたくない私なのに、
いつも言葉に傷ついている。
弱い心の持ち主だからか?
強い心、元気な心。
これを持とうと思っていた私は
やはり無理をしていたのだろうか?
無理をすればいつかはそのしわ寄せが来る。
無理はしたくないのに
いつもいつも何か肩肘を張っている私。
私の心は真っ黒だけれど、いつかその黒い中に私自身が進む道が見えるのだろう。
今は静観するしかないのだろう。
--------------------------------------------------------------------- ここまで書いて、しばらくして考えた。
心が真っ黒と真っ暗の違いを掲示板に書き込んでくれた紫蘭さん、有難う。
そうか!真っ黒は他のものを引き立てることができるのだ!
真っ黒は決して真っ暗ではないのだね。
真っ黒な紙の上には黄色が目立つ。
赤い色も綺麗に書ける。
黒い色で描いても、もう目立つことはない。
真っ黒な心で居ても良いんだ。
真っ黒な心に明るい色で絵を描こう。
秋桜のピンクの色も引き立つだろう。
白色の山茶花も綺麗だろう。
少しずつ、心も成長してるのだな。
真っ暗な心ではない、真っ黒の心に乾杯!
--------------------------------------------------------------------- harunaさんからの励ましがあった。
嬉しいものだ。
黒ユリは○の花。
黒いユリは恋の花。
私は淋しがりやのくせに、時に一人が良いと思うときがある。
何故か一人でどこか知らないところへ行ってぼーっとしていたい気になるのだ。
別に今の私の生活に不満があるわけでもなく、 一人ぼっちが好きでたまらないこともない。
只、一人で海を見つめていたり、 街の雑踏の中を、一人で歩いていてウインドウを覗いたり、 買う気もないけれど、何気なく店を覗いたり そんなことが好きだ。
家で一人でピアノを弾いているときと同じような とても落ち着いた気分になる。
買い物はいつも一人で行くからかもしれないが、 誰かと一緒だととてもしんどくなるのだ。
母と行くのだけは特別何ともないのが不思議だ。
娘と行っても疲れるし、夫と行くのは尚しんどい。
私が我儘だからかな?
今日も午後2時間くらい、車を走らせて、足を延ばして一人でぶらっとしてきた。
とても快適な2時間だった。
開放的な気分を味わった。
途中で雨が降り出したけれど、車の中でショパンの「バラード4番」を聴きながら一人の世界にひたれたのは幸せだった。
私って変なのだろうか?
誰でもこういう気分になることはあると思う。
孤独ではなく、一人ぼっちでもなく、一人の落ち着いた時間が持てることが嬉しいのだ。
でも、こんなことを言うと、誰かさんに「暇人」とか「贅沢」とか言われそう・・・
まあ良いか・・・
何もしないのと、静かに見守る、つまり静観することとは全く違うものだと思う。
これが私には一番必要で、且一番難しいことだ。
私の悪い癖は、何かあるとすぐに動揺して 解決しようとすることだ。
そして、解決しようとしてもがけばもがくほど、事態は悪化していく。
良いことも悪いことも、何かが起こった時には それを少し見守るということがなかなかできない。
直ぐに行動に移したくとも、もう少し状況を静観して 時間を置き、その後で行動に移しても決して遅くはないのに・・・
何故か直ぐにしないと不安になるのだ。
今までにも色々なことがあった。
そして、そのたびに私は行動に出てきた。
中には良い結果になったこともあるけれど、殆どが後悔する結果に終わっている。
今回私に起こったことについても、私は直ぐに行動に移してしまった。
何故か居ても立っても居られない気持ちが続くことに耐えられないと思ったからだ。
案の定結果は悪くなっている。
私が今、これ以上動くとますます事態は悪化するに違いない。
今の私に一番必要なことは、静観することなのだ。
もっと落ち着いて考えてみよう。
どうすれば一番良い方法なのかを考えてみたい。
私にとって今は試練の場なのかもしれない。
天が見ている。
もしも、天が私を幸福にしてやろうと思うなら、 きっと良い結果になるだろう。
少し様子をみたい。
でも、この静観するということがいかに難しいか!
今私は自分自身を一段上にステップアップするためにも この辛さを辛抱しなければならないとつくづく思う。
人が生きて行く上で何が一番大事なことなのだろう?
私は考えてしまう。
人によって大事だと思うことは様々だ。
それがお金儲けに終始する人も居るだろう。
また人のため、世のために自分を犠牲にしてでもつくすことが大事だと思っている人も居るだろう。
「これだ」と言える一つのものはないのだと思う。
私は人を許す心、人を許せること、これが一番大事なことではないかと思う。
怒り、苦しみはその人の心を重くするだけだ。
怒ったとき、その一瞬はスカッとするかもしれないけれど、 その怒りは相手を不幸にするかもしれない。
人のことを怒るよりも、その怒りの元になることを除外して行くことの方が 大事だと思う。
もしもマナー違反をしている人を見つけて、腹を立てるのではなく、自分が行動を起こしてその元を断ち切れば良い。
私は自分で正義感の強い人間だと思っている。
だから、規則を守らない、約束を守らない、人の嫌がることをする人に怒りを覚えていた。
でも、考えようによったら、その怒りは自分の心を満足するだけの利己主義から生まれたものかもしれないと思うようになった。
確かにこうして書くと、さも私が神様のように善良で尊い人と思われるかもしれないが、実際の私は全く違う。
いつも自分の心の中で悩みや、怒り、悲しみ、そんな感情が渦巻いている。
「怒らず、怖れず、悲しまず」
こんな理想を持ちながら、少しでも近づいて行きたいと思いながら、なかなか出来ない私が居る。
でも、私が大事だと思っている「許す」ということは、この理想へ近づく第一歩のような気がする。
私自身の気持が穏やかで、満足していればきっと私の周りに居る人も心が安らぐはずだ。
そんな人の心を癒してあげられる人になれたら良いなあ・・・と思う。
一番大事なことは人を許せる心を持てる人間に私自身がなるということかもしれない。
私の今日の心は駄目・・・
最悪状態。
「心は元気で前向きに」なんて偉そうなことを言っていたくせに ああ〜〜情けないよ。
でも、今日は私が人の言った言葉で落ち込んでるのではない。
状況かな?
この間ある人が言っていた言葉に驚いた。
そしてなるほど!と思った。
普通「落ち込む所までとことん落ち込んだら、後はどうにかなる」とか、
「最悪のところまで行ったら、もうそれ以上は落ちないから這い上がることができる」と言うと思ってた。
そして、確かにとことん落ち込んだら私は自分でまた這い上がっていたように思う。
そうしながら人は生きて行くのだと思っていた。
それが違っていたのだ。
その人が言った言葉は、
「とことん落ち込んだら、穴を掘れ」だって。
「目からうろこ」だ・・・
そうか、もうこれ以上落ち込むところがない所まで落ち込んだら 穴を掘っていけば良いんだ。
そうか・・・
無理に頑張って這い上がる必要はないんだ。
真っ暗な穴を掘ってますます落ち込めば良いのか・・・
これって今の私にはとてもぴったりの言葉だった。
変に慰められたり、励まされたりすると余計に心が暗くなる。
言ってくれる人の好意は分かるけれど、
そのように這い上がることができないことにまた落ちこんでしまう。
だから、とことん落ち込んでまだそれでも落ち込み足らなければ 穴を掘って落ち込めば良いのだ。
この言葉を知ってから、少しだけ楽になった気がする。
私の一人の力ではどうしようもないこともある。
しかし、嵐が過ぎ去るのを待つように、じたばたしないで待っていよう。
いつかまた元気になるだろう。
穴を掘れば良いんだから(^0^)
人の心ってこれっていう一つのものではないと思う。
その日の気分で変わることもあるし、
色々な面を持っているのが当たり前な気がする。
先日の母親を殺した大学生と付き合っていて自分も家族が居ない方が良いと思っていたという女子高校生のHPを見た。
私はあまり驚かなかった。
だって、あの年頃の女の子は皆大なり小なりああいう気持を持つのではないかと思うから。
私だって、あの頃は色々と思っていた。
「私は何なんだろう?」 「私の生きる意味は?」 「私は今から何を目的に生きて行けば良いのだろう?」
などと考えていた。
家族が居なければ良いとは思わなかったけれど、 彼女と同じ摂食障害になったときは、自分の周りの者の無理解さに絶望した。
そして、一人にしてほしい・・・
誰にも会いたくない・・・
放ってほしいと思った。
その一方で誰かに私のことをわかってもらいたいという気持があった。
私の場合は彼女と違って自分の気持を理解してくれる彼は居なかったから 誰にも助けを求めることができなかった。
彼女が生きる意味が分からなくなり、自分を痛めつける行為に及んだことも理解できる気がする。
私は人への攻撃の出来ない人間だ。
だから、思い自分自身に向ける。
攻撃もする。
その結果自分自身の消滅をも望んでいたのだ。
人の心はある一面だけを見たのでは理解できないと思う。
彼女にも明るく何所にでも居るような女子高校生と同じ気持を持っていたと思うから。
人の心は誰にもどうしようもないものだ。
だから、人にわかってもらおうと思うのはやめよう。
そして人にどう思われようと自分の気持に素直になろう。
そして自分を嫌いにならず、良い所を認めてやろう。
そうすればきっと自分を好きになれると思う。
自分自身を好きだと思う心があって始めて、人を想うことができる。
そして人を想う気持は自分自身の心を清く正しい心にしてくれるのではないかと思う。
「こころ」って不可解なものだもの。
もしも、誰かに、また何かに期待をして裏切られたと感じることはないだろうか?
この期待するということと、裏切られたと感じることは考えてみると実に自分勝手な考え方だと思う。
相手に望まれたことでもないのに、こちらが一方的に期待し、それが思っていた通りにならなかった時は相手のことを悪く思ってしまう。
これって、やはり変。
だって、相手がどんな態度に出るかなんて、またどんなことになるかなんて 相手の責任でもないのだから。
こちらが自分の思うようにならないからと言って、それを怒るのは筋違いだ。
よく、親は自分の子供に期待する。
私も娘が小さい頃にはそういうことがしばしばあった。
例えば、ピアノを上手くなってほしいとか、勉強がよくできるようになってほしいとか。
今思うと、これも私である親の勝手な思いだったのだ。
娘にピアノの練習を強制して小さい頃は私の思うような結果を出した。
でも、これは決して娘が自分で上手くなりたい、良い結果を出したいと思ったことではない。
まだ反抗期に入らない、また、自分が確立されていない頃、親の言うままに動いていた頃の話だから。
私は今は娘に期待はしないようにしている。
どんな結果になろうともそれは娘のことだし、娘の人生だから娘自身が納得して歩いて行ければ良いと思えるようになった。
これって親として大事なことだと思う。
娘に対してだけではなく、何事にも期待をするのは止めている。
自然に任せてときの流れのままに生きることの大切さを思う。
この気持は決して投げやりな気持ではなく、なるがままに身を任せて無理をしないようにしようと思う気持である。
こんなことを言っていても、他の人に比べると私はまだ頑張りすぎるところがある。
時には自分の弱い心に負けないように頑張るということも大事だ。
でも、「ケ・セ・ラ・セ・ラ、なるように・・・」が一番だと思えるようになった。
自分自身が楽な生き方が出来るための方法を模索しながらの毎日。
少しずつ私が良い方向に変わって行っているのが分かる。
そしてそれにつれて家庭の中も明るく楽しいものになっているし、夫との関係も良い方向に向かっている。
何事も自然体でいきたい。
私は女として可愛い女なのだろうか?
それとも、落ち着いて冷静に判断のできる大人の女なのだろうか?
この頃よく考える。
結婚して18年が経ったこの頃、特にこれからの私達夫婦の関係のことを考える。
長い交際期間を経て、周囲の心配や反対もありながら結婚した私達だ。
一人娘も生まれ傍目には理想的な家族に写っているに違いない。
確かに夫は人間的に言ってもいい人だし、やさしさやいたわりの心のある、 夫としては文句のいうところのない人だと思っている。
夫婦喧嘩をしたら必ず私の方に原因があると人は言う。
私の考え方次第で良い関係になれるのは分かっていた。
でも、何故か娘が生まれてからしっくりといっていなかった。
私のやきもちが原因だと言えばきっと笑われるだろう。
やきもちと言っても、世間で言う夫の女性関係でのやきもちではない。
娘に対してのやきもちなのだ。
夫と娘は一卵性双生児のごとく仲が良い。
娘が幼い頃から3人で行動するといつも私は疎外感を味わっていた。
夫に私の方を見てほしいという気持が大きかったからだと思う。
しかし、夫は私を見ていなかったように思う。
いつも娘ばかり見ていた。
その原因が私自身にあるということに気づかず、ただ夫を責めていた私。
でも、今振り返ってみて私に大きな原因があったように思える。
私が一人の女としても魅力に欠けていたのではないかと思うのだ。
外見はいくら着飾っても内面を磨かなければどうしようもない。
女として愛されたいと望むなら、夫に愛されるよな女にならないといけないと気づいた。
娘も後数年したら私達の元を離れる。
そして残されるのは夫と私の二人なのだ。
その時になって慌てても遅い気がする。
もっと夫婦の絆を確かなものにしたい。
最近ちょっとしたことがあってから、私は夫と仲良くなってきている。
ちょっとしたことは偶然訪れたことだが、考えてみると神様が私にお与えになったことのように思える。
この偶然の出来事を大切にしたいと思う。
そして私の望む夫婦の姿に近づければどんなに嬉しいことだろう。
女として夫に愛されるようになりたいと思う。
今の私の心を色にすると何色だろう?
黒でもない、でも暗い色であることは確かだ。
ブルーな気持なんて言葉があるけれど、ブルーよりはグレーにちかい深いブルーのような気がする。
あれほど人の言葉に左右されないようにしようと思いながらも、 やはり私の周りの人の言葉で一喜一憂している私が居る。
情けないし、何だか馬鹿らしいとは思うけれど、気持と頭は分離されているような気がするのだ。
何でだろう?
私の心は私のものなのに。
誰のものでもないのだから、私以外の人の言葉や行動に私が振り回されることはないのだ。
だから、もっと自由に心を遊ばせたいと思う。
心は白紙、
心は無限、
心は自由
これこそ自分自身の人生を歩ける基本だと思う。
心は私が決めるもの。
色も私が塗るものだ。
白にするか黒にするか
また明るい色に塗り上げるか?
皆
私は決めるもの。
無理はしたくない。
自然に任せて生きていこう。
夜中に書いたはじめのつぶやきの色が今は少しだけ明るくなっている。
グレーに近い黒からほんのちょっとだけ明るくベージュ色になった気分。
私は元気。
私は大丈夫。
そう、
私の心は黄色に近くなっているのかもしれない。
今日は2ヶ月に一度の日赤の外来診察の日だった。
私は胃腸センター、母は同じく胃腸センターと外科の受診だった。
母と一緒に行動することが多い私はこの頃の母の体力と脳の衰えに気づいている。
一昨日ヘルペスになったかもしれないと言った母の言葉に、ドキッとした。
母は今まで2回ヘルペスを病んでいる。
体の表面に出なくなってからの神経の痛みがひどくて、毎日日赤の麻酔科に通院したことがある。
原因は過労による免疫力の低下だそうだ。
娘のピアノのコンクールの見学に来てくれたとき、冷房の効き過ぎた部屋に長く居たために出たのが始まりだった。
そしてちょっと無理をしたり、冷えると体調を崩してヘルペスウイルスが勝ってしまうようになった。
今日先生に言われて皮膚科を受診したが幸運なことに今回の母の赤いプツプツがヘルペスによるものではなかった。
良かった!
本当に良かった!!
杖をつき歩く母の姿に年を感じる。
年齢にしては頭もしっかりしているし、何でも一人で出来ているから私は安心していた。
でも、時々不安になるときがある。
確かにこの年で物忘れも起き、ボケではないけれど、何かとんちんかんなことをするのは当たり前だと思う。
ちょとしたことで、頭の老化を感じる。
こうして母と一緒に出かけて行けるのはいつまでだろう?
考えると悲しいけれど、確実に母と私の別離の時は近づいているのだ。
考えたくない。
母は私の側にずっと居て欲しい。
この年になっても私は母を必要としている。
人間は誰でも誰かに必要とされていると感じることが嬉しいものだと思う。
どんな状況の中でも、誰かに必要とされていることがその人の生きがいに変わる。
そしてこれこそが人として生きていくことの一番重要なことではないかと思うのだ。
私が母を必要としているように、私も夫や娘に必要な人間だと思われているのだろうか?
家族以外でも私の存在は必要な存在なのだろうか?
これは私が幼い頃からずっと心で思い続けている疑問でもある。
私は私を必要としてくれる人を大事にしたい!
たった一言の言葉が誰かの心を左右するということがある。
だから、私は言葉には魂があるように思う。
特にこのネットの世界では、相手の顔も分からず、たとえ写真で知っていても、相手を目の前にして話しているのではないし、書く文章の中での理解だから、誤解が生まれることが多い。
本当に相手の気持を分からないまま喧嘩して「さようなら」することだってある。
私もこの2年足らずの間にそんなことが何回もあった。
もう二度と経験したくはないと思うのに、また同じことを繰り返している私が居る。
嫌になっていた。
でも、最近私自身の考え方を変えてから少し楽になってきていた。
もう相手の言ったことで心が悲しくなったり、落ち込むことがなくなるようになりつつあった。
この「なりつつあった」という所が曲者なのだ。
自分の心さえしっかり持っていればどんなことを言われても、またどんな状況に置かれても、私は平気だと思っていたのだ。
でも、一足飛びに私自身が変わるわけではなかったのだ。
やはり、人の言った言葉で悲しくなりそうになる。
相手は何気なく言った言葉で、勿論悪意は無いに違いない。
否、そう思いたい。
悪意があると思うだけで私の心が辛くなるから。
確かに言われた直後は悲しかった。
色々と憶測してみた。
でも、そんなことをしていたって仕方がない。
相手の心は私には分からない。
いくら親子でも、夫婦でも兄弟でもそれは分からないことだ。
だから他人の言った言葉の本当の意味なんて私に分かるはずはないのだ。
他人の言った言葉で動揺するのはやめよう。
私は私なんだから。
そう思えるようになっただけ前の私に比べると雲泥の差だ。
さあ、雨も上がった。
晴れてきそう。
私の心も晴れ晴れしている。
午後からはピアノでも弾こう!
心が元気だと良いと思っていた。
いくら、体が病気でも心さえ元気で居れば大丈夫だと思っていた。 でも、 でも、 この2週間、私の心は揺れていた。
風邪をひいた。
その風邪によって、体は不調だった。
でも、心は元気で居たいと思っていたから、「心は元気!」だと言い聞かせていた。
でも、熱が出てそれでも寝込まずに頑張って、城川へ母たちを連れて行ったり、娘の行きたいところへ連れて行った。
そして、心が元気なら風邪も治ると信じていた。
でも日曜日に遂にダウンした。
何もする気がしなかった。
入院したいとさえ思った。
でも寝るわけにもいかず、毎日主婦の仕事をこなし続けた。
体は悲鳴を上げていたのかもしれない。
私自身で気づいていたけれど、無理に元気でいようと思っていた。
そして、今日私の心臓の病院へ行って、先生に話した。
話すことで、それまで無理に元気さを装っていた私が本当の私に戻ったのかもしれない。
風邪の治る時期になっていたのかもしれないが、病院から帰りながら自分の体が元に戻って行っている気がしてきたのだ。
そして不思議なことに体が元気になろうとすると、またこうして自分の世界が欲しくなった。
HPは閉じた手前、皆には内緒の私の世界だ。
私の自由な心を書いていきたい。
スカーレット
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