わわわんわん



雑感:村中で一番モボだといわれて

2003年02月22日(土)

村中で一番のモボは、生まれた川から出ていかなかったヤマメ説というのがある。

オリジナルは上田享矢と山田玲司共著の(名前の順番は逆だったか)名著?B-バージン番外編。マンガ『B-バージン』は連載終了後に上田氏の占星学サイトではじめて知って全巻揃えてしまった。たぶんこの紹介サイトがなければ全然読もうと思わなかっただろう。正直、絵が好みではなかったから。好き嫌いはいけませんね。

本題はネット苛めと関連サイト閉鎖という「事件」。これ、事件なのかどうなのかはいまのところよくわからないので括弧付きで。

小学校、中学校のころの人気者が大人になると町内の世話役とかになっていたりする。ひとたび町内の祭りだなんてときには世話役さんは上座に座ってたりするし、本人もこの場を仕切ってるのは自分だととっても自負しているだろう。

町内の祭りのときはそれでいいと思う。

インターネットはご町内のお祭りでは、たぶんないんだろう。例えば地元を離れたり、町内会以外の所属先(おおむね勤務先)のほうが重要だと感じている人にとっては町内会で尊重される人も中学の同級生だったことしか意識することが少ない。つまり、これがさらに拡大されて所属先をとりはらい、バックグラウンドなしで対峙しあうことになるのがインターネットなのではないか。

これはとりはらいましょう、と提言しようとしているのではない。好むと好まざるとにかかわらず丸裸で直接対峙する以外、どうしようもないのがインターネットなのではないかと考えているということである。それが自由というものなのではないだろうか。

にもかかわらず、一連の「事件」ではせっかくの自由を手放そうとしているように思えてならない。所属先を作り、特定サイトを運営する私としてアイデンティファイしようとする。だとしたら何のために川を下ったのか?

村中で一番のモボも、広い海に出てゆけばたくさんのモボのなかの一人でしかないかもしれない。それはみじめで惨いことかもしれないが、装飾の重さで息絶えることもない。

関係者の運営していたサイトが「閉鎖に追い込まれた」という表現を多く見かけたが、書きたい人はそれでも書き続けるだろう。それだけのことであって、なんら同情したり非難することでもないと思う。全ての人がヤマメである必要はなく、全ての人がサクラマスである必要もないのだから。

望んでヤマメになれるわけでもない。どちらともつかず、海にもつけず死んでゆく魚の数を思えば、それはどんなに幸運なことであろうか。


ありあまる力を

2003年02月10日(月)

テレビを見ないといいつつ、テレビネタが続く。

朝10時ごろに放送される「答えてちょーだい」。この番組で続けて取り扱われる話題に「二重生活」というのがある。二重生活の多くは、結婚している女性が他にも恋人を持ち二つの「家庭」を維持しているというものだ。

毎回(シリーズ化されているのか、たびたび数人の例が放送される)、いかにしてその二重家庭を維持しているのか彼女達の生活スケジュールが紹介されるが、驚くほどタフなのだ。毎朝、毎晩、二つの家庭分の家事をこなしているだけでも驚くべき作業量である。食事の支度、そうじ、洗濯、加えてパートにもでかけていたりする。

よくそんな毎日が続くものだと感心してしまうが、家庭電化製品が普及する以前の家事労働量はこんな程度ではなかっただろうことを思うと、こんな生活を維持することができるヒトには核家族一家庭分では結構ものたりないのかもしれない。

専業主婦、という言葉には三食昼寝付きなどとのんきな響きもあるが、炊飯器があり洗濯機があり、繕いモノなど遠い昔となれば「専業」してしまうと一人で二つ三つ家庭を維持していけたりしてしまうのかもしれない。おそらくは「主婦」として非常に有能な人たちなんだろう。それがこうしてキワモノ扱いとしての評価しか得られないとしたら、「専業主婦」になるのはなかなかリスキーな選択だとその予備軍は考えるだろうな。有能さを評価される場がないわけだから。

その手腕を生かす「二重生活」という手段の是非を問われると答えようがないんだが。


さらばテレビ、と言えるのか

2003年02月05日(水)

自宅にはテレビがない。

正確に言えばテレビチューナの機能する単体のテレビジョンがない。パソコン用のモニタは無駄にころがっている。

10年ほど前に購入したテレビをそのまま使いつづけていたがパソコンが増えて置き場所がなくなってしまい処分してしまった。捨てたわけではなくて使ってもらえるところへ送ったのである。

手持ち無沙汰でなにも音源がないのも退屈だったのでこれまた10年ほど前の液晶小型テレビを出していたがとうとう液晶が映らなくなってしまった。自宅の最も古いパソコンにはテレビチューナーが付いているから、どうしても見たければテレビ番組を見ることはできるのだがその古い一体型Macのモニタが劣化することを考えると無理してテレビを見ようとは思えない。

つまり感情的な順位としてテレビが最下位に位置している。ときどきテレビの音声だけをラジカセから聞くことはあっても、特定の番組を見たいということがなくなってきている。たまたま付けっぱなしにしていたから見る、だけになってしまった。

コロンビア号の事故も、第一報を目にしたのはインターネットからだった。ほぼリアルタイムでニュースサイトのトップに並ぶ記事を見ていた。

しかし、なにか現実感に乏しいのである。時事刻々、トップニュースは書きかえられ、事態の変化を告げてはいる。通信不能状態から事故が確定的となり、残骸が飛散していると伝える文字列を「見」ながら、何かが決定的に現実的ではないことに気がついた。

それは人間の「声」だ。アナウンサーや報道官、または目撃者の、現実に直面している人間の声が欠けている。ネット上の文字列は、他の情報と同等に非現実的で、そこでなにかが起きていることへの感情が「聴」こえない。

新聞や雑誌の記事は紙面構成や見だし文字の形から緊迫感を感じる余地があったのだ。しかし美しく整えられたウエッブサイトの表示は情報が備える感情を排除してしまうのかもしれない。むしろ受けて側の感受性の問題で、微妙な文字列の隙間に埋めこまれている「それ」は前ウエッブ世代には感じ取れないものなのかもしれない。しかし、見る刺激だけの世界には限界があるのではないかと思う。

私がテレビから受けていたものが視覚情報の洪水ではなく、聴覚情報の洪水だったのだとすればそれは質的に頓着されていなかったがゆえに有用だった。ラジオと比較して音源が純化されておらず雑音も含めて垂れ流されるがゆえのリアリティを得ていたのだろう。

もう見ることはないテレビ。けれど聴くには足りないインターネット。些細な欠けを埋める新たな機械を部屋の中に運び込むとしたら私の座る余地はない。

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