母のタイムスリップ日記
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2004年08月31日(火) あはは…。


 昨夜 台風の進路を気象庁のホームページでチェックしてから布団に入った。と言うのもテレビも見ない生活で昨夜は ラジオすら付けてなくて…。
何となく気になってチェックしたのだった。
「明朝 秋田沖。。。かぁ〜」と。

ところが 時折強く吹く突風に家が揺れる。。。
ウトウトとするとグラグラ。。。
故郷の家は平屋だったし…結婚してからは団地やマンション暮らしで…。
家が揺れる等という経験は 地震以外ない。

3時頃に「今 台風は何処かな?」とラジオを付けた。
「能登半島輪島を通過中」 
「秋田まではもう直ぐだし…風で家屋が壊れたとうニュースもないし…。
大丈夫だよ」と言い聞かせ呪文のように唱えていたら眠っていた。
がまたしても「グラグラ」時計を見ると4時だった。
また ラジオを入れた。
「佐渡島沖を通過中」
「一時間でまだ佐渡かぁ〜。それにしても蒸すなぁ〜」と冷房を入れた。
そこからは 深く寝入ったようで…時折揺れを感じて目覚めたけれど…。
「チリリリリ」と言う目覚ましで目覚めたのが7時少し前だった。

ま いい年をして台風で眠れなかったなんて…。
こんな経験は 今までないのになぁ〜。

起きたらヘロヘロだった。
門前に出てみれば…木の葉がいっぱい…。
風はまだ強く木の葉はまだ飛んでくるだろうけれど 片付けるしかない。

洗濯物だって この所の悪天候で乾ききってなくて…。もう干す場所もないくらいだ。
風が強くては 物干しにも干せないし…。

母の所に行きながらコインランドリーに寄って 乾かした。
それから 母と出かけた。
少し遠くまで出かけた。母は、話が絡まなくて…おかしな事を言っていた。
が 睡眠不足の身で 殆ど記憶に残っていない。
大分歩いたのだけれど…母の様子まで注意が向かなかった。
帰路「足が痛い」と膝の後ろを擦っていた。
いやぁ〜そんなになるまでは歩いてないなぁ〜。
母に対して気が向いてなかったので…母もつまらなかったかな?
「ごめんなさい」と謝るしかない。


2004年08月30日(月) 心からの笑み


 台風の風に吹き飛ばされるかのように 家人の帰宅が早かった。
我が家の早いは 9:30〜10:00なのだけれど…。
家人の帰宅は微妙にずれてしまう。
だから 夕食は相変わらずの個食となる。
それでも 何となくダイニングに溜まっている時間帯で みんなの顔がテーブルに揃う。

「頭が痛い」という娘。「肩が凝る」という夫。私「…」

心配ではあるけれど…。特に顔色も悪くなく食欲も普通(娘は食欲は少し落ちていてもおいしいと食べていたので…)なので こちらも必要以上には構わない。…義務的ですね(苦笑)…

片付けも微妙にずれて…これはいつもの事だけれど…愚痴になりそうなのでこの辺で 辞めておきましょう(笑)

利用者さん訪問。
利用者さんは この所 いろいろ心配事があった。
それでも「自分は 今 元気だし…。余計な心配はしない」と前向き発言なさっていらした。でも お顔が晴れ晴れとしていなかった。

今日訪問した時「あのね…」とお話を始めた時「何かあったかな?」と思った。けれどそれは杞憂だった。
土日で 久々にご家族が揃って訪問なされたようで これまでの経過がきちんと報告されたようだった。
「不安な 途中経過までは話を聞いていて…どうしたかなと心配だったけれど 聞く事も出来なくて…ようやくはっきりとわかって 安心した」と言われた。「親はね 子供がどんなに大きくなっても心配してしまうのよねぇ〜」と笑っておられた。
ほっとなさった その笑顔に曇りがなくて…安心できた。

自分の事を振り返っても やっぱり親は親で子供の心配するし…子は子で 親の事を心配してしまう。
お互いが思いやっているのだけれど これが案外行き違ったりしていて…。
父が「これが看取りの入院だな…」という時の事。
母は、父が家に戻れると信じて毎日看護に通っていた。
あの時の母は、痴呆と病の初期の頃の事だ。
父の病状説明が医師からあった時「母に余計な心配をさせたら 感情が不安定になってしまうから」と母には説明のある事を知らせなかった。
説明のあった事を うっかり口を滑らせた弟が母からものすごい勢いで責められた。「何事か」と思われるほどに興奮している母を 誰も居ない待合室に連れて行きゆっくりと語りかけて落ち着いてもらった時の事は 苦い思い出として残っている。

今の母に あれほどのこだわりはもうない。
おそらく あったとしても言葉に表す事が困難になってきている。
だからこそ 余計にちゃんと話さなければならない…と思う一方で 不安材料になる事は伝えなくてもいいかぁ〜と思う自分がいる。



2004年08月29日(日) 白熱した話題


 先日の介護者ネットワークで白熱した話題があった。
マイケアプランの島村さんがお話した後で…。
「ケアマネさんの仕事 ケアプランの締めの時かなり忙しいって聞くけれど…そうだったら セルフのプランなんて大変でしょ…」と言う話から始まったのだが…。
ケアマネさんはケアプランを立てる事もあるけれど「個々のプランが適切か」と言うチェックをするのも仕事だよねという話が出た。
それに 介護者は「痴呆がどう進んで行くか 今 どのあたりか…」というい話も聞きたいという事だった。
この部分については通院時に医師にも聞けると思うが…沢山の症例を見ているケアマネさんの方が 実際の所良く見えているだろう。
でもケアマネさん 現実には それが出来ないほど忙しいらしい。。。

介護家族の会に加わっていれば 家族の話を聞いている内に見えてくる事も多いのだが…。
痴呆の介護が始まったばかりだとお先真っ暗状態となりやすいのも事実である。

もうひとつの話題は 徘徊である。
ある参加者が 夕暮れ時 ご近所の高齢者が徘徊していたと言う。
この方はご近所でも有名で 直接知らなくても何処の誰かは直ぐ判る方だったらしい。危ないので家までお連れしたら 門前で「私 この家 嫌なんです」と言われたそうで…。
ご家族が戻っている様子もなくて さりとて放置も出来なくて…自分の家族のいるところまで連れて行ったそうだ。
が家族は
「なんて事を…。これじゃ誘拐犯になってしまうよ」と怒られたそうだ。
「じゃ、こんな時どうすればいいのかぁ〜」と質問を投げかけたのだった。

徘徊された家族は 普通交番に連絡するのが通例である。
知り合いの方は「徘徊がわかると直ぐ交番に電話して 見つかるのは大体2.3時間後くらい」と言っていた。
今は 徘徊探知機と言う物もあり警備会社との連携で探し出せる。
これは 自治体で補助してくれている所がある。
でも これだってなんかの弾みで外れてしまう事だってある。

だから 徘徊者を見かけたら交番に連絡と言うのが通例の筈。

私も徘徊者を見かけたことがあり たまたま近くに支援センターがあったのでそちらで保護して戴いた。

参加者の中には ご家族の了解を得て置けばよいのではないか…という意見もでた。

徘徊者をどうして上げるのか良いか…。
参加していた医師の言葉が印象的だった。
「自分は田舎で育ったから 手を引いて連れて行き暫く預かるというのがいいと思う」
基本的には わたしもそれがいいと思う。
けれど 痴呆に理解のない社会であり また面倒な事に関らない…という風潮もあることも否めない。

地域力が着けば…自由な徘徊もいいのかも知れない。

今日の朝日の社説でも触れていたが…。
「痴呆者に寄り添うような介護をすれば 徘徊や妄想等がなくなる…という事が判ってきた」とあった。
でも 介護をするものが付きっ切りでの介護と言うのもかなりハードであり
そのストレスは大変なもので…介護者が病ととなってしまう事も多い。
問題行動が多いから 介護を放棄していると言い切りをするのは危険だろうと思う。一概に介護放棄と言い切れない部分もあるからだ。

やはり先に書いたように 地域での見守り…これが大切と思う。

実は母を家に向かえた時 近くの交番にお話に出かけた。
「今は 徘徊はありませんが…。痴呆ですので先の事は読めません。顔だけ覚えていてください。若し1人で歩いていたら保護してください」とお願いしておいた。ふるさとでは幾度となく徘徊し交番に保護された事もあると弟たちは言っていたから 予防のために申し出たのだった。
でも 母から徘徊された事は 一度もない。

準備があれば ゆとりも出るかも知れない。。。

高齢化社会における痴呆ケア」と題して京都で国際アルツハイマー病の国際会議が10月15日から開かれる。

ネットワークの仲間「若年痴呆の彩星の会」にも痴呆者自身が会に入って 痴呆とはどういう事かを語り始めているという。
「残念な事に 若年痴呆の場合進行が早くて…」と彩星の会の干場さんが話していらした。

だんだんに痴呆症になった人がわかり始めてきた。
もっと 痴呆者の人権を尊重した社会になるように…と祈らずに居られない。


2004年08月28日(土) 文化の違い?

 金曜 仕事が撥ねてから其の儘 大阪に遊びに出かけた娘。
その娘が 大阪から泣きの電話を入れてきた。
大阪の梅田のお茶屋さんに寄ったら「もう 閉店ですから」と言われてお土産にしようと思ったお茶が買えなかったらしい。
お店の閉店は 10:30で オーダーストップが10:00だそうだ。
前回は10:30分だったので それは仕方なし納得したが…。
今回は 10時ギリギリに滑り込んだらしい。
「なんでやねん」と怒り半分泣き半分と言った所だった。

こちらでは 閉店を過ぎようとも店の中に居る限りは殆ど売ってもらえる。
「すみませんね。ギリギリで…」と詫びると…勿論「いえいえ 有難うございます」と言ってもらえる。

こちらに生活していると これが当たり前だけれど…。西の方の文化は少し違うのだろう。
西の人は値切り上手と言うけれど…こういう時 「お客やん 売って頂戴」と切り込んだら失礼になるのだろうか?

今日は今日で 目いっぱいの用で お店に寄る事は不可能で…。
きっと 予定のお土産は買えないまま 帰ってくるのだろう。

今日は午前中利用者さん訪問。
お若いヘルパーさんの仕事振りをお話くださった。
お掃除の仕方の違いにちょっとがっくりなさって入らした。
「私みたいにカビのでかかった者と比較されると可哀想です。おそらくこれから学んで成長なさると思いますので…」とカバー。

ご主人に草取りを頼んだら…大切な草花まで抜かれてしまったと嘆かれていらした。「あ〜そういえば…二人静かが草と一緒に纏めてあったなぁ〜」
何処も同じ。。。と思わず苦笑してしまった。
(電話が入って一時中断)

午後 母の所に出向く。
昨日と今日の午前中 母は「○○(私の名)は未だ来ないの?さっきまで居たのに…」とか「○△ちゃん(従妹の名)は今日は来ないの?」と随分聞いたらしい。今日は 部屋に篭って窓から「○△ちゃ〜ん」と呼んで涙を零していたという事だった。
確かに母の頭を撫でた時母の目にきらりと光る物が見えた。
昨日は普通以上の排便が有ったと聞いたし今日も少し排便が見られて…お腹を擦っているので 腹痛があって 誰かそばに居て欲しかったのだろうなぁ〜と想像できた。
ちゃんと話す事が出来れば…と思うのだが…。
こればかりは どうしようもない。
しかし この所 私の名や従妹の名を口にする事は殆どなくなっていたので状態から言えば 比較的よいと言っていいのだろう。

連れ立って外に出た。
台風の影響か小雨が降っていたけれど…ここは相合傘で。
家電のディスカウントショップの前で「ここは本屋さんか?」と聞いてきた。「ここはね 洗濯機やテレビ ラジオやアイロン等を売っている電気屋さん。○ちゃん この中で何が好き?」と聞いてみた。
「テレビかな?」
「へぇ〜。テレビを観るの好きなんだ?テレビで面白いのは何?」
「…動くの…」
「?。コマーシャルかな?」
「コマーシャル?じゃないなぁ〜」…コマーシャルを理解できているんだ…
「う〜ん。じゃ ドラマ?」
「うん ドラマいいねぇ〜」…ほう〜ドラマも理解できている…
具体的なドラマ名など言える筈もないのだけれど…。

歩道の植え込みに目を向けて「皐月 頑張って…」と応援する。
突然に皐月という単語が出て 頑張れと応援なんて。。。
タンポポだって母の好きな紫式部だって固有名詞は出なくなっているのになぁ〜。

途中ファミレスに入り フリードリンクとパパイヤを注文。
フリードリンクは自分で準備せねばならないので「温かい飲み物?冷たいの?」と聞くと「いつもの…」と言う返事に またまた「ぎょっ」
どうやら 良く来る店であり 飲み物を私が運んでくる事も覚えているのだ。言葉で話せないけれど…単語と動きでそう感じた。

散歩の途中で「ね 稲が頭を垂れているよねぇ〜」と言うと 垂れサクラの枝を見て「そうだねぇ〜。こんにちは してるねぇ〜」と言っているのに。

今日もこんな調子で 母との時間が過ぎた。


2004年08月27日(金) 小難しそうな話かも知れないけれど…。


相変わらず パタパタとしている日々。
今までの 介護の知り合い総動員状態で知恵を貰っている。
情報集めも。。。

昨日は1人の議員さんが 一般質問で介護保険と絡めて質問してくださると質問の文書を届けてくださった。
こちらも 中味をチェックしてお返事しせねばならない。
「どうして そんなに知り合いが居るの?」と仲間に驚かれた。
自分でも判らない。
でも 「困ったぁ〜」とお話しすると「お手伝いするよ」と言ってくださる。おそらく 介護を取り巻く環境の不備を認識しておられるからだろうと思う。

実は議員さんも知らない現実を具体的に知っている事もある。
おそらく 介護状況を具体的に知っているのはかなりの強みなのだと気が付いた。いつも 不備ばかりに「う〜ん」と唸るばかりだったけれど…。
何処に何をどう訴えるかなどは 介護を通じて学べて居たのだなと再認識。

個人的な事でなく 住民の生活に関る事なので…話も持って行きやすい。

心配もある。
踏ん張っても成功するとは限らないという事だ。
みんな「やるだけの事はやってみたい」と言っていた。

今日は もうとうに退職なさり他所お住まいの方にに協力を要請した。
快く引き受けてくださった。ありがたい。

活動前に事業所に経過報告。
利用者さん訪問。
家に戻って また電話連絡。
それから 介護者ネットワークの会へ行く。

ここで 他の地域の情報を集めた。
また 介護保険の行政の責任について聞いてみた。
介護保険利用に当たっての説明義務は市町村にあると言う。
例えば ケアマネ・ヘルパーを替えて良い等という事の説明義務は市町村の役目だという事だった。
私の知っている利用者さんは 介護保険申請は役所に出向かねばならないと思っていた。近くの支援センター利用を勧めたら「えっ できるの?」と驚いていた。
でもこれは 本来市町村が追う責任でみんなに判るようにしなければならないと介護保険が始まった時から決まってたと言う。

こういう事を 市町村からちゃんと得ている人は どれくらい居るだろう?
支援センターが代行している業務も市町村が委託している業務のひとつだと言う。だから 市町村は支援センターを支える役目も有るという。
私には そういう細かい所はなかなか理解で来ていない。

話は飛んでしまうが…。
ネットワークの会ではマイケアプランというケアプラン自主作成の会を主催しておられる島村さんの発表があった。
参加者から「何故自主作成か?」と問われた。
私も最初は そう感じていた。
でも 介護保険って 自分で動くといろいろ見えて来る事がある。
受身での介保利用だと わかり難い事が多い。
保険の無駄やショートのトラブル等は 自己作成者には殆どないとも聞いている。
利用する側が 介護保険の仕組みを知らないと保険の無駄遣いのチェックすら出来ない。
単純な同一事業所利用の方なら…是非ともセルフでプランを立てる事をお勧めしたい。
細かい話は 今日はやめておくけれど…。

今日は 頭の中が飽和状態である。





2004年08月26日(木) 16段×5の階段。。。!


 母は昔から頑張り屋さんだったのだろうか?
従妹の話では「お手本にしなさいと言われるほどの頑張り屋さんだった」と言うのだが…。痴呆症になった母へのせめてもの褒め言葉…と受け止めていたのだが…。
私の知っている母は 体調が悪いと直ぐヘナヘナとなって寝付いてしまう母だったから。

リハ終了後 母を連れて約束の場所に向かった。
この時も「いつもより歩くピッチが早いな」と感じていた。
私の読んだ時間では5分くらい遅刻だろうと思っていたのに…約束の10分前に到着できたのだった。

昼食をしながら3時間弱の時間 私の隣に座してニコニコしていた。
以前だったら「何で ここに居なきゃ行けないの?」と言ったりが多くて母を会話の仲間に加えながら話されければならなかったのだ。

会を終えて仲間は陳情書を議会に運んでくれた。
私は 母と連れ立ってお散歩。
この場所には 何回も来ている。けれど 2年ぶりくらいだろうかな?
16段の階段が5個連続してある大きな長い階段である。
建物と建物の間にある階段である。
そう おそらく5階分の階段だと思う。
母は「来た事がある」と言っていた。
それ位印象深い場所でもある。
「上る?」と聞くと「うん」と言う。
「大丈夫?」と聞くと「駄目だったら 降りればいい」と笑うのだった。
恐る恐る上り始めたが 一休みもしないで一気に上ってしまった。

上には 人工池があり オニヤンマ シオカラトンボ アキアカネ 等が沢山飛んでいた。その光景に二人でしばし見入った。
腰を下ろすことなく 次の場所へ。

そこはミニ植物園みたいな所だ。
庭を一巡りして 建物の中へ。
ここは 母も大好きで 在宅時の冬のお散歩コースになっていた。
温室のような感じで冬でもお花を楽しめたから。。。
室内では植物の育て方をアドバイスしてくれるので ちょこっと質問。
その間も母はニコニコとしていた。

また外に出て歩き出した。
坂道を使って先の階段の下に戻ったのだ。
冗談に「上る?」と聞いてみると「うん」と言う。
歩く意思は充分あった。でも これは避けるべきと判断した。
でも歩き足りない様子なので別の阪を使って上に行き少し休憩。

大きな公園を一回りした事になる。
今度は階段の上に着いた。
「降りる?」と聞くと「うん」と言うので ゆっくり降りた。

今度は一休みしておやつを食べて 施設に戻った。
施設で職員に散歩の様子をお話したら「え〜っ あそこ 一回りして階段も上って降りたの?私 とても出来ない。。。」と言っていた。

実はこぼれ話で
施設に着いた時「どうしてこんなに疲れたんだろう」という母の独り言を聞いた。頑張ってチャレンジした事が記憶に残ってないのである。

会に付随するお話や 仲間が母を知っていた話等があるが また 別の機会に。。。






2004年08月25日(水) 一日パソコン


 朝からパソコンに向かっていた。
机の上には 4種類の書類が散らかる。
4つの事を同時進行である。
同じ「介護」の事だけれど全部違うので…一緒になるとお手上げとなる。
頭が固くなっていて 良い表現が浮かばない。。。

「特養を良くする市民の会」の事務局と連絡が取れて 講演会に向けて少し動き出して来た。

地域の議員さんから これからの事のアドバイスを受けた。
陳情書も書き上げた。陳情書の書き方なんて知らないから…。
そこの所もアドバイスを受けた。
今時の議会は 問題が絡み合わない単独の陳情の方がすんなり通るという事だった。訴えるインパクトも必要だそうだ。
駄文書きなら 得意だけれど…。いやはや 参りました。

この陳情書を出して初めて議会で取り上げられる。
閉め日があさっての午後12:00だそうだ。

その前に みんなの意思確認だ。
みんな 私よりもっと熱い。

「何でこんな事受け持っているんだろう。。。」と感じている。

あ〜目が限界って言っている。
今日は ここまで。

明日は リハの日。
それから 母を連れてみんなとの話し合いに向かう事になるだろう。
みんな ヘルパーさんだから 安心かな?


2004年08月24日(火) ちゃんと話せるんだけれどなぁ〜


 何がどう変化しているのか…。
医学的には 脳のつまりや収縮があって 場所によっていろいろ状況が違ってくるという説明があるだろう。
でも あくまでも 情的な立場に立ってみる私は 母の変化から いろいろ読み取るしかない。
痴呆の介護は 医学よりも対処。。。かな?

今日の母は、割りに落ち着いていた。
体調に問題がないというか 痛い場所が酷くないという事だろう。

母がソファーに座ってお料理の本を声を出して読んでいた。
料理の本に興味を示したので 昨年の本を母に持っていて置いたのだ。
今日 読んでいたのは 家から運んだものでなく施設で準備してくれた本だった。母の読む声に耳を傾けていると「ハクシンの魚…」と。「?」と本を見ると「白身の魚…」だった。
声を出して読んでいるけれど…何処まで内容を理解できているかな?でも「おいしそうだなぁ〜」と感嘆の声を上げるのだからなぁ〜。

施設を出る時「何処か行きたい所ある?」と聞いてみた。
母は、首を傾げながら考えていたが…「トークと言う所に行きたい」と言う。そして窓越しに見える景色に「ああの赤い色。。。トークと言う所から来たんだね」と言う。今日の赤いは 車の色でなくてテールランプだった。

バスに乗っているといつものように看板を読み始めた。
「家さがし」の家が見えなくて「あれは 何を探しているの?」と聞いて来た。見ると直ぐ横に大きなトラックが止まって直ぐ見えなくなってしまった。「早くあっち行ってよぉ〜」と言いながら「出来ないよね」と笑っていた。トラックが動き出した時には 母の興味は 別の所に移ってしまっていた。こんな風に興味の対象はクルクルと変化するのが早い。

家に着いて「ここはピアノがある家?」と聞く。
家にはピアノはない。どんな記憶を辿っているんだろう。。。

昼食を摂った。
ぶどうも出したら…。ぶどうの皮をちゃんと区別できた。それはいいのだけれど…お浸しを口にいれて直ぐに口から出してぶどうの皮と同じところに置いた。見ているとぶどうの皮を食べられるものの上に置いたり…だ。
どうやら お浸しの繊維が邪魔と言うよりも ぶどうの皮を出すと言う動作が続いているようである。
「こりゃ こりゃ。。。」と笑いながら「はっぱでしょ」「皮でしょ」「「おイモでしょ」とお皿を区別して見せた。
すると 母も笑いながら「アサガオでしょ」と言う。「?。。。」
通じてなかった!
「ま いいかぁ〜。お母さんの勝ちだよ」
食べる片端から皮を引き取り はっぱを引き取り。。。忙しかった。
でも 食欲は充分あった。おかわりと言う具合ではなかったけれど…。

紫蘇ジュースのコップを倒した。
一度目は 倒しそうになってストップを自分でかけてセーフ。2度目はやってしまった。注意力が不足かな?
コップが壊れた訳でなし…「ま いいかぁ〜」

入浴前 トイレに誘導。他に誰も居ないので 下着を下げたついでに脱いでもらった。すると母は「あれっ!ここに何かあったよね…」と膝を擦った。
「ごめん。これからお風呂よ。誰も居ないからいい?ズボン 片付けたの」と言うと「うん」と頷いた。
「ズボン」と言う言葉が直ぐに出ない。。。
数秒前に脱いだものが 思い出せないのか?
「う〜ん。。。ま いいか。前と違う。何か変と思えるだけでも良しとしなくちゃ。。。」

お風呂は順調。
上がる時「面倒かけてねぇ〜」と言った。
「○○ちゃんの事 大好きだから…何とも感じないよ。メンコイもの…」と言うと「こんなに判らない者でもメンコイの?」と。
「そう メンコイ メンコイ」と言うと「有難いねぇ〜」と。

風呂上りに 母のズボンの裾の綻びを縫ってもらった。
今日は黒いズボンで テロテロしている布なので難しいかな?と思ったけれど…。今日の縫い方は 完璧。
ただ 縫いどまりが出来なくて…2度縫いしていた。
縫い物は 合格。

家から施設に向かう時「ここは何処?」と聞いてみたが ちっとも判らなかったし言えなかった。
が施設に着いた時「お帰りなさい。何処にお出かけでしたか?」と職員に聞かれて始めはちんぷんかんぷんの答えだったが…「今 何処から来たの?」と質問を変えたら「この人の家から」と答えた。

母の調子は 落ち着いていても こんな感じ。
毅然とした母の面影はないけれど…楽でもないけれど でも でも メンコイです。


2004年08月23日(月) タイムスリップできるなら…


 利用者さん訪問。
今日は先日買い損ねたトースターを購入。
寸法を測って買いに行く筈だった。

先日 買いに出かけた時「寸法が…」と言う拘りがあった利用者さん。
家に戻った時「オーブンレンジの上に置けば 寸法は心配ないような気がしますが…」と伝えたけれど 場所を動かす事は考えて居られなかった。
が 今日 訪問すると「この間のお話 良く判りました。私鈍くなっているのねぇ〜」と笑われていらした。
思い込んだら動かせないのは 何も利用者さんだけではない。私にだってよくある事なので 別段気にも留めていなかったけれど…。

その上 チラシでも探されたようで「ここのお店(ディスカウントショップ)に行きたい」と言われた。
すごいねぇ〜。83歳だなんて思えないわ…と驚いた。

早速 お出かけ。行きはタクシー利用だった。利用者さん 障害者手帳をお持ちなのでタクシー券利用だ。この町に住まわれて40年と言われるけれどお店の方へは 初めて行くと言われていた。
そこは 母の施設の筋迎えに有る。
品物はパッパッと決まって帰路。
タクシーを呼ぶまでもなくバス停も直ぐだし…とバスで帰宅。
来たバスも ノンステップバスで助かった。

活動を終えて 家に戻り昼食をお腹に詰めて 直ぐ家族の会へ向かった。
7月の会に 忙しくていけなかったので今日は外せない。
会に出向いて いろいろ お話やお願いをした。
と言うのも 有償ボランティアのこれからについて 行政の方向に釘を刺しておきたかったからである。それには支援センターの方からの申し入れも必要と感じたからだ。
実際 役に立ってなかったり 必要ないと思われるなら 無理をするつもりもなかったので 恐る恐る聞いてみた。
「今だって 認定を受けるまでの移行時に必要であり 未来に向けても有形無形に必要だ。なくなったら困る。」と言っていただいた。
その上 「ボランティアの質がいいし利用者さんからの評価も高い」と言っていただいた。別に私が褒められたわけでないけれど…立ち上げ時に踏ん張った方の仕事が報われたようで嬉しくなってしまった。

いろんなお話をしてみて…何故に 今 こんな役目を背負ってしまったのか…と思った。

私は 陰で誰かの役に立てれば…(お節介)と思っても 人の前で自分から言って行くという事は全く考えてなかった。むしろ いつも後ろに後ろに引き下がっていたのに…。
それに介護だって 判らない事だらけで聞きまわっていたのに…。
今 自分の老いて行く先の事まで心配している。。。

戸惑いながら 不安を抱えながらいた自分にタイムスリップして教えてあげたら…もっと楽に介護出来たかも知れない…。
おそらく その話を聞いた自分が「信じられない…」と叫ぶだろう事が容易に想像できる。

今日は 母の所に行かなかった。
今年初の松茸ご飯を炊いた。明日は これを持って母を訪ねよう。
いや 家に連れて来れたらいいなぁ〜。
それには 暑くならない方が良いのだが…。


2004年08月22日(日) 無言の教え


昨日 母と散歩している時 赤い車が止まっているのを見た母が「あれに乗ってきたの?」と聞いてきた。
「あ〜娘のハピスケを思っているんだな」と判った。
「バスに乗ってきたのよ。○○は今朝 九州に遊びに出かけたよ」と言うと「いいなぁ〜」と母が言った。
「行きたい?」と聞いてみた。
「だって お金ないもの…」としょんぼりの母。
「大丈夫よ、心配要らないよ」と言うと 母の顔が綻んだ。

母は 九州と言う場所が離れている事理解できている。仕事している時に母は、九州にも研修に出かけている筈である。私がプランを立ててあげたから間違いない。
そういった記憶があるのかないのか…。でも「旅に出たい」と言う気持ちはあるんだな。

オムツを準備しての旅は…としり込みしてしまっているけれど…。やっぱり何処かに出かけよう。
もう少し涼しくなったら…。

旅行してみても 何処も同じ所に感じるかも知れない。家に来た時だって故郷の自分の家と思ってしまうのだもの…。
記憶に残る事もない。でも 瞬間楽しいと感じられればいいかぁ〜。

9月には GHの入所者Sさんご家族と ぶどう狩りに出かける予定である。
義姉に聞いたらOKだった。
日帰りのコースだけれど…。これが 足慣らしになるかなぁ〜。

散歩の話に戻る。
「あの車に乗るの?」「止まってくれないねぇ〜」としきりに車を気にしている。きっと 足がかなり痛むのだろう。。。腰だって痛いのだろう。。。
母は「足が痛い」とあまり強くいわない。
でも痛みは感じている。足の指先に触れるとかなり痛がる。腰だってキュッと押すと痛がる。浮腫みもかなりのものだ。

先日もリハの時腰の骨潰れていますねぇ〜と。
医師も以前からそう言っている。

療法士さんも医師も「年齢になれば良くある事」と言い 行動制限は受けていない。どちらも動く事が大切だから…現状維持…と言っている。

足の痛みと疲れとを母の言葉と動きで観察し こちらが限界を判断する。
この所 母の歩く頑張りに脱帽すばかりである。
もっとも 景色等に気が向くので気分転換にもなっているようだけれど…。

病の初期の頃 道端に立ち止まってストライキが始まり 梃子でも動かなくて閉口したこと等嘘みたいだ。
「この暑いのに(冬は寒いのに)誰のために無理していると思うの?」と言った調子でかなりヒステリックになる時があった。
母も私の言葉に反発して更にエスカレート。。。
こんな場面が多かったのに…。

何故変わってきたんだろう…と考えてみると。。。
デイの職員の方が「頑張って居られますねぇ〜」と励ましてくださり 知り合いも「偉いですねぇ〜」と繰り返し声をかけてくださったからだろうと思う。それが母の頭のどこかに記憶されているのだろうと思う。
雨の日は傘を差して…。風が吹いても。。。

私が頑張ったから…と心の隅で思った事もあった。
でも これは母の頑張りだろう。
「年を取っても 呆けても 人は死ぬまで生き方を教えると言う役目を背負っているのだから…」と偉そうに説教した時期がある。
母は悲しそうに。。。でも「そうだね」と言った。

私は今 その母に学ばせて貰っている。痴呆の症状も強くなってしまったけれど…頑張りやを見せてくれている。
「あなたは 母のように頑張れるの?」と言うもう1人の自分が後ろから声をかけてくる。自信はない。。でも きっと母を思い出して頑張ろうと今は思っている。
無言の教え…これが一番心に響く。。。







2004年08月21日(土) 夏祭り


 昼過ぎ 母の所に行くとソファーに座って自習生とお話していた。
実習生は「野球お好きですか?」と母に聞いていたが…耳が遠いので「?」だった。挨拶すると「娘さんですか?」と聞かれた。母は、笑っていた。
母の笑う意味がわかるので「そうだっけ?」と聞くと「兄弟みたいなもんだわ」と母は言った。
実習生が「お孫さんですか?」と聞きなおすので「いえいえ 娘ですよ。でも母にとっては 違うのです」と説明。。。

居室に入って 枝豆やら紫蘇ジュースやら ゼリーを食べてもらった。
それから着替えて 散歩に出た。
川べりを歩いていると…植え込みの所の草が道側に伸びてきていた。
それを見て「まぁ〜元気だこと。。。こっちまで遊びにきてぇ〜」と母。
植え込みの皐月を見て「はっぱ いっぱい 大きくなれ」「はっぱ いっぱい 大きくなれ」と声をかけていた。
今日は 観察もできてすごいなぁ〜。
ヒルガオもちゃんと言えたし…。

暑いけれど コンビニに逃げ込むほどでなくて…日傘で間に合った。

ちょこっと買い物して 施設に戻った。
汗をかいたので更に水分補給した。

夕方の水撒きがあるので そろそろ帰ろうと思ったら「今日 地区の夏祭りで…このフロアの人 浴衣で出ますが…いらっしゃいませんか?」と誘われた。家と利用者さん宅と畑とに水撒き。。。夕食の支度もなぁ〜。。。
娘も居ないし夫も帰りが遅いようだし…と水撒きを済ませて 施設に向かった。

着いたのは ぎりぎりの時間だった。
職員も浴衣で…母は ニコニコと機嫌が良かった。屈託のない久々の笑顔だった。笑顔は 母だけでなかった。入所者みんな 零れるような笑顔。。。
いつもなら お部屋に入ってウトウトするか眠ってしまっているのに…。
車椅子の方が 手だけで踊りだした。
折角なので 母を連れ車椅子の方を押して 踊りの輪の中に入った。続いて踊りの好きな方も入られた。いつもなら「足が痛い」と言っているのに…。
昔 盆踊りの度に 同好会の方と一緒に踊っておられた方だ。
輪の中に知り合いがいて…その方のリードで踊っていらした。
「忘れちゃってねぇ〜」と言いながらも 上手に踊っていらした。
休息には 夜店周り…。チョりソーや田楽 葛きり ジュース たこ焼き等みんなで 食べた。いつもは刻み食なのに…こういう時は ちゃんと召し上がれる…。
疲れた様子もなく 普段こちらから話しかけないと言葉を発しないのに…。
自分から話しかけてくる…。

祭りの効力…すごいなぁ〜。
その後ジャズが流れた。地域に住む セミプロのボーカル…。
この時職員が バンドの前まで連れて行った。
そこで 入所者と職員と身体でリズムを取ってスイングした。
母も仲間に入れてもらった。母もみんなとスイング…。
「スゴイ」平均年齢80位かな…?
ボーカルも乗ってくれて…。
持っていったデジカメでバチバチと撮影。
夜の撮影は わからないけれど 直感で…。

家に戻ったら9時を回っていた。
PCで見てみたら まあまあの出来だった。
構図とかでなくて…雰囲気が伝わるように取れていた。
なんせ みんな 元気が良かったもの…良い写真になるよねぇ〜。


2004年08月20日(金) ほっとする場面


 昨夜 遅く戻った娘に…。
「ねぇ〜。ぶどう どっか〜ん!だったよ」と言われた。
変換間違えをしていたようである。
巨砲→巨峰だったのだ。ちゃんとした気になっているんだけれど…。

言い訳になるけれど…。
同じような世代の方で 頭脳明晰な方が 一度聞いた事を忘れて質問したり
違った記憶で覚えて 何回も間違っていると「あ〜おんなじだぁ〜」とほっとしてしまう。
自分は間違う事を自覚しているけれど…あまり指摘されない。
みんな 暖かく見てくださっているのか はたまた呆れて居られるのか…。

今日のように特に頭が回らないと自覚する日に 他人の失敗に出会うと特にほっとしてしまう。

今朝 利用者さんを訪問した。
今日は お買い物の日だった。買う物も決まっていた。
が 私は品物を思い違いしていた。
利用者さんと外に出て歩き出した時「包丁と…」と言われて間違っていた事に気が付いた。
今日の思い違いは 他の人には見えない。
でも 自分には確実にわかる。★また やっちゃった★と。

訪問後 講習に出かけた。
ここでも 直感で動く事はできても 説明を受けての動作がゆっくりモードとなっていた。「いけない いけない」とかなり意識して 良く聞くように努めた。

こんな日は ちょぴっり ドキドキしてしまう。

明日は 夫も娘も家を出るのが早いそうだ。
まだ 二人とも帰宅してないけれど…。
夫は 少し遠くまで出かけるので混雑を避けての早出。
娘は九州方面に2泊3日のお遊びのための早出。
という事で…これから 家族のために 軽い食事を作りまして 早めに眠る予定です。。。


2004年08月19日(木) 頂き物。。。


 先日 故郷の友人から茶豆がどっさり送られてきた。
荷物の中には 南瓜も入っていた。

彼女とは 小中高と一緒である。
先日の会にも来ていたけれど…クラスが違い 今回はゆっくりお話しする時間が取れなかった。
残念という便りを書き上げたら 荷物が届いたのだった。
彼女も私も農業とは全く縁がなかったのに…。
嫁いだ先が兼業農家だった。
結婚した時に訪ねたら 裏の畑に案内されてアスパラを見せてもらった記憶がある。「次々と出てくるのよ」と言っていたっけなぁ〜。
きっと 今頃はお義母さんの良き助手をつとめて居られるだろう。。。
戴いた茶豆はご近所さんにもおすそ分けをした。
「おいしい」と評判。
今日 母にも食べてもらった。「おいしいよぉ〜」と。

昨日は 義姉から ぶどうが送られてきた。
今年最後のデラウエアと巨砲が入っていた。
義姉は その年の一番おいしく出来た物を送ってくれる。
義姉の実家はぶどう農家である。
今までお勤めしていたけれど…この夏からはお勤めをやめて実家の手伝いに専念なさっている。お母様がもう仕事が出来ないから…と言われていた。
今年のぶどうは お天気に恵まれたからとっても甘い。
これも 母に食べてもらった。
「これは…これは…」となかなかぶどうという固有名詞が出てこなくてようやく「ぶどうだけれど…」と言った。「えと え〜と…」とまた考え込む。「デラウエア」というと「デラ フャン?」と聞き直された。
母はデラと言う言葉は知っているのに…それを言いたいのに出てこないのである。

窓越しにお隣の屋根を見ていた。
赤い瓦に壁は赤いレンガ…それを言いたいのに「濃い色と薄い色とえ〜と口にあるもの…」と言う。
始めは何を言っているのか 判らなくて母の視線の先にあるものを見つめていた。その内「ひとつ、ふたつ……と数え始め13だよ。あれが薄い色」と言った。「13かぁ〜何だろな」と思って瓦の数を数えたらぴったり13だった。
「すごいねぇ〜」と褒めると「いやぁ〜」と照れた。
母の言葉は 誰に向けたものでもなくて殆ど独り言風である。
でも 向かい合わせに居るのは 私しかいないのだから…聞くのは私の務めだろう。。。

母と家に向かう時 新サンマを4匹買った。
お昼に母に焼いて食べさせてあげようと思っていた。
けれど…あまりにも暑くて焼く気力を失い 残ったカレーとオクラと長芋のサラダにしてしまった。

夕食にサンマを食べながら…母に焼きたてを食べさせなかった事が悔やまれた。次回は 必ず。。。

母は割りに落ち着いていた。お腹の方も調子が良いようだった。

施設の90を越えるご婦人がゴミ入れにする箱を折られていた。
「とても上手ですね」と声をかけると「お部屋に一杯あるから お姉ちゃまにあげるわ」と言われた。
居室まで着いて行くとベットの隅に新聞紙に大切に包んであった。
相当な数だった。「これ全部あげる」と言われた。
母も折り紙をしている時 人に褒められて意欲を出して折っていた事を思い出し戴く事にした。
施設に戻ってから「有難う みんなから羨ましがられたわ」と言うと「また 一杯作るから…あげるね」と張り切っていらした。
この紙箱 枝豆のから入れにしたり 生ゴミを入れたり重宝しそうである。
毎日 頑張って折り続けられるように…と思う。
いくつになっても 痴呆になっても 人は誰かの役に立ちたいものだし…また役目を果たしたい…と思うものである。
母を見ていて 判った事。。。



2004年08月18日(水) 明快な対応


 今日は隣町の特養とデイを見学に行く日だった。
昨夜の事もありどうしようかと迷ったけれど 施設に予約もしてあるので出かけた。

利用者さんから「デイ・ショート・デイの利用が出来 尚且つショート利用中もデイを使える」という情報を得ていた。
特養で歩行困難と言われていたのに…そこを利用して在宅介護を始めたら室内歩行が出来るようになったとも聞いていた。
年齢も90を超える方の話である。
近くにあるのに わが町に何の情報もないのでとても興味が湧いたのだった。介護仲間が「見学に行かない」と誘ってくれたので実現した。
このデイの送迎は 実は家から数分の所に住んで居られる方の所にまで来ていると聞いていた。

こちらが出向くには 交通の都合上 遠回りでバスとタクシーを利用しなければならない。
でも車で行けば 20分から30分くらいだろう。

係長という方が 施設内を案内してくださった。
ピカピカの施設ではないけれど…100名を越えるような施設ではなくて…。
職員が小まめに動かれていた。
こちらの質問には 実に明快に答えてくれ 曖昧な部分はない。
小難しい専門用語を使うこともなくて…気持ちのよい対応だった。

「介護保険上 ショート・デイ・ショートの場合 デイとショートの保険の2重取りになるけれど…こちらはどう処理なさって居られるのですか?」と聞けば「全てショートで処理している」という事。
「ショート中のデイ利用は?」と聞けば「ショートで処理」という事で料金別立てではないという事だった。
それでも疑問は残っていたけれど…施設を見学して納得できた。
この施設は ショートの部屋とデイの部屋が同じフロアにあり フラフラと歩けばデイの部屋に入ることも可能だった。
特養入所者は2から4人部屋だけれど ショート利用者は個室対応という事だった。個室料金は取らないそうである。
巨大な施設でないので 職員の目も届くようだ。

デイは毎日入浴できると言う。
多い人で週5回入浴している人がいるという事だった。

特養の部分での金銭管理の事も聞いた。
実はこの金銭管理って特養を選ぶ時の物差しにもなると聞いていたからである。
金銭管理を施設に託す場合 お金を使うたびに管理料を取る所、一月分づつ取る所、そして全く管理料を取らない所 それぞれあるのである。
この施設は 管理料は負担なし。
生活保護を受けている方の場合 入院費を蓄えるという事もあるけれど使い方は自由で月に2回ほど買い物に連れて行っているという事だった。
言葉通り 買い物に行く人の名前が掲示板にちゃんと記されていた。
それも利用者に見えるように…である。
お小遣い稼ぎに 内職だって出来る。いや、たいした金額ではなくて雑誌や新聞を買える程度の物らしいけれど…。

ショートの日数も制限はなかった。
最長で3週間という事だった。ただ 空きを作らないためにか2.3ヶ月前から予約を入れていると言っていた。

特養の入所者 デイ利用者も車椅子使用の人が少なかった。
やはり聞いていた事が本当なのだなぁ〜と感じた。

施設見学後 介護仲間と話した。
実は ある方が ある施設をショート(3泊4日)利用して かなり深いジョクができてガーゼ・バンソウコでの処置がなされ帰宅した人がいて その説明もなかったという事を聞いた。
在宅では 家族とヘルパー対応でジョクなんて全くなかったのに…たった4日でこうなる…と嘆いておられた。
こういう話は良くあって 大体報告があるのだけれど…。
こういった事は 利用家族は 直接苦情を言わない。
せいぜい ケアマネさんを通じて伝える程度である。
私もその口だったけれど…。
この介護仲間は 直接言うべきだと言う。
その方が 施設全体の介護の質が高まるから…と言うのだ。
仲間のアドバイスを受けた方は ジョクに関して直接苦情を伝えたそうである。すると 責任者がきちんと不備を詫びてくださり「これから気をつけます」と言ってくださったそうだ。
こういう関係が築いて 共に施設を向上させて行くという事がやっぱり必要なんだなぁ〜と改めて感じた。
ジョクの出来やすいのは 車椅子対応の人に多い。
一日中座っていて疲れるので楽になろうと姿勢を後ろに後ろにずらして行き
オムツ換えを時間対応でしかしないから そうなるのである。

言葉での表現が出来なくなった母のような利用者に関しても その人のリズム 表情を見ていれば その変化が見える筈である。
「忙しくて…」と言うのは 口実で…観察力が足りない…という事じゃないかなぁ〜とその人はいう。
そうなんだ。それは 間違いないのだけれど…。
施設勤務経験者(高齢者ではないけれど)としては 確信しているけれど…。
高齢者の施設って どうしてこうなるの?と言う思いはいつもある。

友人が言っていた「ヘルパーのミスは責められるけれど…どうして施設の側の事は言えないか…」と。そ・う・な・ん・だ・よ・ね。

と長い日記を書いたけれど…今日 母の所には行かなかった。
人の事を あれこれ言う資格…ないよねぇ〜。反省。。。


2004年08月17日(火) 不注意?


 台風の影響だろうと思うけれど 湿度が高い。
これまで 晴天続きでからりとした日が多かったので ジト〜ッとした空気に疲れが増して来る。

夕方 9年前まで 同じ方を訪問していた方から電話があった。
活動していた頃は お互い連絡ノートで話すくらいだったのだが…。
これからの 介護保険の事 私たちの住む町の介護サービスの行方を案じての電話だった。
呼びかけた事に対しての反応である。
ヘルパーとして フルに活動なさっているので時間が取れなくて…といわれていた。

私も留守が多いので 電話しても留守で連絡できない人もいるのかな?
他の方の所へは どうだろうか?

西日本 台風の影響で水害も出ていると言う。
ネットの友人の所は大丈夫かな?

昨夜は 夕方ダウン。
家族に心配をかけてしまった。
原因は 私の不注意…の筈。
瞬時の判断力が鈍って来ているみたいだ。若いつもりでいるけれど どうも
違うみたい。いや まだそんな事言う年齢でもない…。
もう少し 反射神経を磨いておかなければ…。


2004年08月16日(月) いつものリズムに。。


 午前中利用者さん訪問。
利用者さんは またお話が。。。
配食サービスは ご家族の猛反対に出会って断念なさったとその経過を話してくださった。残念だけれど仕方ないと。
ご家族の意向と利用者さんの意向がかみ合わないのはお気の毒だけれど。。。これは 私の口を挟むべき事でないので「時折 お休みを申し出て調整なさったらいいでしょう」と前回と同じアドバイス。すると「下のほうの息子さんもそういってくれた」と言っていた。
無理を通すと拗れるから。。。

「キンピラを作って欲しい」と言われた。「3本のごぼう全部使って欲しい」と言われたけれど すごい量になると思い 三分の一は叩きごぼうにした。
冷蔵庫には オクラヤインゲンがあった。これらは 直ぐしおれてしまうので「新しいうちに茹でておきましょうか?」とお聞きするとOKが出たので全て茹で上げてラップに包んだ。それだけしておけば 後はどうにでも使えるので。。。

訪問後 母の所に出向く。
母は娘の方に気を取られて私に気が付かなかった。
「あんたが来てくれたのね。有難う」と涙ぐんでいた。
やはり4日ぶりなのが堪えたんだなぁ〜。
私の顔をみてちょっとほっとしたようだった。散歩に連れ出して 元気になった。施設に戻る道で「ねぇ〜一番楽しい事ってなぁ〜に?」と聞いてみた。「大きな声でお話する事」と言った。何回聞いても答えは同じだった。
始めから まともな会話だった訳でない。
表現できなくて…「お腹が痛い」とも言えなくて 目に一杯涙を貯めていた。こちらの話も聞き取れなくて。。。何回も聞き直しをした。
健康チェックだって よほど細かく観察しないとわからなくなっている。
「さぁ〜どうするんだ」と迫られているように感じた。

留守の間 こちらも雨が降ったりで大分涼しかったみたいだ。
自分だけいい思いをしたんじゃないとわかりちょっとだけほっとした。


2004年08月15日(日) 温泉行き


「来たら連絡して。。。」と言われていた高校の友人に電話した。
1人は お母様危篤状態だった。「身体を壊さないように…」と伝えた。
また家を守って居られるお父様の介護保険の申請の仕方を伝授。近くに住んでいる訳でないので これ位しか役に立てないのである。

もう1人の友人に「これから山の温泉に行く」と言うと「いいとこ知ってるから 迎えに行く」と言ってお嬢さんとお孫さんを連れて出てきてくれた。
昨年行きそびれた虚弱児施設のあった温泉である。
父と一緒に出かけたのが最後でここ10年以上訪れていない。
温泉街も大きく変わった。新しい道も切れて。。。道幅も広がっている。
中腹まで行くと もう秋風が吹いていた。
「ななかまど」はオレンジ色の実を付けていた。
上のほうの葉は 赤く色ずいていた。もう 秋なんだなぁ〜。

温泉の湯に浸かってみるとススキにだって穂が付いていた。それなのに紫陽花だって咲いている。とても不思議な空間だった。
「昔もこうだったかな?」と思い出そうとしてみてもどうにも思い出せなかった。
お風呂を出て更に上に上がった。おいしい水をいっぱい詰め込んだ。
更にキャンプ場へ。そこは 中学の担任が毎年夏キャンプへ連れ出してくれた場所でもあった。緩やかな斜面ではパラグライダーを楽しんでいる人がいた。風はひんやりして夏である事を忘れそうなくらい。。。
昔の風景も多少は残っているけれど。。。様変わりしてしまった。山頂から列を組んで降りてくる学生の姿を見ながら 同じような経験をしたことを思い出す。自分の記憶からすっかり消えていた事が断片的に甦る。
昔に戻れる訳ではないけれど 何とはなしに昔に返ったような気になったりした。
これは 私のタイムスリップなんだなぁ〜。

遅くなる前に 山を下り友人と別れて駅に向かう。
が、来た時とは異なり…もうもうもう〜すごい混雑。その上 出発前から電車のトラブルもあり。。。乗ってからもトラブルが巻き込まれて。。。
大変な帰路となってしまった。(涙)


2004年08月14日(土) ふるさとへ


 後ろめたさを覚えながら家を出た。
この時期だから 混雑を覚悟していたけれど…。
ホームには 長蛇の列がなく自由席にちゃんと座れて拍子抜けしてしまった。家人には 散々切符買うように言われたけれど…良かった!

故郷のひとつ手前の駅に降りて 夫の友人宅に寄った。
夫の友人は 体調を悪くしていた。
人づてに聞いてはいたけれど…何も知らせて来ないので 知らないことにして我慢して数年過ごしたけれど…。夫が「寄ってきてくれ」と言ったので前日に電話して「寄らせてもらうね。知ってはいたけれど…我慢していた。でも もう 寄らせてね」とお願いしたのだった。

駅まで 友人の奥さんが迎えにきてくれていた。
久しぶりの出会いだった。
思ったよりお元気で それが何より嬉しかった。
ただ 気力が湧かない様で…奥様が苦慮されているのが見えた。
今年中に 我が家に是非とも泊りがけで遊びに来て欲しい…とお願いした。

同窓会の会場まで 奥様が送ってくださった。
途中 父の眠っている霊園に寄って貰った。
家の方を向いている墓の前で 母が元気にいる事を報告。連れて来ない親不孝を詫びた。きっと 近いうちに母を連れてくるから…と約束した。
友人のご両親が眠る墓にも寄らせて貰った。
夫の友人も 家の墓にも私の友人のご両親の墓にも手を合わせてくださった。

宿に荷物を置いて 会場へ。。。
4年ぶりに出会う。4年前 元気にしていた級友が2年前 急逝なさった事を知った。とてもお酒が強くて お元気そのものだったのに…。
また 会の数日前に級友のお母様が亡くなったという事で欠席の方もいた。
その方のお母様は 両親とも良く知っている方である。
4年前「口が元気すぎて なかなか 大変だよ。。。」と苦笑いしていたのに…。
学年会なので ほんとに賑やかである。
昔の話に花が咲き 懐かしい顔ぶれににこやかに挨拶を交わす。
卒業以来 初参加と言う同級生がいらした。
昔からマイペースを貫く方だったけれど…相変わらずだった。
考えると 級友たちはみんな 昔と同じなのだ。
大きく変化した人など居ない。
中には 純粋にあの頃の儘という人もいるけれど。。。
長い年月を重ねて それぞれ歩んだ道も違うけれど…悪口や陰口を叩く人もなくて。。。
地元に住む方は 深く根を下ろして…。
それが たまらないほど逞しくかんじた。女性も男性も。。。

故郷の夜は 更けるのが早い。
午前零時を境にそれぞれ家路に着いた。次回のオリンピックまで元気でいようと。。。


2004年08月13日(金) なおったよぉ〜


 利用者さん訪問日。
先日訪問ノート作成して、昨日ヘルパーさん訪問だった筈だなぁ〜と思いながら玄関を入った。

直ぐに「私 勉強しました。お蔭様で またひとつ賢くなりました」と言われた。
利用者さんは 訪問ノートを提示せず ご自分で仕事の依頼をなさったそうである。ひとまず 良かったなぁ〜と思った。
訪問ノートがあると 活動する上で助かる私たちだけれど…まだきちんとお話できるから これでいいのだろう。

お年を召した利用者さんは あれこれと遠慮なさったり 制度そのものを良く理解できてない事が多い。
余計な事を頼んではいけないと思い込んでしまう場合も多い。
一年の間 訪問日にあわせて買い物を頼んでいらしたらしい。

お料理で足りないもの等出ると「木曜に買ってもらいます」と言っていたのはそういう事だったのかと合点がいった。
要は ほんとは直ぐ欲しいけれど…買い物依頼する手前 木曜まで待っていらしたらしい。。。

「問題が解決してほっとした」と言われていらした。

「浴室の湯沸しのリモコンがおかしいので見てくださる?」と言われた。
説明書もなくて「?」と思ったけれど。。。
電池切れかも…と急ぎ電池を買って入れ替えてみた。
OKだったのでほっとした。
使った事のないものは ドキッとしてしまう。
家のは電池交換なんてないし。。。

きょうは利用者さん お話一杯だった。
昨日ヘルパーさんが帰られた後 息子さんとお孫さんがいらしたそうで…。
お孫さんが「おばあちゃん 水餃子の作り方教えて…」と言われてキッチンで餃子作ったそうである。
得意の料理を伝授できて嬉しかったらしい。お孫さんもご満足なさっていらしたそうである。
満州仕込みの水餃子らしかった。今度は 私が教えていただこう。。。

母も痴呆初期の頃は 聞かれると真剣に思い出して教えてくれた。
教えてあげられる喜びがあの頃 一杯あったなぁ〜。

訪問の帰り 時計屋さんに寄った。
これまでも数回訪ねている。
「部品がないけれど…他ので代用できないか試してみる」と言ってくださりずっと待っていたのだった。
故障した所の部品を別メーカーの物に替えてくれ ようやく時を刻んでくれるようになった。
見かけは 今の時計と変わらないけれど。。。中を覘けば昔の機械なのだ。
良く直してくれたなぁ〜。
他の店では ここまでやって貰えないもの。。。

修理代は機械代で4000円であった。
これを 安いと見るか 高いと見るか。。。愛着に出したのだから…ちょっとの贅沢だなぁ〜。

明日の日記は お休みします。


2004年08月12日(木) 爪きり


 10時少し前に施設に着いた。
お盆休みのせいだろうか…交通量が減っているようで バスの走りがスムーズである。普段は乗り継ぎにロスが出るのに 今日はうまく繋がった。
ほんの数分で一本前のバスに乗り継げるなんて。。。
今日はラッキー!

施設に着いて「お元気?」とみんなに聞いて回り 最後に母に聞いた。
「お元気?」「あまり元気じゃない」と浮かぬ顔で朝食を食べていた。
食べ終えたのを機に居室に行き 歯磨きとトイレ誘導。
昨日 大量放出があったと聞いたが。。。まだ今日も少し続いているようで…お腹が落ち着かないのかも知れないと思った。

リハを受けている間 療法士さんと私の会話を子守唄代わりに聞いていたのだろうか…ウトウトしていた。
足の屈伸の時 母に「数を数えて」と言うとしっかり数えてくれた。

リハ終了後 薬が切れるので通院。
待合室で待っていると「怖い事しない?」と聞いてきた。
「ここ 来た事あるでしょう?」「ん〜 3.4回あるよぉ〜」
と言うあたりで「○○ちゃ〜ん」と医師が母を呼んだ。
「どうも今日は 怖いみたいです」と伝えると 医師は 診察室の椅子に座るまで「タラン♪タラン♪」と母の手を引いて連れて行ってくれた。
それで 母はすっかり安心。
机の上の蘭をみて「綺麗」と母。医師は「いやぁ〜○○チャンの方がずっと上よ」と言ってくれたが…母の耳には届かず空振りだった。

母は最近 浮腫みもあって足の爪を切るのを痛がる。
だから 看護婦さんに切って貰おうかな…と思ったら 医師が「皮膚科に行くように…」と言った。「そうだねぇ〜」と思った。
診察を終えて我が家に向かうか 皮膚科に行こうかと迷ったが 取り敢えず我が家に。。。
昼食を我が家で摂った。母は、今日もおかわり。。。
食後は 食器洗い。布巾まで洗ってくれた。

さて皮膚科に通院…と思ったら…。
以前皮膚科に通うきっかけを思い出した。あの時も確か爪きりから始まったのだ。罹り付け医に皮膚科を勧められ 皮膚科に行ったら爪を切って貰えなかったのだ。がっかりして 結局私が切ったのだった。
今回もうっかり同じ事をしてしまう所だった。
母の足の爪は巻き爪なので伸びてしまうと指先に食い込んでしまう。
だから伸びすぎないように注意して切っていたのだけれど…。
あまりに痛がるので 思うように切れなかった。
大分伸び始めたので「早く切らなきゃ」と思ったのだ。

仕方ないので入浴して爪がふやけた所で切ってあげた。
爪切りを始めると「お腹が痛いから 切らない」と行ってみたり「痛くない」と言ってみたり。。。落ち着きがなくなってきた。
ひとつひとつ 痛みを確かめながら 注意深く切って行った。
程ほどの所で切るのを辞めて 後は鑢で削った。それでも「痛いなぁ〜」訴えられた。
まき爪は何処に行けば切って貰えるか…近くの皮膚科を回ってみなければ…。母との相性も考えなければならないなぁ〜。

施設に送っていく時間だな…と思ったら夫が帰宅。
どうも顔あわせがあるようで着替えに帰ったのだった。
夫は母にあれこれ話しかけ すっとんきょうな顔をして見せたら 母はげらげらと笑い出した。
スーツに身を包んだ夫をみて「すっかり別人。貫禄も出ますぅ〜」と褒め上げていた。
夫の車に乗せてもらって 施設に戻れた。ラッキーだった。


2004年08月11日(水) スローフード


 週末 留守にする後ろめたさから アチコチお手入れ。
キッチンだったり浴室だったり。。。
そんな訳で こんな時間になってしまった。

普段から 綺麗にしておけばいいのに…利用者さんのお宅はピカピカにしているのに…自分の家は手抜きもいいとこ。。。(泣)

今日は 午後の時間が久々に空いたので スローフード。。。
輪切りの切干大根を煮たり 鰹節や昆布でだしを作りストックした。
だしをとり終えた昆布を春先に摘んで醤油漬けにした実山椒で炊いたり。
もう 汗びっしょり。
冷房入れても 汗が出るだろうし だから冷房切って。。。

Tシャツ何枚 変えただろう。

いや〜 夏のスローフードは「暑い」です。
冷奴。焼き魚。枝豆。お浸し。炒め物。これがやっぱり簡単だ。

利用者さんの所では 思わぬ所で大笑いをした。
利用者さん 旅行に出るので その間の水遣りが問題になっていた。
私も介護帰省で長く留守にしていたので鉢植えは いつもカラカラになった経験がある。
利用者さんは 自動散水機を取り付けようとしていた。
がなかなか出来ないらしくて困って水道屋さんに頼もうとしていた。
でも盆休み近くで直ぐに来て貰えるか…と思案中だった。
「やってみましょう」と庭に出て蛇口を見て「工具あります?」とお聞きしたら。。。
利用者さんがケラケラ笑った。
「あなたも 家で全てやってしまうたちなのねぇ〜」と。
どうやら利用者さんもお元気な頃は 全てご自分でなさっていらしたようである。「主人がねぇ…」と言われた。
ご近所さんは ご主人がまめまめしく作業なさって居られるので 家は特別と思っていたけれど…。
同じような家があったとちょっとほっとした。
利用者さんも同じ気持ちだったらしく「ほっとしたわ」と言われた。
結局 私には出来なくて。。。
 留守の間 手動水撒きにお伺いする事にした。
これは 近所のよしみで。。。

週末のお出かけは オリンピック会。
オリンピックを観戦に行く訳ではない。
中学の同窓会は4年に一度 オリンピックの年に合わせているのだ。
みんなに会いに出かける。

お盆と言う時期を外して欲しいと思う。
帰省組みは 混雑があるし、地元組の主婦はお盆客があるし…。
なかなか 改善されない。
出て行くだけの私に…準備の苦労がないのだから仕方ないか。。。

マンモス中学  在籍時3000人という生徒数だった。
学年は12組。私の頃はさすがにピークが終わる頃だから少ないが 上の学年は15組まであったのだから。。。

さて 今年はどんな話が話題になるだろう。。。




2004年08月10日(火) 88って覚えていてね


 母は居室で寝転ぼうとしていた。
「眠いのか?」「調子が悪いのか?」と想像した。

職員が「お腹に湿疹が出ていています。薬塗布とリハパン大き目のものに替えてます」と伝えてくださった。
湿疹は 少し前からあった。先週の前半くらいに お腹が痛いというので膏薬を買って貼った。それが元となって 少しずつ湿疹が広がってきていた。
一昨日 ピークでかゆみ止めの売薬を買い求めて お腹に塗ってあげたのだった。そこを職員に伝えていなかった。私のミスだ。

母を外に連れ出した。
今日は 家に連れて行こうと予定していた。
「何か食べたいものは?」と聞くと「お腹はまだいいよ」と言う。
食べたくないんだなと察して デパートを歩き回った。
洋服売り場をチラチラ見て 母も興味が出て「これいいねぇ〜」等といっていたが長続きはしなかった。再度何が食べたいと聞いたら「おいしい物」と言ったので お店に入った。
でも 言葉ほどお腹が空いてないようで…。ご飯を少し残した。
しかし 今日はご飯の量が多かった。
一緒に食べて 私ももう入らない…というほどだったから。
そこから 家に戻った。
外食せずに 時間をずらして家で食べて貰えばよかったのだなぁ〜。
つい 母の観察が疎かになっていたなぁ〜。

今朝5時おきで夫を送り 家事を済ませてから 人と会って小難しい話を2時間ほどして…プレッシャーを感じていたので つい手抜きをしたくなっていたのだった。

何処となく 調子が悪そうな母。
「お腹が痛い」と言ったり「痛くない」と言ったり。
「足が痛い」と言ったり「痛くない」と言ったり。
でも間違いなくお腹は便秘気味。。。それもまだ出口までも来ていないのだ。摘便しようにも出来ない。
足の痛みもかなり痛いようで いつもと違って膝の後ろだ。
座ったら立ち上がれないほどだった。
かなりの力を貸したら「ごめんね」と母は言う。
こんな時別に謝らないでいいのに…と思うけれど。。。

座っているより腰掛けた方が良さそうなので 椅子に移動。
だんだん足の痛みは解消された。
入浴させたかったけれど…排便を促している時間が長くなってしまった。
今日は息む事すら「だるい」と言って出来なかった。
話も半分も伝わっていない。
決定的な病ではないけれど じわじわと苦しいと言うのが伝わってくるけれど 対処の方法が見つからない。
仕方ないので気分を変えようと歩いて駅に向かった。

歩きながら「○○ちゃん 何歳?」と聞いてみた。
暫く考えていた。私が「88よ」と言うと「80なんてなってないよ」
「ん〜でもね。大正5年生まれは みんな88よ。今年は役所でもお祝い金をくれるんだって」と言うとニコニコして「ほ〜っ」と言う。
「すごいね。88歳でピンシャン歩ける人っている?」と聞くと「あまり居ないねえ」と言う。
「やっぱり○○ちゃんはすごい。私にも出来るかな?」と聞いて見たが反応なし。ちょっと寂しいので「あのね。私が88までちゃんと歩けるように頑張れって応援してね」と頼むと「いいよぉ〜」と返事してくれた。

おそらくこの話が母の頭にこびりついたのだろう。
施設に戻ってから「88って覚えていてね」と言った。
母の記憶に私との細かい話は残ってないだろう。でも「88」というキーワードは残ったようである。母の手首に「○○ 88さい」と書いてあげた。
母は「有難う」と言っていたけれど…。

夕食の支度する音が聞こえたら「お腹空いてないから。。。て先生に言ってね」と言った。
これは 入所以来 初めて聞く言葉である。
「判った伝える」と言うと目を潤ませて「有難う」と言った。
普段の不自由さを垣間見たような…そんな気がした。


2004年08月09日(月) どうなるかな。。

 利用者さん訪問
今朝は 怠けてバスを使ったので少し早めに着いた。
その時間に利用者さんのお話を伺った。
というのも「ちょっと 聞いて欲しい事が…」と言われたからなのであった。

話とは ヘルパーさんの事だった。
話から想像すると。。。
どうやら 知り合いにヘルパーを利用なさっている方が数人いらして そこでヘルパー情報の交換が行われたようであった。
要するにヘルパーさんの持っている能力差…。これが問題らしい。

勿論 私自身もそういう話は伺って知っている。
実は 私の亡くなった祖母は ヘルパー制度が始まったばかりの頃に利用していた。
そう かれこれ35年程前の事であろうか。。。
ヘルパー利用に到るまでの経緯は 機会のある時にして…。
あの頃のヘルパーさんは 手探りながら前向きだった。
一人暮らしの祖母を案じて いろいろ配慮してくれた。
公私混同しないように…という意識もかなり高かったように記憶している。
あれから 随分の時を越えて 介護保険導入という事もあり ヘルパーさんは一気に増えた。
がここに問題はないのだろうか…と思ったりもする。

制度に応える為には 仕方なかっただろうけれど。。。

利用者さんの話は 今入っているヘルパーさんをやめて 私にもう一日入ってもらえないか?でなければ 1人で何とかするから ヘルパーさんは要らないんだけれど。。。という事だった。
理由は 
.料理が出来ない
 天麩羅を揚げて欲しいと頼んだら「天麩羅は 苦手で出来ないんです」と か「キンピラを作って欲しい」と言うと「茹でるんですか」と言われるの だそうだ。
・掃除が出来ない
 掃除機を掛けるけれど…。拭き掃除もなくて…時間が余るらしい。
・頼んだ買い物が出来ない
 一番小さいケチャップを買ってくださいと頼んでも 大きなものを買う。
 トイレ掃除の紙を頼むとキッチン用の物を買ってくる
 これは具体的に 品物を出してこれなのよと見せられた。
最初の二つに関しては 人によって違うかも知れないが…。
買い物に関しては きちんと違うと言った方がいいですよと伝えた。

更に 私自身 活動に入れない事も伝えた。母の介護もあり他に活動に入ってる事もあって無理と伝えた。
そして ヘルパーを育てる為にも 利用の仕方を覚える為にもヘルパー利用を放棄しないほうが良いとも伝えた。

そして提案をした。
活動記録のノートを準備してもらい 私とヘルパーさんの活動記録を残す事にした。心あるヘルパーさんであれば 他の人の取り組む仕事が見える筈だから ご自身の活動をノートを見ながら変えて行かれると思うと付け加えた。
これで 何も変わらなかったら ケアマネさんに 申し出ましょうと伝えた。
利用者さんも 何処まで言って良いか判らなかったけれど…今度は言ってみる…と言われていた。

利用する側は なかなかご自分の意思や不都合を言い出せない物なんだなぁと改めて感じた。
自分も そう感じさせる事もあるだろうから…更に注意深く活動しなければ…と肝に銘じた。

利用者さんの言われた言葉が残っている。
「あの人 お家でお料理しないのかしら?毎日 何を召し上がっているのかしら?」若い人と思っていたが…お嬢様 お二人を嫁がせた立派な奥様だそうである。。。


2004年08月08日(日) 縫い物 洗濯できたねぇ〜


午前中 家で作業するなんて久しぶり…という感じがする。
行き来した書類を少し整理した。
整理していても「あれっ あの書類は何処だったかな?」と探すのだから…
放置しようものなら 大変な事になる。

年のせいか?はたまた 生まれつきの整理ベタか?困ってしまう。

介護仲間から「全くのフリーの日は何時?」と電話で聞かれた。
考えると完全フリーの日は 日曜くらいである。
それだって 予定の具合で母の面会を飛ばせば 面会に振り当てる。
「何かな?」と思ったら「新しく知ったデイを見学に行かないか?」という事だった。
見学の申し込みは仲間がするから こちらは交通手段をネットで調べて欲しいという事だった。
あれこれ調整して 行く日を決め 交通手段もチェックした。

やりかけの仕事も少し前進。
首を突っ込んでしまった事も ようやく少し道筋が見え初めている。
でも お盆があけると…どうなっている事やら…。テンヤワンヤになりませんように…。

午後 母の所に出かけた。
母の表情は 少し固かった。
「あんた 怖いねぇ〜」と私に言った。「?」別に険しい顔をしたつもりはないし…心当たりもないが…。母からみるとそう見えたのかな?
「何処が?」と聞くと
「ほら、足の所が…こっちを向いて…だから…」と「?????」どうにも理解不能であった。
職員からお話を聞いたり 母の様子を見ているうちに「私に対してではないんだな…」何となく様子がつかめてきた。

一時の意味不明の言葉も よ〜く見ていると何となく判ってくる時もある。

意味不明の言葉を受けた時 こちらは本当に焦ってしまう。

今日は「イチジク」を持参した。
4個持って行き3個は母が食べた。
食べている間 洗面台を使って洗濯をした。パジャマとTシャツだ。
数日前に汗っぽいと感じたが其の儘だったので洗う事にした。
幸いお天気も良く外に干せるし…。
「洗濯しているよ。ほら見てごらん」とぬいぐるみを総動員させて話しかけていた。この所 ぬいぐるみが母の友達になっていることが本当に多い。

タオルと靴下は母に洗って貰った。
見守りがあれば それくらいは出来る筈だ。食器だって洗えるのだから…。
こういう作業から 遠ざかって行かないように…と思う。
出来る限り複合的な作業をさせて 能力維持である。
上手に洗えた。最終的な絞りは私が受け持った。

母をトイレに誘った時 パンツの裾がほつれた儘だった。
数日前に気が付き 忘れっぽい私なので次回来た時縫えるように…と裾が見えるように畳んで置いたのに…。
それを着せてしまったようだった。
パンツなら他にも沢山あって ワザワザほつれた物を着せなくともいいのになぁ〜と思う。
これも 職員さんが忙しいから?なのだろうか??

着替えた後「これ直せる?」と聞いてみた。
「針と糸が無いと…」と母は言った。理解できているよぉおおおお!
針と糸を渡すとちゃんと縫い始めた。
けして上手ではない…でもまつって縫っている。スゴイスゴイ。。。
縫い止めは 出来なかったけれど…。
でもこれだって 作業を続ければ思い出せると思う。

作業後 施設が準備したホットケーキをおやつに食べて…お散歩に出た。
洗濯を始める頃には…母は、いつもの母に戻っていた。
放置される事…これが母にとっては良くないのである。
いや、母だけではないのだけれど。。。

そういえば。。。
私が施設に付くと 入所者は「お帰りなさい」と言葉をかけてくれる。
母と散歩にでる時「行って来ます」戻れば「ただいま」なので 条件反射になっているのかなぁ〜。


2004年08月07日(土) 念願の講演会に。。。


 利用者さん訪問を30分早めて訪問させて貰った。
今日から1週間の出張に出かける娘も見送った。

今日の利用者さんとのお話が ヘルパー利用について ヒントになりそうな事があったのだが 別の日の日記に書き記す事にする。

家に戻って大急ぎで昼食を摂り 夕食の下準備をして 電車に飛び乗った。
少し離れた地域での講演会に出かけたのだ。

この講演会は 地域の家族会が主催の講演会である。
介護者のネットワークの仲間でもあり 私たちの地域の家族の会の立ち上げにヒントを下さりサポートもしてくれる方の所でもある。

講演して下さるのは 本間郁子さんである。
「施設の選び方」という演題である。

施設は 良い施設長 良い職員を見て選ぶと困る事があると言う話があった。
つまり 人材は動く可能性があり 困った職員がいて介護の質が悪いと感じてもその人がいなくなると「グン」と良くなることもあるという事だった。「なるほど…」と始めから頷いた。

勿論 大体の場合 長く良い対応の施設は 比較的良いような気もする。
が本間さん曰く 施設で暮らすというのは 平均寿命から押して考えても20年近くになる訳で…だから人材よりも 基本チェックを照らし合わせた方が無難という事になるらしい。

基本チェックの4項目は
・必要なお金のチェック ・経営者の理念と組織のチェック ・住環境のチェック ・サービス内容のチェックだそうである。

細かい事は 本間さんの本に書いてあります。

興味深い話は…
「あなたは どんな病だけはかかりたくないですか?」と聞き手に向けられた話だった。
聞き手の殆どは「痴呆にだけは…」と言うものだった。

でも施設勤務の方は「筋ジスとか 体の動かなくなる病」と言われた。
私も その考えである。
父の介護や多くの訪問で知った事は「動けない事での生きがいの喪失…」である。
これは 施設の職員からもずっと以前から聞いていた。
動けない事の悲惨さ…。
何も外出する事だけを言っているのではない。食べる事もトイレも…である。基本的生活習慣を自力で出来ない不自由さ…は深刻なものがある。
本間さんも 施設で介護する職員の殆どがなりたくないない病は「痴呆」ではなく「動けなくなる病」だったと話されていた。

もうひとつは…
自殺者が多いのは どの環境か?という事
独居、施設、3世代同居の3択
結果は 3世代同居であった。
世代間ギャップや高齢者の孤独だという事である。
世代間ギャップは 施設でも強いそうである。
最近の施設は 若い世代の職員が多い。下手をすると60歳も違うのだから…とも言われていた。
高齢者の生きてきた道を知らないと話も出来ない…と。
だから 施設は若い人には 研修を重ねて入所者の生きた時代の勉強を知るべきだとも言われていた。
これも 母を施設に託してみて 感じていた事である。
高齢者は 昔から高齢者だった訳でないのないのである。
触りだけ「昔の事を知る」のでなく 会話に耳を傾けたりしていればきっと見えて来る筈である。この姿勢は とても大切である。

地域の話も出た。
地域を豊かにするためにどうしたらよいのか?
これは 高齢者がテーマになるそうで…。
老いとは何かがわからないと良い地域は作れないとも。

80歳の人は 80歳の人の気持ち 90歳の人は90歳の人の気持ちがあるという事を師って聞く必要があると。

最後に「ケアとは?」と。
人間の心に寄り添って行く事だそうで…。
施設介護も 入所者が 楽しみを見出せるように引き出して行ける様にすべきとも…。勿論 個人の心の持ち方で 老後が 良くも悪くなるという事を意識した上で良くなって行ける様な生き方をしたほうが望ましいみたい…とも話されていた。

終盤 訪問した津々浦々の施設の様子をスライドで見せてくれた。
ある施設で 職員に内緒で漬物を漬けて…職員の目を盗みながら食事時に自分で漬けた物を食べているという人の写真を見せてくれた。
決まりごとで 縛られる…危険だから…事故が…と実に多くの事が制限を受ける施設がある。
人の生活の場なのだから 少しでも生きがいのある施設に…そういう考えの本間さんの姿勢に共感する事が多かった。
在宅介護、施設介護…訪問活動をしてきて学んで来た事の方向性は 本間さんと同じ方を向いている様だと感じた。

ちょこっと質問したら…。やっぱり答えは私と同じだった。
会場を出るとき 本間さんが声をかけてくれた。
私は名前も明かさなかったけれど…近い内 わが地域でも講演会を頼もうかなぁ〜と思った。 


2004年08月06日(金) レストラン「貸切 」だったよぉ〜


 利用者さん訪問
広島に原爆投下された日で…利用者さんは 忌まわしい戦後のお話をして下さった。じっと耳を傾けた。いや、手はキッチン掃除で動いていたけれど…。
この話は 終戦記念日に伝えようと思っている。

活動が終える頃 利用者さんが「沢山のお話を聞いてくれて有難う。聞いてくれる人がいる事は 何より嬉しい」と言われた。
今まで 活動していて いつもみんなにそう言われて来た。

母の在宅の頃 幼い頃から聞かされて…尚且つ痴呆症という事で同じ話が加速して増えて…うんざりを通り越して耳を塞ぎたくなるような日々だった。
それでも 利用者さんを訪問して「聞いてくれて有難う」と言われると母の話に耳を傾けない自分の姿を思い出して…気を取り直せた。
教えて貰ったり 助けて貰ったのは 実は私の方なのであった。

今日は 母の居る施設の外食の会だった。
入所者とその家族と職員と…みんなでレストランで会食。
洋風のコース料理で…。
入所者の多くが参加出来た事は 本当に良かった。
普段の施設では 見られないほどの笑顔が零れていた。
これには ほっとした。
私の家族ではないけれど…いつもいつも 哀しく寂しく思っていた。
連れ出せるものなら…車椅子を押しても連れ出したい…そういう衝動に駆られていたのだ。
「人の事より母優先」そう言い聞かせて 外に飛び出していたけれど 見ていられない…そういう面もあった。

いつも食欲が落ちていたのに…皆さん良く召し上がっていた。

このレストランには 母は何回か来ている。
「ここは初めての所ですか?」と聞くと「2.3回来た事があるね」と言った。
初めて母をここに連れて来た時は ご飯を食べない絶頂期だった。
外食なら気持ちが変わるかとアチコチ連れまわった時期の一店である。
食べない母を前に怒鳴りたくなる衝動を堪えに堪えて 優しく「食べないと…ここはおいしいのよ」と私自身に言い含めるように言ったものだ。
胃がキリリと痛んで…本当に苦しかった時期である。
母は、覚えていないだろう。。。
最近も 他のお店が混み出す時間は この店に来ていた。
ステーキもコロッケもエビフライもすき焼きも…確かお刺身もだ。
味噌汁あり スープあり。
味は悪くなく それでいて空いているのが魅力なのだ。

ただ 2階なので施設の車椅子の人 歩けない人は担いで貰わないと入れない。今日は 職員の方が助っ人も借りて…担ぎ上げて下さっていた。
これは 本当にご苦労様だった。
助っ人は 男性が多かった。力持ちはやっぱり男性だ。

母の食事の具合は おかしかった。
フォークをコップで濯いで見たり…紙ナプキンをテーブルに広げたり…。
奇妙な行動が多かった。
そばで注意深く見守りが必須。
しかし 食欲は旺盛で 出た食事は 全て食べた。
ご飯をお願いしたが その前にバターロールを一個食べたので ご飯は半量残したけれど…。ステーキも全量摂取。
施設長さんが 母の向かい側に座られた。
アチコチの方の様子をみて…「○○さん(母)は しっかりかんで食べれている」と感心なさっていた。
母は 歯根が数本残っているので そう入れ歯だけれど引っかかりがあるのが救いである。食欲もあるのが救いである。

これだけ咬めれば 嚥下の心配も先のことだろう。
一時は 嚥下が気になったけれど…普通に戻ったようである。
「良く咬んで食べる…」これは 嚥下になりかけても快復できると母を見ていて知った。
母の老いて行く様子は 私の老いて行く先の学びの時でもある。


2004年08月05日(木) いい日だと思ったのにぃ…


「血圧 測りますね」と言う療法士さんの言葉に「高くないかなぁ〜」と母は応答した。
実にかみ合った返答に驚いた。
今日は 体調がいいんだなぁ〜と感じた。

「横向いてください」と言われると「十二時になった?」と返答したりもするのだけれど…。
この場合 耳が遠いと言う事もあるので おおめに見てあげないとなぁ〜。

リハが済んで外に出る時 着替えをしたら…「こんないい服持っていたっけ?」と聞いてきた。
「ほ〜っ。自分の服と判るんだなぁ〜」
別に久々に着る服ではないのだけれど…。それでも自分の物と判るだけいいんじゃない?
普通は「××(私の名)ちゃんの服借りてねぇ〜。悪いねぇ〜。有難う」と言うのだもの…。

ある時期はこう行かなかった。
突如 家に帰りたくなると着ているものを次々に脱いで行った。
「これは 私の服じゃない」と言って自分の記憶にある服を取り出して 荷物を纏めて 外に出て行こうとした。
それも一日の内に何回も…。
あの頃 母が何を基準として「自分の服でない…」と言っているのか判らなかった。ある時 母自身が作った服は 絶対に間違えない事に気が付いた。
母が「自分の服じゃない」と言った時「あれっ 忘れちゃったの?ほら 一緒に出かけて買ったじゃない」とか「もう去年もその前にも 着ていたじゃない…忘れた?」と聞き返すと慌てて「覚えているよ」という時もあれば「そう?忘れちゃったぁ〜」という時もあったなぁ〜。
不穏が強い時は そんな言葉すら耳に入らなくて…。「違います。忘れてなんていません」と反発された事もあったなぁ〜。

とにかく 母の様子に合わせて あれこれ言葉を選んで対処していた。

今の母は 言葉も気持ちも パターン化されてしまって かける言葉も決まってきているなぁ〜。

施設の外に出て 美容院に向かった。
今日の母は落ち着いていると感じた通り 美容院でも非常に静かだった。
前回(きっとパーマを掛けたのは 3ヶ月前と思うが)は定着液を付ける時のタオルがきついと騒ぎ 定着液が流れると騒ぎ 目が放せなかった。
もう そろそろ限界か?と思ったのだが…。
今日のような日があると 望みが持てる。
雑誌も手に取り 声を出して読む。
女の子の美容師さんが「初めて本を読む所を見た」と言っていた。
綺麗になるのも判るようでニコニコしていた。
こうなると 連れて来て良かったなぁ〜と思う。

今日は 母も私もパーマを掛けた。
いつもは母の見守り役なのだけれど…もう忙しくて これから先何時美容院にいけるか判らないので…オーナーに相談して 同時に終わらせて貰う事にしたのだった。
予定通りに出来て…気を良くした。

昼食は 外食。
空腹感のない母で2時を回っても遅い食事ではなかった。
食べる順番はメチャメチャで ご飯も少し硬くて…食べようとする意思が弱かった。仕方ないので 少し介助した。
お店の人の視線を感じて気まずかった。

でも 会計の時
「オシアワセ デスネ」と声をかけてきた。「マタ イラシテクダサイ」とも言った。
この店 殆ど中国の人だった。
私たちに向ける視線は 冷たいものではなかったんだと知り 嬉しくなった。

用もあるので母を施設に送り届けて 家に向かった。
タイムリミットの5時の5分前だった。「セーフ!」
これも何とか良い方に片付きはじめて…嬉しくなった。

が畑に 初めてデジカメ持参で出かけたら…。
合わないめがねを掛けたせいで…微妙にピントが甘くなっていた。
そのうえ 昨日 2年ぶりに咲いたサボテンの花をとってもうまく撮れたのに…夫も「いいねぇ〜」って褒めてくれたのに…。
どういう訳か サボテンの花が消えてしまっていた。

あ〜会心の作だったのにぃ〜(涙)
もうサボテンの花は しぼんでしまっている…(涙)



2004年08月04日(水) 自分に言い訳…


 今朝 弟から電話があった。
下の弟のお嫁さんのお母様が 昨夜亡くなられたと言う電話だった。
ここ数年 医療施設で療養中でお話も出来ない状態が続いていた。
この春に危機があったのだが 乗り越えられたと言うお話は お世話なさっておられる実家のお嫁さんから伺って知っていた。

いつも 頭のどこかで「大丈夫かな?」と思っていた。

結婚式と父の一周忌くらいでしかお会いした事はないお母様である。
一周忌での思い出は かなり強烈である。
痴呆初期の母のおかしな言動・行動を見て「あはははっ」と笑ったのだ。

母は 夫を亡くしたことの揺らぎ 介護に戸惑う私たちの間で かなり動揺していたので 普通でもありおかしくもあり…微妙な状態の時だった。
笑われた時 私と娘はとても気分が悪かったが 父の法要の席でもあり黙って気が付かぬ振りをしていた。

娘が今 どんな気持ちかは知らないけれど…。
私自身は あの時の事は 仕方のない事だったと受け容れられるようになった。お母様は 痴呆症という病を理解できていなかったのだと思う。
この病は 一般的に理解されているようで結構 理解できていない人が多いような気がする。
私自身 わかっていたつもりでも 初期の頃と今では 大分違ってきてるから…人を責められない…。

更に お母様が痴呆症となり 他の病もあってお話も出来ない状態が大分続いたのだ。
お母様は 母を笑った事など忘れてしまっていただろう。
でもご自身 お話できなくなって辛い思いをなされていらしたのではないかと思ったりしていた。

お義姉様が 孤立しながら良く介護なさった。
その姿には 教えられる事が沢山あった。

今 お母様が亡くなり 介護から解放されるお義姉様の事が頭に浮かぶ。

と言う訳で 利用者さん訪問後 香典やらお花の事で走りまわり 母の所には行かなかった。

お嫁さんの実家は ふるさとにあり出かけるには ちょっと遠すぎるし…。
お義姉さんに ちょっとしたお悔やみの言葉をを書き添えて香典を送った。

行けないと言うか 行かないと言うか…そんな状態になって「急な事だから…明日はリハだし…明後日は 施設の行事があるし…いいよね」とひたすら自分に向けて言い訳していた。


2004年08月03日(火) それぞれの介護


 家族の会だった。
新しい方の参加があった。
その方のお話に耳を傾けていて…いろいろの介護の取り組みがあるなぁ〜と改めて感じた。

お義母様は 有料老人ホーム→特養(転々と)→在宅という形での介護をなさっていた。
特養から特養の移動は どういう経緯かはわからないけれど…そういう事もあるのだなと知った。

施設に入っているうちに自立歩行が難しくなり車椅子を使うようになっていたそうである。
が在宅に戻ってから 室内は自立歩行が出来るようになったという事だった。
在宅に戻す時 お義姉(?)から相談を持ちかけられ 話し合いの末 受け容れられたという事だった。

驚いたのは この地域の中のデイ利用ではなくて 隣の地域のデイ利用だったという事。
そのデイも この地域のケアマネさんが 探してくれたとお聞きした。
そのデイは リハも熱心に取り入れてくださり 車椅子から離れられるように取り組んでくださったという事だった。

更に驚いたのは 先月から参加なされた方も 同じデイを使われていらしたという事だった。
介護保険が始まって 利用施設の地域限定が解除された効果が出ているのだなぁ〜と感じた。

家族の会は 辛い話も多いけれど…でも この会では 笑ってお話できる。
嫌味や痴呆者の行動を笑うのではない。
取り組みながら 自分のしている事に苦笑してしまい…皆の心当たりもあり笑いに引き込まれてしまうのである。

それぞれの介護に対する姿勢 悩み 器具やオムツの使い方…テキストでない経験から情報を得えられる…それが嬉しい。

昨日 いろいろ考えすぎて 日記を纏め切れなかった。
書きたい事は 他にあったけれど…纏め切れないという事は 今起きていることを消化しきれないからだろうと思った。
もう少し 方向性が見つかった時に ゆっくりアップしてみようと思っている。「アップできるのかな?」。。。。。


2004年08月02日(月) 真夏日だけれど…

 
 先日 北海道の友人からの便りに「荷物と一緒に暑さまで届いた。北海道も記録的に暑い日だ」と書いてあり 思わず噴出して「ごめん」と独り言を言ってしまった。

 記録的な暑さを経験してしまった後 暑さの感じ方がおかしくなってしまったような気がする。
今日も 30度を越える暑さなのに…涼しいと感じてしまう。
いや これは正しくないかも…。
からりとしているのだろう…気温が高くても あまり気にならない。

夫が 早朝出勤だったので 起きたついでに畑に向かって枝豆を採った。
早朝に畑に行く事は あまりない。
朝の時間は 忙しくてそれ所ではないから。

畑では もう作業を始めている人がいた。
種を撒いたり 消毒したり…。
なるほどなぁ〜。この時間畑に出向けるのは 男性だ。
ちなみに 夕方に行くと女性の方の方が圧倒的に多い。

今日は利用者さん 訪問日である。
「トイレが詰まったみたいだったけれど…もう戻っている。でも ちょっと見て欲しい」と言われた。
特に問題はなくて お掃除だけしっかりした。

「郵便受けが開かなくなってしまった。見て欲しい」と言われた。
郵便受けは 玄関外まで行かなければならない。
見てみると 数字の追い方がわからなくなったようだった。
順序良く数字を回して 無事開ける事が出来た。

キッチンには 乾燥ひじきが出ていた。
煮ひじきにして欲しいとの依頼だった。
人参と揚げはあったけれど…。煮ひじきにするには材料が足りないので うかがって こんにゃくと干ししいたけと鶏肉を買い足して調理した。

鉢植えも枯れたものがあり 整理。

何をするにも 利用者さんのプライドを傷つけないように配慮が必要である。「鉢植えに水をやっているんだけれど…枯れちゃうのよ」と。
枯れ葉が多いので 水が足りなかったと思う。
良く考えて見ると金曜の訪問時に 私も油断して水遣りをしなかったような気がする。
ちゃんと点検しておけば 良かったなぁ〜と反省した。

訪問を終えて 家に戻った。
家の用が有った。
用を済ませて 母の所に向かった。

母は、居室にいた。
私の顔を見ると「あ〜おかちゃん。おかちゃんの知り合いがさっきまでいたのだけれど…どっかに行ってしまったぁ〜」
「?」だったけれど…職員の誰かがいらしたのかな?
持参したゼリーを出すとニッコリして食べ始めたが 食べきれない。
「甘いのは嫌だ」という事だった。
今日は ひょっとすると便つまり気味なのだろう。

外に出てお散歩。暑くて歩く人も少ない。
だから 母と二人 大きな声を出して唄いながら川辺りを散歩した。
途中薬局で 湿布薬を買った。
どうも 左脇腹から背中にかけて痛みがあるようだった。
外から見ては 特に変わりはないけれど…。この場所は 在宅よりあったので肋間神経痛みたいなものかも知れない。
医師はいつもそう診断する。
痛みの度合いが強くはないので 湿布して経過観察しようと思ったのだった。
その後 ファミレスで果物を食べてもらった。
水分も800くらいは飲んだだろうか…。
「甘いのが嫌」という事だったのでジュースなどをやめて お茶にした。
そうの内「口の中が寒い」と言い出した。
入った時は冷房も強くなかったけれど…だんだん強い冷房になったようだった。それにしても 口の中が寒くなるのか〜。
だから あったかい飲み物も飲んでもらって 施設に戻った。

入り口を入ると…チラッと旧職員のお顔が見えた。
「○×さん?」と聞くと「また 復帰します」という事だった。
どのフロアに入られるのか判らないけれど…お母様と私たちは 同郷で 故郷の話に花が咲くことも在ったので…母には 良いかも知れないなぁ〜。






2004年08月01日(日) 聞き間違いでないと思うけれど…


 今朝 夫と畑に出かけた。
収穫と草取りである。
雨が降るようになる前日に ゴーヤを植えておいた。
隣の畑の持ち主が下さると言っていたゴーヤだ。
晴天続きで 植え替え時を窺っていて 明日は100パーセント雨と言う前日に植えたのだった。幸い 天気予報が当たり数日雨が降ってくれた。
今日は 見事に晴れ上がり 見に行ったら ちゃんと根付いていた。
これから 支柱を立てなければ…。
枝豆が収穫時だった。
今日は 昼なら家族もいるし…と収穫しようとしたら…。
「夕方 枝豆の上の方の葉を切り落として一晩置いてから収穫した方がいい」と夫が言った。
夫は夕方 仕事で居ない…という事は…私の仕事かぁ〜。
聞き間違いじゃないよねぇ〜。

でも 以外に畑を管理できているので 夫は驚いていたし感心していた。
と言うのも 以前から「作物を育てる事なんてした事のない あなたには畑の管理なんてできっこない」と決め付けたように言っていたのだった。
「やる気になれば出来るじゃん」と冗談めかして言うのが常の夫が 初めて感心したように言った。
ちょっと 威張って見たい気分になったけれど…やめた。。。
聞き間違いじゃ ないよねぇ〜。

一昨日 介護ネットワークと施設の事をあれこれお話していた時の事。
その方の奥様は 特養に入所なさっている。
その方が 特養にカウンターバーを開いて居られるという。
聞き違いかと思ったけれど…施設での毎日の生活の様子を話している時の事で パターン化しすぎて空白の時間が有りすぎる…という所での話だったので間違いはないだろう。
家族がボランティアで 夜カウンターバーを開くと言っていたと思う。
そこには 職員の協力もあると言っていた。
この方 痴呆者の相談窓口のボランティアもなさって居る。
いろんな事に積極的に取り組まれる方である。
お年も召して居られる。。。
そのパワーには 圧倒される。極々自然体で取り組まれる姿に教えられる事も多い。
外に向かう事で いろんな介護の取り組み方を学べるなぁ〜。

職員が飲ませるのでなく 家族がカウンターでボランティア…。入所者の意思で…。信頼関係を築くまで10年はかかるよ…とも話されていた。
受け容れる側も託す側も いろんな事乗り越えてこその事だろうと思った。
しかし10年という年月…大変だなぁ〜。
でも 母の病も10年を越えているのだし…それを考えれば そう長い事でもないのかなぁ〜。


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