2012年09月25日(火) |
玄侑宗久『わたしを超えて-いのちの往復書簡』★★★★☆ |
玄侑宗久『わたしを超えて-いのちの往復書簡』
メモ。
ヴィクトール・フランクルの「態度価値」。 創造価値、体験価値、態度価値。
「それでもなおその現状に、どんな態度で臨むかという『態度価値』があるはずだ、ということですよね。」(p41)
「価値や意味は、関係性のなかにあると、私は思うのです。」(p42)
病跡学の先生からのメール。 「『医者は手術はできますが、手術ができるという事と治せるという事は違うのです。しかし、このことを伝えるのが難しいのです』」(p143)
「英語のrespiration(呼吸)は、呼気と吸気がそれぞれexpirationとinspirationと表現されます。後者は、吸気というよりも、むしろひらめきや霊感などの意味の方が知られていますよね。」(p172)
「むろん座禅も、お経を唱えることも、なにかの『ために』であってはいけません。『ために』ではなく『只管管(ひたすら)』です。」(p176)
オイゲン・ヘリデルの『日本の弓術』『弓と禅』。(p186)
「1.弓をひくのに、筋肉を使ってはならない。 2.肺で呼吸してはならない。 3.矢を放とうと意志してはならない。 4.的に当てようとしてはならない。」(p187)
「簡単に云えば、『観』は全体視、『見』は焦点を絞った凝視ということでしょう。もっと云えば、『見』は因果律を呼び起こす見方、『観』は共時性も含めた直観的な見方かもしれません。」(p190)
「武蔵は『観』の目をつよく、『見』の目はよわくするべきだと云います。」(p193)
「沢庵さんは、心を一カ所に留めることが不動なのではないと力説します。いや、むしろ、物をひと目見て、そこに心を留めないことこそが不動なのだと云うのです。」(p194)
「心の持ち方については、『いつこにも置かねば、いつこにもあるぞ』と沢庵禅師はおっしゃいます。」(p194)
「どうも心を一所に留めるという、初心の方のための方法ばかりが強調されすぎる傾向があります。それは沢庵禅師に云わせれば『偏に落ちる』というのです。それを遍くゆるがせながら広げる『放心』こそが大事だということでしょう。」(p197)
玄侑宗久『わたしを超えて-いのちの往復書簡』
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