刑法奇行
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2005年05月30日(月) 学会前に御礼を!

 学会が近づくと、論文の抜き刷りをいただいた多くの方々に対する御礼をまだ差し上げていないことに気づくのである。御礼をしたかどうかすら忘れてしまうこともある。本当に申し訳ない。この場を借りて、お詫びと感謝の意を表したいのですが・・・。メールアドレスがあれば、サッとメールできるのだが、住所だけだと、サッとはいかないのである。それは、時間がないということかもしれないが、ただただ、怠惰です怠惰です怠惰です・・・。

 以前は、S藤K作先生からN原先生に至る方法論を採用していた。すなわち、机の傍に絵葉書をうずたかく置いて、論文の御礼をとにかくすぐに書くという方法がこれである。まあ、受領のお知らせとしての意味もあるが、受け取る側は、結構これで感激するのである。若い頃、D藤先生やH野先生からすぐに礼状をいただくことを想起すればよく分かることである。しかし、じっくり読んでから礼状を出すとなると、一月が経ち、二月が経ち、ということになり、結局、出さないで終わりということもある。

 若い研究者は、折角、論文を送ったのに、うんともすんとも言ってこないことに怒りの念を生じるかもしれないが、実は、じっくり読んでいて、そのままになってしまっていることも多いのである。返事が来なくても、見ている人は見ているからご安心を!という自己正当化の論理を展開してしまった。

 返事が来ないのは、じっくり読んで返事を書こうとしているのだなと思う方が自己癒し策として素晴らしい。実は、これが真実かもしれないのである。本当に感動したら、言葉にならないのであるから、本当に哀しかったら、言葉にならないのであるから、本当にうれしかったら、言葉にならないのであるから・・・。

 言葉に誤魔化されてはならない。美辞麗句には気をつけろ!というわけである。たとえば、結婚式の挨拶における究極の姿は、寅さんがさくらの結婚式で一言も発せなかった挨拶であると思う。あれこそ、気持ちが100%であることが伝わるのである。気持ちがゼロの場合に、言葉が100%になってしまうのかもしれない。

 何を言っても、自己正当化でしょうか。

ジャスティス for Selbstrechtfertigung


2005年05月25日(水) D協大での特別講義

 今日は、1限のローの授業終了後、直ちに松原団地(M原君とは無関係であるが)のD協大に行き、「ドイツにおける損害回復」について、学生相手に話をしてきた。A部さん、N空君、U山君、T沢君らと会食もした。緑が多く、のどかな学園という感じである。刑法学会以来の訪問であった。学生諸君もまじめに聞いてくれて、また、質問者も鋭い質問をして、好印象であった。謝礼もいただいて、ラッキーセブンである。D協大のみなさん、謝謝!

 久しぶりに損害回復論を考えるために、昔の拙著『刑法における損害回復の思想』をパラパラ読んでみたが、結構良い本だと自画自賛してしまった。この本は絶版である。これは爆発的に売れたためではなく、単に発行部数が少なかったためという単純な理由である。もっとも、「修復的司法の探求」の方は結構売れているようである。ゼアの翻訳書も2000部が完売し、2刷りが今日届けられた。これに対して、「共犯体系と共犯理論」はまだ在庫がどっさりということである。この本が飛ぶように売れるような社会ではないことが救いかもしれない。

 先日、ゼミOBの結婚式もあった。また主賓の挨拶であったが、2点を強調した。一つは、「代名詞で語れる仲」という点である。「ほらあの時のあれ」と言うだけで通じる相手がいるいないは大きいと思う。これを思えば、喧嘩も修復されるであろう。もう一つは、「贈り物」という点である。相手から贈り物をもらっていることを意識すること、そうすれば自分もいろいろ贈り物を与えねばならないという気持ちになり、これで関係も修復することになろう。

 なんだかんだ忙しくしている間に、6月がやってくる。6月は、被害者学会が関西学院大で行われ、引き続き、RJ交流会もある。さらに、刑法学会が北大で開催される。学会はいろいろな意味で楽しみである。学会は祭りである。踊らにゃ損損というわけだ。大いに刺激を与えあうことができればと思う。

ジャスティス for ヒロのドイツ刑法学ブログは素晴らしい!


2005年05月05日(木) 佐々木先生3回忌

 アッという間に、前回の奇行から1か月経過し、連休も終わってしまった。授業と原稿に追われ、前者から逃げるわけにもいかないから、後者から適当に逃げて逃げて、そして間に合わせるという「厳粛な?綱渡り」を行う日々である。

 新8号館の研究室も何とか軌道に乗ってきた。結構気に入っている。外の風景が関係ないだけに、内向的にならざるをえないことは素晴らしい。休みの日は、えぞ菊の向かい側のオリンピックで買った前かご付きマウンテンに乗って研究室に向かう。風がさわやかである。そういえば、「風」というグループ名は見事だし、本当にセンスのいい歌をつくったと思う。伊勢正三である。「あいつ」とか、「君と歩いた青春」とか、もちろん、「22才の別れ」とかである。「あの唄はもう唄わないのですか」というのもあったが、こちらは、今でも歌っているから、その質問には、Dochと答えることにはなるが・・・。

 先日、佐々木先生の3回忌で、奥様ともどもお墓参りと中華街で食事をした。K崎弁護士、U金弁護士、S藤弁護士、N倉教授、S井教授、STの会会長、U野教授、そしてM藤君というメンバーである。N原研究室における癒しの世界である。一気に昔の状態になるから面白い。みんな青春を引きずっている。面白い大人達である。こういう大人がいなくなったことが今最も憂うべき問題かもしれない。今の学生よりも青臭い議論をする。これは驚愕すべきことだと思う。大事にしていかなければならないことだと思う。

 中野先生、鈴木先生、そして、佐々木先生のような実務家の先生は今後二度と現れないだろう。これは断言できる。おそらく、この先生達は、時代的な状況もあるが、つねに何か新しいものを欲していたのだと思う。だから世界が広いのである。だからわれわれの奇をてらったドイツ従属的な考え方にも大いなる関心を示されたのである。一つの世界を絶対視しないところが共通しているのであろう。違った角度からものを見てみようという態度が共通しているのだろう。

 自分の思考が何かに囚われていないかを吟味することが大事である。もっとも、囚われないでいようということに囚われるという悪循環は避けられないものの、単に囚われていることよりもマシかもしれない。今の学生にはこだわりが無さすぎると嘆く先生もいるが、単にこだわっただけでは、ステレオタイプの単純型人間しかできないだろう。まずは、何故こだわっていないのかを自問自答する方法論の確立が必要かもしれない。

 若者や少年の問題は、すべて大人の問題であると思う。大人がつまらないから、若者もつまらなくなり、大人が悪いから、若者も悪くなるのである。まさに、若者は、大人に、極端従属性なのである。 

 「若者よ、もっと青臭くなれ」というのは、実は、「大人よ、もっと青臭くなれ」ということなのである。きっと、毎日欠かさず、青汁を飲むといいのだろう・・・。

ジャスティス for 青春の分かれ道


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