刑法奇行
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2003年12月29日(月) |
不条理的人間像と修復的人間像 |
警察公論の2004年1月号の新春随想に「刑事法における不条理的人間像」という雑文を書いた。法と人間像という問題は、永遠の問題である。合理的人間像、宿命的人間像、そして、主体的人間像・・・と刑法学では馴染みのある言葉が登場する。
上記の雑文の末尾で、次のように書いた。 「しかし、人間を究極的に考察してみると、結局は、カミュのいう「不条理」に行き着いてしまうように思われる。矛盾に満ちた、筋の通らない生き物が人間であり、そうであれば、それをコントロールする法の世界が困難に満ちていることは、当たり前の事態であり、驚くに値しないともいえよう。しかし、この困難な状況を打開するために、合理性や科学性だけを追求して処理しようとすることは、そもそも不可能であるし、かえって逆効果が生じるように思われる。すなわち、人間の不条理性と真っ向から衝突することになり、システムはいずれ破綻するに至るであろう。そうではなく、人間の不条理性を正面から素直に認めることから出発すべきであるように思われる。犯罪問題については、このような不条理な人間という視点を忘れないで解決することが重要であると思う。人権を熱く語る先生がわいせつ行為をしたり、学校では優等生の高校生が爆弾を作ったり、と例はたくさんありすぎる。善と悪が混在し、矛盾に満ちているのが人間である。加害者・被害者・コミュニティの3者の修復を目指す修復的司法は、このような不条理的人間を基礎としているように思われる。不条理や矛盾を排除するのではなく、不条理や矛盾と合理性・科学性とを共存させることが必要であろう。『重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ。』と思う。月にロケットを飛ばすことと、月ではウサギが餅をついていることとの両方を大事にしていかなくてはならないのである。後者によって救われる人々が大勢いることを忘れてはならないだろう。」と。
若干、以前の刑法奇行の文章をパクッたが、カミュをどうしても書きたかったのである。
ところで、不条理ばかり言っていては、埒があかないので、来年は、「修復的人間像」で迫ろうと思う。しかし、これは一体どういう人間像なのだろうか。おそらく、修復を行う人間、修復責任を果たす人間をいうのだろう。 「責任」については、来年の6月に行われる学術会議のシンポ(少年非行と”責任”を考える)で、修復責任について報告することになっている。「責任」という原理が、2004年のキーワードになる予感がある。責任を研究する責任があろう、と思うのは私だけでしょうか(女性の漫談師)。
世の中を変えるのではなく、人間が変わらねばならないのだと思う。「応報的人間から修復的人間へ」というキャッチフレーズである。
激動の2004年に向けて、様々な修復が必要となろう。そのためには、修復するための技能を身につける必要がある。まず、電球でも取り替えるか・・・。
ジャーニー to 大晦日はとかく厭世的だ
N村先生と渋谷のユーロスペースという小さな映画館で、修復的司法の映画『Le Fils』を見た。原題は『息子』であるが、『まなざし』とは、被害者とその遺族の見方の違いを表現しているのだろうか。
映画の唐突な終わり方に驚愕するが、その後の展開は、見た人の想像に任せるのであろう。見事な芸術である。被害者遺族と少年加害者の間にその後何が起きるのか、1年後、5年後、10年後・・・。終わらない旅であることが、身に浸みる。
何と、映画パンフを買ったら、宮台真司の鋭いコメント、杉浦弁護士や片山さんのコメントがあり、修復的司法(回復的司法と訳されてあったが)の説明まであり、参考文献に、またもや何と、拙著『修復的司法の探求』と坂上さんの『癒しと和解への旅』が挙げられていた。いよいよ、時代は動いてきたか・・・。
宮台さんのコメントは、理解とか納得ではなく、単に「ミメーシス」(模倣・感染)というものが、修復的司法の射程にあり、「修復的司法のタイムリーな但し書」であると論じている。加害者と被害者とが、相互理解することを強調する修復的司法論者が多い。おそらく、H井先生などそうなのだろう。しかし、そこまで要求すべきではないように思う。相手の存在を肯定すること、理解や納得できなくても、一緒にいること、これが重要なのではなかろうか。
修復的司法は、異質な存在を抹殺することなく、肯定することなのではなかろうか。共存とは、そういうことなのだろう。もっとも、その段階に行くことが難しいのである。映画の中の2人が沈黙のまま一緒に作業する姿が胸を打つ。
「この映画のそれからについて、ストーリーの続きを書きなさい。」 まさに、ロースクールの試験問題としては、最良の問題かもしれない。
ジャーニー to ユーロスペース
norio
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