ゆれるゆれる
てんのー



 トレーラーが横転していましたよ普通に

 SUMMITの前、Kesas Expresswayの陸橋でトレーラーが横転していた。数時間たっても放置されたまま。警察の「け」の字も見えない。処置を施そうとする雰囲気さえ感じられない。あるのはただひたすら渋滞。日本人みたいに騒ぎ立てない。「Heavy jammed.(渋滞がひどくてさあ)」学生もこの一言で済ます。Heavyじゃなくてheavilyじゃないかなあ、と思うけれどそれを伝えるのもめんどくさい。
 そんな仕事納めでした。いつもとまったく変わらない。

2002年12月30日(月)



 手紙を書きます

 今日は年賀状を書いたが、ほかに何もしなかった。
 気合を入れて書くのはいいが、枚数が少ない分友人を取捨選択したみたいになって気が引けた。
 高いわけではなし、たくさん書けばいいことなのだが、エアメールというのは心理的な距離なのだろうか、自分が飛んでいくわけでもないのに何かすごく大げさな行為のように思える。ううむ、考えてもわからない。とりあえずわかることは、こっちまでわざわざエアメールを書いてくれる人は非常にありがたい存在なのだということ。

 マレーシアから日本までは封書でRM0.6。約20円か。でも今回は中国正月用の大きなやつを送るのでたぶんRM0.9。約30円。マレーシアの郵便料金はサイズではなく完全従量制らしい。やたらでかくても、ぺらぺらなら基本料金、ということはエアメールだとタダ働きになる日本側の配達員がちょっとかわいそう。別に切手から給料が出てるわけじゃないだろうけど気分的にね。

2002年12月29日(日)



 思考停止

 日々をただ受け流す。限りある時間からまた1ユニット供出する。
 また一つ、死ぬのが怖くなくなる。どうしてみんな、毎日苦労するんだろう。いや、苦労することが美徳とされているんだろう。どうして、漫然と死んでいってはいけないんだろう。
 どうして、俺もまた、それを美徳だと思うんだろう。思考停止。

2002年12月27日(金)



 題なし

 居間で髪を切ってもらう。
  われこそは杣に影さす仁王鳥


2002年12月22日(日)



 二つの塔

 ロード・オブ・ザ・リング2を見た。
 映画化にがっかりしない、珍しい例。まあ、原作を程よく忘れているというこちら側の事情もあるけど。
 それにしても、小田貞二の訳は素晴らしいと思う。言葉の取捨選択のセンスが心地いい。特に、原語のつづりと較べてみると。
 映画は、なんでギムリがただの道化役やねんとか、小さい不満はあったけれど、テンポもいいし、手放しで礼賛しておきます。
 やっぱり、映画は大画面だね。当たり前のことを再確認した。

2002年12月21日(土)



 馬鹿について2

 また借り物の発想でごまかそうとしている。
 今のご時世というのは「馬鹿が意見を言うようになった世の中」なのだそうだ。なるほどなるほど。つまり馬鹿は意見を言うなということか。それとも馬鹿は意見さえ言えなかった昔のことを反省して言っているのだろうか。
 見えない馬鹿、見える馬鹿ということかもしれない。見えていないから馬鹿って言うんだって? 馬鹿だなあ。
 自由社会における法とはすべからく「〜てはならない」で終わる、つまり禁止の形をとるという。「〜すべし」という形で終わる法は自由主義とは相容れないものらしい。こういうすっきりした論理を好む。自由とは境界を必要とするもの。法とは何か、という原点にもしっかり足をつけている。もっといろいろ応用できそうな考え方のようだ。もっとじっくり考えてみたいが、週末にしよう。

2002年12月19日(木)



 書きたくないこと

 知らずしらずに精神生活のレベルがかなり下がっていることにふと気づいてしまい、ずいぶん失望している。限られた情報、限られた言語生活・・・もちろん外国語に対する僕の怠惰も大きな原因なのだが、しかしとにかく失望している。考えてみれば、刺激を与え合うような思想・思考の交歓というものから、こちらの生活はあまりにも遠すぎる。僕自身がそれから距離を置こうとあがいていた形跡すらある。

 半年で、ずいぶん傲慢な一人格が出来上がってしまった。おそらく周囲の人は誰も気づいていないと思うのだが、だとしたらほとんど完璧な傲慢さといえるかもしれない。何について傲慢かは、さすがに表に出すのをためらってしまうが。いや、このあたりのずるさも含めておそるべき傲慢さ、と思えてくる。

 以上、「ダ・ヴィンチ」1月号をむさぼるように読んでからの感想。マレーシアで日本の雑誌を買うのは初めてだ。
 たいていの人について素直に「すごい」と尊敬できる一方で、世の中のたいていの人について馬鹿だと思っている。俺と同じように、みんな馬鹿じゃねえ? 知らないということはやっぱり不幸なんだよ。知る気がないのはもっと不幸だけれど。

 おかしいな、こんなこと書きたくもないのに、早く書いて寝てしまおうと思ったら落ちも何にも付かない無駄だらけの日記になってしまった。

2002年12月15日(日)



 神様になった先輩

 『戰歿學生の手記』読了。東大の自治会が昭和22年に出したものだ。これも長い宿題だった。
 寄らば生樹のかげ、ということだ。当事者以外の人間による心無い「善意の解釈」=捏造にうんざりすることが続いていたから、収集・編集の作為を除けばなんらの解釈も加えられていないものを読むのはそれだけでもひとつの快感だった。

 意外に、さほどの感慨を持って読むことができなかった。中でただ一人、中村徳郎という人の日記と書簡だけは、ずばぬけた文才と、今の時代の僕にも抵抗の少ない豊かな思想――つまりとんでもなく頭がよかったということか――とで、飛ばし読みもせず興味深く読んだ。ただし、この中村という人の部分だけは確かに以前どこかで読んだことがあるのだが、いつどこで読んだかどうしても思い出せないのが残念だ。

 思い出せないといえば、この手記を僕はhtmlでダウンロードして読んだのだが、だいぶ以前に落としていたためにもともとどこから拾ってきたのかも思い出せなくなってしまった。奥付まで付いていたり、明らかに著作権失効後の公開書籍なのだが、いつも使う青空文庫ではないことだけが確かで、まったくわからない。東大のオフィシャル関係のページに飛んだことは一度もないし、ソースもヒントを与えてくれない。

 実家から近い江田島の旧海軍兵学校に、一度行ったことがある。近いくせに一度というのも情けないが、大学在学中つまり彼らとほぼ同じ年のころに、曲がりなりにも自らの意思で訪ねたのでずいぶん感慨深い経験だった。体当たり突撃で死んで行った彼らの遺書といえば、特攻隊が出撃した知覧の資料館が有名だが、「回天」に乗り組んだ海軍側の学徒出陣者の遺書が広島に集められていることなど、地元の僕もまったく知らなかった。学校では第一、広島の軍都ぶりなどまるでタブーか何かのように、教えられずじまいだった。ひたすら、「原爆の被害」、「空襲の被害」、「あなたの身近の戦争被害を調べましょう」だ。おい、あなたの身近の加害はどこだ?

 海軍兵学校の敷地には、いまも海上自衛隊の学校がどっかりと居座っている。威圧的な訓練艦も停泊している。レンガ造りの見るからに歴史的な建物が、一角にある。遺書は、その中だ。

 内容は、もちろんこの手記にあるものとさほど変わらない。大学生といっても、彼らの身につけた教養とそこに見えていた学問というものの大きさと、僕自身の恥ずべき堕落した脳みそなり肩書きなりとを比べるのもおこがましいというものだったが、虚栄というものはやりにくいもので、同じ大学の「先輩」が同じ年でこんな死に方をした、という事実を目の当たりにしただけでも僕は足がすくむように止まってしまったことを思い出す。

 レンガの建物の中は、半紙に達筆の遺書だけではなかった。順路に沿って進むほどに、階級章や海軍大将の軍服やらサーベルやらがキンキラに展示され、また展示されたあらゆる海軍グッズに付された説明書きなるもの、1から10まで英霊に感謝、今の日本があるのは誰のおかげだ、と強調してあった。

 不毛な論争が現在も続いているのは知っている。

 僕は神格化された先輩たちについて、失礼な感想を持ってしまいそうで困っている。――わかります。同情しますよ・・・と。みんながみんな、あんなにはっきりと、俺は神様じゃない、と叫んでいるのに、な。
 遺族に返したほうがいいのに、とも思った。これらを読めることで、僕は考える機会を与えられるけれど、これらが遺族の元で大事にされることのほうが、もっと意味のあることなんじゃないかな、と思った。

 あのときのなんだか歯がゆいようなあの舌触りを、今もはっきりと思い出した。

2002年12月13日(金)



 思いつかん

 今週は体調もすぐれず、とにかくつらい。はやくおわれおわれ。
 すまん、きょうはこれだけ。

2002年12月12日(木)



 デング熱の疑いあり

 体調きわめて不良。昨日のように授業中意識が薄れるというのではないが、じくじくと続く眼球深部痛、腰痛・・・熱もあるようだ。「デング熱」の状況証拠を立派にそろえている。去年エジプトでこれにやられて緊急帰国した知り合いのことを思い出した。特効薬もワクチンもないらしい。
 病は気からじゃ、貴様も日本男児なら日本精神でくだらん病気など治せい。われらは大東亜共栄圏の建設に邁進する尊い任務を仰せつかっておるのである。

2002年12月11日(水)



 断食明け大祭 僕はジャングルトレッキングへ

 2泊3日の山登り、この国で初めてのテント泊だ。チャイニーズばかり20人近い大集団だ。同好の士がメールで連絡を取り合ったものらしい。
 目的地はキャメロン・ハイランドの近くのGunung Batu Putih、西マレーシア第8位の標高があるらしい。
 結論から言おう。こいつらはなるほど山に登るかもしれないが、これはおよそ大人が休みに趣味として楽しむスポーツなどではない。自然に対するあらゆる面での無知、無防備、集団行動の基本知識・技術の欠如・・・まるで無邪気で、しかも無自覚だ。同じ事を日本の山でやってみろ、夏でも死人が出るだろう。あるいは全員が道に迷って遭難し、あるいは何人かが怪我に見舞われる。そしてその場合、適切な対処を知らない彼らはさらにひどい状況を作り出すはずだ。
 もちろん、日本の山に限らない。およそ世界中の山に当てはまるはずだ。ただしこんなことをしていたら、日本では事故にあう前に、大叱責がとんでくるだろうが。

 甲斐がないとは知りつつ、黙っていられないので、書く。僕が大好きなトレッキングというものをここまで馬鹿にされて、黙っていられないのだ。

 地図を持つのは地名を知るためではない。自分の頭で今の状況を考え、決断を下すためだ。今どこにいるかもわからないで――それどころか、これが確実に正しい道なのかどうかもわからないで――どんどん進んでいくなんて馬鹿なスポーツがどこにある。そのまえに、そんな馬鹿がどこにいる。たとえ信頼できるリーダーに統率されていたとしても、そのくらいは自分で把握すべきだろう。地図とコンパスで、残りの所要とタイムリミットを考えるというのはサッカーでいえば残り時間とスタミナ、それに対応した布陣を考えるのと同じで基本中の基本だ。これは監督の専任仕事ではない。

 根拠のない憶測で決断を下すのは、簡単に人の命を奪うことにつながる。この認識が、なんと彼らの中には皆無だ。これは山やジャングルに限らない。人間が支配する世界でも同じことなのだが、彼らはなんと、「万物が万物に対して羊」と固く信仰していることか。初めて来た山で、現在地もわからないくせに「あと30分でキャンプサイトに着く」といってみたり、同じく「下りだから休まなくてもいい」と決め付けてみたりすることがあまりにもたびたびで、しまいには僕は彼らが何を言おうが耳を貸さなくなった。ばかばかしいのだ。

 根拠というのは数字に限らない。きちんと合理的な判断を積み重ねた上でなされる決断しか、僕は信頼してはいけないと思うのだが、今回のすべての行動はまるで行き当たりばったり、朝令暮改としか言いようがなく、途中からは僕も彼ら流の「個人主義」に倣って、なるべく彼らの決め付けから距離を置いて、自分が誘った日本人の友人を安全に下山させることだけを考えることにしていた。

 これはスポーツなのだ。表現があいまいなら言い換えよう、これは大人の遊びなのだ。トレッキングというスポーツの目的は、何をおいても、「目標を達成して、安全にうちへ帰る」ということにある。どんなに評価を得た登山家でも、山で死んだとしたら、その人は敗北したのだ、と僕は考えている。つまりこのスポーツでは一度も負けることが許されないのだが、しかしトーナメントではない。何回勝ち抜いても、だからえらいということにはならない。だからこそ、経験という形で自分にだけわかる褒美が与えられるのだ。次に山へ行くとき、「負けない=安全にうちへ帰る」ために、何をすればいいか、何をすべきでないか、が判断できる、という褒美だ。これを生かしていなければ、山登りを10年やろうが20年やろうが、はっきり言って何の意味もない。まあ、経験のある人間から見て「ああ、こいつは馬鹿なのだな」と判別できるという意味はあるかもしれないが。

 雪など降らない分、マレーシアの山が日本の山より簡単だ、ということにならないのは、日本の夏山でも毎年死者が出ているのを引き合いに出すまでもないだろう。むしろ、ここは別種の異界なのだ。「緑の魔境」なのである。なのに、どうしてここまで無自覚なのだろう。

 非常に感じたのは、道具に対する妄信ともいうべき信頼だ。すぐに道具自慢をしたがるのは日本にもよくいるが、日本ではいい道具を使う輩が、夏山の死者の一番多い年齢層とぴったり重なるのは偶然ではないように思う。

 すこしわかったことがある。この国では、トレッキングというものはまだまだひよっこの、新しい概念なのだ。せいぜい10年かそこらの歴史しか持っていないし、そもそもが外国から持ち込まれた借り物の遊びなのだ。だから、日本の登山史のように、自ら痛い思いを体に刻み付けるまでは、何を言っても無駄かもしれない。

 とにかく、僕がこうあきれるほど、彼らはあらゆる危機管理ができていなかった。遭難を防ぐための、何重にも張り巡らすべき危機回避策がまったくとられていない。AがだめならB、BがだめならCという発想がない。これがひたすら信じられなかった。何か問題が起こるとそこで思考停止してしまうのだ。そして下される決断は、もはや思いつきとしか呼びようのないものだった。この怒りの前には、ごみを持ち帰りながら(これは雑誌か何かで借りてきた思想だろう、普段ごみを投げ捨て放題の彼らを見ているから不思議だが)も生ごみを投げ捨てたり、沢の水で食器を平然と洗ったりすることへの怒りもしぼんでしまった。勝手にしろ、と思えばすむことだった。ここはお前らの国なんだ。日本でもそういう馬鹿はいる。

 甲斐がないとわかっているが、とにかく、こいつらと一緒に泊りがけの山へ行くのはごめんだ。
 変な予感が当たってがっかりしている。死ななくてよかったよ。

2002年12月08日(日)



 しばらく、あるいはずっと、さようなら

 明日から2泊3日のトレッキングに出かけるので、日記などはそのあとになる。
 日本で山旅に出るときは、たとえ半日のハイキング程度でも未熟ななりに計画なり全体像なりを必ず頭に叩き込んでからでかけたものだが、今回はローカルの友人主導と言うこともあって、およそのスケジュールや山の位置すらも知らされず、イメージがまるで湧いてこない。

 あるいは死ぬかもしれないという覚悟がなければ、自然の中で遊ぶなんて言えないだろうし、いつもそれくらいの覚悟はあるけれど、いいかげんな計画で死んでいくのはまるで無駄で、馬鹿馬鹿しい。
 地図なんてないよ、と、彼らは平気で言う。
 馬鹿馬鹿しいと思いながら、人はこういう風に突然死んだりするのかもしれない。

 では行ってきます、しばらくさようなら。

 お元気で

2002年12月05日(木)
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