ジョージ北峰の日記
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2013年12月30日(月) 青いダイヤ

   誤解のない為に、もう少し付け加えておきたい。“日本人が論理能力に欠ける”という言(げん)は日本人が数学に弱いと言っているのではない。
逆説的とも言えることだが、数学の強い人も、いざ現実の場面では(西欧人のような)必ずしも合理的に物事を判断しないということなのだ。
 
  日本人の最近の科学技術の領域における貢献は目を見張るものがある。だから学問的な側面からは「日本人の論理能力に欠ける」という表現は正しくない。

  しかし、例えば戦争や政治の側面からは時として「あっと」言わせる非合理的な判断で世界を驚かせたことがあった。

  先の太平洋戦争で、長期戦になれば、日本が負けると判断したY.I.将軍は、緒戦でアメリカの空母さえ真珠湾でたたくことが出来れば、日本は1年間程度なら対等以上に戦える。しかし、開戦後は、日本が戦争に優勢な間に和平に持ち込むよう政府に要請していたという。
  これは日本人の判断としては珍しく論理的と言える。  しかし実際には宣戦布告が遅れ、アメリカを怒らせたり、情報が解読されたりでこの早期和平の作戦は失敗した。作戦の失敗を知った将軍は、自ら命を絶ったと言われている。

  しかし、大部分の日本人はあまり根拠もなく(神頼みに似て)日本が勝つと信じ込まされていた。(一般の人間には十分な情報が与えられていなかったので、仕方のないことだったかもしれないが)、しかし勝つ見込みのない戦争を続けた、当時の日本中枢の判断はどうだったのだろう。合理的(論理的)だったと言えるだろうか?

   敗色が濃くなった日本軍がとった、特攻作戦は奇襲作戦で、真珠湾攻撃と同じく、奇襲作戦である以上、合理的に判断すれば1回で終わらさなければ意味がなかったと考えられている。
  しかし実際は成果の上がらない作戦を繰り返し続けていた判断にアメリカは呆れていたというのだ。

   当時日本軍の軍部の中枢は、極めて優秀な人たちだったと聞いている。にもかかわらず、とても合理的とはいえない判断・作戦を繰り返していたのだ。(しかし、日本人は合理を超えたところに真実があると考えていたのかもしれない)

   この日本人に固有の判断様式が西欧の合理主義からは理解不能とされているのだ。
 
    当時日本では「乾坤一滴(けんこんいってき)」という言葉が好んで使われていた。「命を賭してのるかそるかの勝負をかけるという言葉」が日本人はとても好きだったのだ。それに多勢に無勢が勝つことがとても恰好(かっこう)良いと考えるのだ。

  信長の作戦がしかり、義経の作戦がしかりだった。
 しかしそうは言っても、彼らが無勢でも多勢を制したのはそれなりの、理由があったからだ。
 日本人が好きな三国志の諸葛孔明の作戦も、無勢で多勢を制する場面がよく出てくる。しかしそれも緻密な計算があったと記されている。

   このような日本人の戦時に示す特性が、西欧合理主義からは「日本人には論理能力が欠けている」ように見えるのだ。

   最近でも、日本のA.S.首相が靖国神社を参拝してアメリカを失望させた。何故だろう? A.S.首相はアメリカと日本は価値観を共有した同盟国だと公言している。しかしA.S.の考える価値観とアメリカの価値観には少し違いがあることを承知していないのだろうか。

   アメリカは、人権尊重を第一として、自由主義と民主主義を正義の中心と考えてきた国だ。アメリカが世界中で戦争しても、ある意味で許されてきたのは、単に軍事力に恐れられていたからではなく、同国が掲げている自由と民主主義の理念を世界が正義と受け入れてきたからだ。

    では、A.B.首相の価値観はアメリカと共有出来ているのだろうか? 実はこのことが今回の靖国問題の本質なのだ。
    第二次世界大戦は、“ファシズム”と“自由と民主主義”を掲げた国々の戦争だったと捉えられている。 

    当時、ドイツ、イタリア、日本は3国同盟を結んでいて、日本もファシズム国家の一つとみなされていた。
    その上、太平洋戦争は理由は色々あっただろうが、日本が仕掛けた戦争だったことには違いなく、その上敗戦国になった以上、誰かが戦争責任を負わなければならなかった。戦争の敗戦国の指導者は何時の場合でも、死をもってその責任を負ってきたのである。敵も味方も多くの人達が死ぬのだから----。

    東京裁判では、そのファシズムを推し進めてきた張本人がいわゆる“A級戦犯”だったとされたのだ。もし、あの時“A級戦犯”が無罪なら、誰が戦争犯罪人だったのだろうか? 
   
   私は日本人全体が犯罪人だったと思っているが、情状酌量があるとすれば、当時国民には正確な情報が伝えられていなかったことだ。
だとすれば(そうだとしても)当時の政権の中枢が責任を負うのは仕致し方がなかっただろう。
   しかし世界にとって政治学的には “A級戦犯”がファシストだったかどうかが、もっと重要な問題だったのだ。

   それも彼らがナチスドイツと同盟を結んでいた事実、また当時の日本の政治・社会状況から判断すれば、彼らがファシストと断定されても反論できない状況だった。
    だとすれば、日本の“A級戦犯”はナチスドイツと同罪と考えられ、国際社会から同じ扱いを受けても止むを得なかった。戦後のナチスドイツの指導者に対する国際社会の制裁は日本人には理解の限界を超える程厳しいことは周知のとおりだ(現在でもまだ終わっていない)。

    それから見れば日本の“A級戦犯”に対する世界の制裁はかなりゆるやかなものだ。それは日本のファシズムはドイツの二番煎じと考えられていたからだろうか?あるいは本物のファシズムとは考えられていなかったからかも知れない。

    しかし世界がファシズムを許すことは絶対ないだろう。現在、ファシズム国家の受けている制裁を見ればそれは明らかだ。
A.S.首相がどのように説明しても、A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝することは、西欧的合理主義からすれば日本のファシズムを肯定する人物と考えられても仕方がないことだろう。

    幸いなことに、これまで世界は、日本国民をファシストとは考えないで“A級戦犯”とは、一線を画して見てくれていた。

    しかし日本の首相が靖国を参拝したことは、日本人全体がファシストと考えられることにつながるとアメリカは心配しているのだ。

   ファシストを尊崇するA.S.首相をアメリカが共通の価値観を持っている人物とは考えないだろう。

    今回の出来事についてはアメリカが日本の同盟国でなかったら、アメリカはもっと強い警告を発していたと知るべきだろう。

   日本の大切な貿易国であるアメリカや中国に強い反発を受ければ日本の経済力はひとたまりもない。こんな単純なことが、如何してA.S.首相には理解できないのか。今回の出来事で、A.S.首相は世界から信頼を失うだろう。同じ日本人として、慙愧(ざんき)に堪えない。彼の行動が論理的判断に基づいているとは到底言えない。


   しかし、実は日本人にも言い訳はあるのだ。それが日本人のもって生まれた独特の特質なのだ。

   A.S.首相も自分がファシストとは考えていないと思う。
日本人の固有の考え方として、どんな大罪を犯した罪人も、死をもって罪を償えば仏になると考え、彼の罪を許してきたのである。特に信念をもって最後まで戦った人物は敵とは言え、骨のある人物として、ある意味では尊敬されることさえあったのだ。そのような歴史的事実は、日本では枚挙に遑(いとま)がない。
  しかし、このような日本人が示す特質は、どう説明しても世界が理解してくれるとは思えないが、一応弁明してみる余地はある。

   それに日本人は歴史に弱い。歴史は学校では、暗記物と呼ばれ、歴史について、真剣に考えたことがないのだ。殊に戦後の現代史は、まじめに学ぶ時間がほとんどないのが実情だ。日本の歴史教育は、表記学問で、内実を問われることはほとんどない。

   韓国や中国から日本の歴史認識についてよく指摘されるが、若い日本人は現代史についてはほんとにほとんど何も習っていないというのが現実だ。

  しかし、今後日本人が歴史をもっと重要な学問として捉え直す必要があるだろう。それも文明国であれば、一方的な歴史観を教えるのではなく、色々な考え方を受け入れる度量が要求されるだろう。
  西欧では歴史と哲学はことさら重要な学問と考えられている。
  殊に海外で働く人は、現代の日本人の歴史感覚では恥をかくことがあると知っておくべきだ。

  さらにA.S.首相の靖国参拝は、憲法の政教分離の原則を忘れている可能性も指摘されている。日本だからまだ許されるかもしれないが、アメリカのような多くの宗教が混在している国家で、大統領が一つの宗教に偏った信条を示せば大反発を招くだろう。宗教は国にとっては敏感な問題なのだ。日本も、戦死者を国家として祭りたいなら靖国神社ではなく、もっと宗教色の少ない施設に移すべきだろう。医療の世界では病死し献体された人々への慰霊祭には、すでに宗教色をなくしている。

   そうすれば靖国神社が、“A級戦犯”を祭ったとしても問題ないだろうし、A.S.が首相を辞職してから参拝されても問題ないだろう。信教の自由は認められているのだから。その判断こそ首相として合理的(論理的)ではないだろうか。
   一国の総理大臣や大統領が、特定の宗教施設に参拝するべきないことは世界では常識なのだ。
   国の」リーダーが一つのイデオロギーや宗教に固執すると民主主義を否定しファシズムにつながる危険性を孕んでいるからだ。
 
   この問題を教育の問題として捉えるならなら、日本人の論理的判断が世界に通じる合理的なものにするべきだろう。

  しかし私見を言うなら、日本人の固有の特質を間違っても完全に切り捨ててしまうことだけは避けてもらいたいと思う。








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