ジョージ北峰の日記
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2013年11月12日(火) 青いダイヤ

 最近ニートとかフリーターと呼ばれる若者が増えている。また親子間の暴力事件、虐待、殺人事件をよく耳にするようになった。
  若者たちの中には、将来の展望が読めないから就職することにためらいを語る者もいる。中年や熟年の人々も、昔ほど身分は安泰ではなくなっている。会社から突然解雇を迫られて途方に暮れている人も多数いるのだ。

 しかし一方で、就職をしないでパソコンを使って大儲けしている若者もいる。 
海外に出かけていって成功している若者も少なからずいる(しかし成功している人は、現段階ではほんの一握りだ)。
日本の物質文明の構造転換と精神文化の衰退が進行中なのだ。

  この傾向は、最近世界で進みつつある経済のグローバル化と社会のコンピュータ化と無縁ではないだろう。
 この二つの文明は人類一体何をもたらそうとしているのか。

 未来に向けて人類を幸福に出来るのだろうか?
一つは労働の単純化、労働力、人件費の削減が突き進んでいる。その結果、私達は確かに安い物を手に入れることが出来る----が
 
一方で産業はこれまでほど人の労働力を必要としなくなりつつある。科学技術が進めば進むほど人が必要ではなくなっていくのだ。
産業が労働力を必要としなくなる一方で、家庭内労働が軽減された女性も仕事につく機会が増えてきた。さらに最近の傾向として独身のまま働くことに生きがいを求める女性も増えつつある。
 
さらにバブルの頃まで、繁栄を謳歌していた農家や商家は、輸入農産物の増加や大型店舗の進出で町から消えてしまった。
しかしその大型店舗でさえ、最近ではオンラインビジネスのあおりを受けて消えてしまうかも知れない運命にある。日本の場合高齢化も急速に進んでいる。つまり昔に比べて労働力は一層供給過剰になりつつあるのだ。


 仕事をなくした人々は(多くの高齢者を含めて)、これまで蓄えてきた貯金を切り崩すか年金に頼って生きざるをえないのだ。
こんな状況で来年から追い打ちをかけるように消費税が上がり、物価も2%上がるという。


 これでは政府が「日本経済を取り戻す」と如何に膨大なお金をつぎ込んでも人々に十分いきわたることはないないだろう。
景気回復には、お金が一般の人々のところへ還元されてはじめてその効果が発揮出来るのだ。

景気回復のために、異次元のお金を使っているという。だがそのお金は一体どこに消えているのか?一般の人々にはさっぱり見えてこない。
A首相が財界に「職員の給料を上げるように」要請されたそうだが、(それ自身は、正しい判断だろうが)多くの働いていない人々のところへはお金が届くことは、現状のままではありえない。そのことは皆が分かっている。
 
最近大会社が黒字に転化しつつあるらしい(それはそれでよいことだが)。しかしそれだけで景気回復とは言えない。

グローバル化、コンピューター化が一層進むなかで、政府がいくら資金を供給しても、産業構造が現状のままでは、そのお金は一部の会社にたまるか、海外に逃げていくばかりだ。人々に還元されることはないだろう。   

日本をはじめ、世界中の先進工業国で起こっている不景気は世界の産業構造の在り方に深く根ざしているのだ。
仕事にあふれた人々が働ける場を提供しないかぎり、つまりこれまでとは違った新しい産業を創生しないかぎり、いくらお金を供給しても、日本経済復興に役立つどころか、どこか別のところへ無駄に消えていくばかりだろう。
 
これまでの大企業も今は発展途上国に安い製品を売ることで儲かっているかも知れないが、いずれは行き詰まる時が来るだけだ。 

現代は経済発展の為には新たな職場の創出が絶対に必要なのだ。
福島の原子力発電所をめぐる議論の中で、自然エネルギーを電力として事業化することこそ産業界再編の絶好の転機なのだ。
原子力を廃棄して新しい産業を創生する絶好の機会なのだ。
 勿論こんなことは、誰でも分かっていることだが----


 ところで、私はこれからの新しい時代を迎えて子供の教育について如何あるべきかを考えることが最優先課題と考えている。 
最近大学入試の変更が政府から発表された。センター試験をなくし、これまでの知識偏重の学力テストを改善するという。
 さらに入学試験よりも卒業試験を難しくするということも考えているという。当然大変結構なことだと思う。

 これからの教育は受験が目的ではなく、多様性に富む才能の子供達を如何育てるかが問題になるからだ。受験で教育は終わりなのではなく、これからの日本の教育には(世界のリーダーをめざすなら)まず世界(日本ではない)に通じる人間(人格)の形成こそが重要な部分になると考える。
今の教育には、この面がほとんど欠落しているように見える。その意味で大学教育では教養部から専門課程へ進む際に再度評価しなおすのも一つの方法かもしれない。

  ところで、最近英語教育について少し気になる話題があった。日本の企業がグローバル化する中で、会社内で英語を公用語として使うようになり始めた。従って大学受験に英語の資格制度(英語で自由にコミュニケイション出来る能力を測る)を取り入れるべきだと---主張する人(主に経営者)が少なからずいる。
 
  日本人が英語に 強くなることに、私は決して反対ではないので、それを前提にして考えてみたい。
  グローバル化した社内では英語を使うことが必要だろうか?彼らは、社外の日本人に対しても英語を公用語として使うのだろうか?
  経済発展のために日常社会の中で英語を使う必要があるだろうか?となると私は疑問を感じざるをえない。
  企業側から考えても、英語を使える人が有能な人かどうか疑問で、逆は必ずしも真ならずだからだ。

  本気で英語教育をするなら、小学生の時からすべての教科を英語で講義するべきで(事実フィリピンなどの国々はそうなのだが)、さもなければ、英語圏の人々と対等に亘りあえる英語能力と判断力を養うことは不可能だと思う。日本の経済力に見合った、欧米諸国に劣らない英語力と判断力を身につけるには、つけ刃では駄目なのだ。
  一歩進んで、企業のグローバル化に備えて日本語を国内で非主流の言葉にしてもよいのかを考えてみる。

  日本語は、学校教育の中で文学でも科学でも、ありとあらゆる分野で講義出来る大変高度な機能を持った言語であることを忘れてないだろうか。 
  過去2000年の文化を育んでできて高度な機能をもつ日本語をそんなに簡単に捨ててよいのだろうか?
  言葉は、その国の歴史だ。
  これまで多くの言葉が世界から消えていった。文明の遅れた国が、新しい文明を取り入れる過程で自分達の言葉を失っていったのだ。
  日本語もそのような運命をたどってよいのだろうか? 

  最近、世界のどこに行っても日本語の通じる人々がいる。まして、漫画文化・おたく文化に魅力を感じて日本語を学ぶ外国人が増えてきている。語学の天才と呼ばれるヨーロッパ人は、私達が英語を話すよりよほど上手に日本語を話す。

  今やっと日本語がグローバル化しつつある中で、日本人が皆英語を公用語にする必要性があるのだろうか?
 むしろ日本の企業なら、外国人に日本語を習える学校を建てるべきだ。
 
 最近日本文化に興味を持ち日本語を真剣に学びたい外国人が増えているのだ。
 再度強調するが、日本人が英語に強くなることには、私は決して反対ではない。しかしそれなら、せめて小・中・高等学校の英語の教育を根本的に改めるべきだろう。まず○×式の英語の試験は百害あって一利もないからだ。

  また日本の文化は英語では表せない部分が90%あると言っても過言ではなく、同じことは日本人が、どれほど外国語に堪能であっても異文化を彼等と同じ程度に深く自分の文化として理解することは不可能だと某アメリカ人が言っている。
  たとえば宗教、哲学、芸術などの西欧社会からの輸入分化も、深い意味で、その独創性を日本人が本当に理解しているかと言えば疑問だと言うのだ。
  一方で自国の独特の優れた“書”とか工芸など日本文化があまり評価されていないのが不思議だと----。

   私がアメリカに留学していた頃、図書館ではロシア語で書かれた論文を、図書館専属の翻訳家が忙しそうに英語に翻訳していた。その時私は、日本語もこうならなければと痛感したのを鮮明に思い出す。

   日本の科学者は論文を英語で発表している。しかし遠い将来、日本語で書かれた科学論文を西欧人が自国語に真剣に翻訳する日が来ること祈らずにはいられない。

   昔医学の領域で、ノーベル賞級の研究にも関わらず日本語で発表されていたために賞をもらえなかった多くの研究者がいたそうだ。それはそれで残念なことだったが、しかし日本人の立派な研究を外国人に評価してもらうのではなく日本人自らが正しく評価し日本の科学史に位置づける日が来ることを願わずにはいられない。
   日本人にはとって語学教育は、英語教育だけではなく、むしろ日本語教育の充実、特に日本人に弱いと言われている論理能力の向上を目指すこと、

  さらに言語能力ばかりでなく、科学の分野に限って言えば日本人の研究、さらに世界の研究をも正しく公平に(哲学的に、つまり普遍的な観点から)評価しうる人格形成が最優先であろうと考える。


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