ジョージ北峰の日記
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2012年06月19日(火) 青いダイヤ

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  戦後間もない時代、人生に挫折した人達が町に溢れていました。自殺した人たちも、勿論沢山いました。しかし大方はみな逞(たくま)しく生まれ変わろうと必死でした。私の父も敗戦で、人生を棒にふった一人だったと思います。
   父は、順調に歩いていれば自分の理想とする人生の成功者になっていたかもしれません。しかし昔ながらの武士(さむらい)魂が災いして、思想・信条を曲げてまで人に頭を下げることの出来ない人でした。そのため一旦挫折してからは、立ち直るのに随分苦労していたように思います。
   それでも、内地に引き揚げてきてからは、家族のために商売をしたり、織物に手を出したりしていました。
が結局は長続きしませんでした。
   父は私に自分の人生を振り返って「人は、一生を無駄に過ごしてはいけない。人生は長いようで短い、あれもこれもと欲張っても結局多くのことは出来ない。自分の友人達で成功した者は皆、大卒後一つのことに専念した者ばかりだ。お前もそのことをよく肝(きも)に銘じて、一度やると決めたことは、どんな困難があっても、一生をかけてやり続けることだ。決して脇見をしてはいけない。自分がいい例だ」と話すのでした。
   父の若い時代も、社会は不景気真只中で、大学を卒業しても日本では仕事がなく、父は外地(今の韓国や中国の一部)に出かけて新しい人生の出発点にしようとしていました。しかしその野望は戦争で無残に打ち砕かれてしまいました。
引き揚げてきてからは、田舎へ引越しして、母、兄たちは何処からかサツマ   イモ、ジャガイモ、かぼちゃなどの栽培方法を学んできて、なれない畑仕事に精をだしていました(父が畑仕事をする姿を見たことはありませんでしたが----)。
   母は「どんなことをしてでも、お前達の教育はやり遂げるか安心してなさい」と言っていました。
   その後、父は友人のつてで地方公務員に(不本意だったようですが)、母は教員の仕事に復帰できて、我が家も、内地での(日本を韓国、満州に対して日本本土を内地と呼称していました)生活に一つの形が出来あがりつつありました。当時父は問題の多い人だと思っていましたが、今考えてみますと、父なりによく我慢していたのだろうと思います----。
   戦後日本は世界の5大国の一つから、世界一の最貧国に成り下がっていました。今の若い人たちが当時の日本を見たら恐らく生きていける状況とは思えなかったでしょう。そんな悲惨な状況下でも、人々は結構明るく、夢を持って生きようとしていました。
   今振り返ってみると、人間は「いざ」となれば、野生に帰ってでも生きようとする強い動物だと言い切れます。
   人々が現代のような贅沢の極みになれきって、不景気になれば、どう生きればよいのか分からなくなって、崩壊寸前の社会保障になお頼って生きる姿を見ていると、一度どん底の生活を経験してみるのもいいことかも知れないと思うことさえあります。
あるいは社会実験として子供のうちにそのような体験をさせてみるのも教育の一環として必要なことかも知れません。

   当時私の周囲には、変わった人達が溢れていました。
 
   乞食同然の生活を強いられながらも、町の哲学者や芸術家が泰然として生きる姿がありました。中には食べるものがなくて死ぬ人もありました。
当時は祖父や祖母を交えて親子3代が同じ屋根の下で、助け合いながら生きる家族が沢山ありました。漫画のサザエさんに描かれている親子3代の家庭の風景は、当たり前の時代でした(サザエさんの家族は当時としては理想の世界でしたが----)。
   しかし一方で、時代が経ち社会状況が良くなるに連れて、若者の間では親から独立してマイホームを持つ風潮が広がり始め、昭和30年代頃には「核家族」と呼ばれる社会現象が目立ち始めました。
これが、日本経済の飛躍的発展のはしりだったといっても過言ではないでしょう。
   戦争で打ちひしがれた世代と、どん底の社会から這い出てきた雑草の様な世代が同居していたのです。それが日本を強くしていったのかも知れません。
   当時は、子供達の大半が、中学卒業と同時に家族を助ける為に働きに出るのでした。彼らの中には、学業成績も優秀で、将来会社の実務の担い手になる人もいて「金の卵」と呼ばれ社会から珍重され始めていました。
一方女性はいかに優秀でも、よくて高校まで、早く結婚するのが当たり前の風潮がありました。
   後に小学校出の総理大臣が出たのも、世界的な会社を起業した人たちが輩出したのもこの時代でした。現代の豊かな日本は、こんな人たちで作られてきたのでした。

   私のすぐ近所に、「お殿様」出身の画家が住んでおられました。いつも「お座敷」に泰然と座って絵を描いておられ、絵を描くこと、時に散歩に出かけられる以外に何もされないとのことでした。 時たま個展を開かれ、ざっくり「お金」が入ってくると、祇園で遊んで一日で使ってしまうと子供達が嘆いていました。
  しかしその子供達は、皆一流の大学に進学、大学に入ると何故か父親に勘当され、自分達で働きながら大学を卒業し自立されたと聞いていました。
子供達は影から「親の経済を支えていた」そうです。しかし、お殿様は、そんなことには無頓着でした。

   ある家では、赤貧洗うがごとしで、僅かな畑で子供達を育てている家族もありました。ところが、子供達の中には、何処で何時勉強したのか分かりませんが、超難関大学に合格したり、か、と思うと中学卒業するのもやっとという子供がいたり、多様な家族構成も当たり前でした。
   何時の時代でもそうですが、アプレゲールと呼ばれる社会に対して反抗的な若者グループが町を跋扈する姿もありました。彼らは社会を如何変えようかと考えるのではなく、単にもがき苦しむ社会を尻目に、過去の社会のあり方や道徳に縛られずに、自分達の生き方をもっと楽しもうじゃないかと主張していました。
 
   単に古い社会のあり方を破壊することに意義を見出していたのかも知れません。
   
   又一方で、共産主義革命が世界中に広がった時代でもありました。労働者階級がブルジョア(お金持ち)階級を倒す社会運動が盛んで社会全体が騒然としていました。日本でそんな思想に傾倒する若者達が革命を叫んで暴れた時代でもありました。
   敗戦後、人々は皆ばらばらの人生を歩み始めていました。


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