ジョージ北峰の日記
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2003年05月26日(月) 雪女”クローンA”愛と哀しみーつづき

 秋の日は短い、帰り道は急ごうと私が促すと、それなら獣道(けものみち)を帰りましょう、昔ハイキングをした時、父とたびたび通ったことがある、と彼女は言った。
 身の丈ほどもある熊笹が生い茂る細い溝のような道だった。熊笹の合間から彼女の顔だけがやっと覗く。山の中腹まで降りてきた時、彼女の顔が突然消えたかと思うとズシンと大きな音、悲鳴が聞こえた。
 どうした!と尋ねると、大きな窪みがあるから注意して、と笑いながら答えた。熊笹の下を覗くと彼女は窪地に尻餅をついて笑っている。
 気をつけろよ!と手をのばすと、
 彼女は口に出さず目で誘い、下へと言わんばかりに力をこめて私の手を引っ張った。私はバランスを崩し大袈裟に窪地に転がり落ち2人は重なり合うように倒れた。辺りには1杯、甘酸っぱく、心地よい、懐かしい女性の香りが漂っていた。
 
 彼女は悲しみを精一杯こらえていたのか、突然堰を切ったように肩を震わせ鳴き始めた。
 どうしょうか? 一瞬戸惑ったが、頭の中は真っ白、考える余裕もなく、それでも私は夢中で彼女を抱きしめていた。柔らかく弾力のある、想像以上にずっしりと質量感のある女の手応えだった。私は理由(わけ)もなく感動した。
 時が随分経過したように思えた。しかし彼女はなおも泣き続けていた。私にとって初めての経験だった。
 その後どうしたか、私には殆ど何も記憶に残っていない。ただ気が付いた時、日はとっぷり暮れ、辺りは暗闇となっていた。熊笹の合間から星空が覗いているのに気付いた。
 それはとても印象的な夜だった。たった2人の山中、寒さにも気付かず、たとえ何が起こるのか見当もつかない状況下で、不思議なほど恐怖心は無かった。何時までも時が静止、その幸福感が永遠に壊れてほしくないと祈るような気持ちだった。否、死んでも構わないとさえ思えるほどだった。
 VI
 診療所の運営も順調に進み、殊に予防医学を基礎にした診療は医療費の抑制の為にも、人々の健康の為にも役立つタイムリーな医療の取り組み方としてマスコミに注目され新聞、テレビの報道でも取り上げられるようになった。殊に年2回の胃癌検診による早期発見、早期治療、一方高血圧は当事者の学習・食事療法を通した徹底した予防、これらは患者数の減少に多大に貢献している。この診療所方式はこれからの日本の医療のあり方を見極める上で大きなインパクトを与えるだろうと、過分ともいえる評価を受けるようになった。
 その上、田舎で献身的に働いている、美しい看護婦には注目が集まり、それが宣伝となったのか見学に訪れる人さえ現れる始末だった。
 そうすると話しはうまく進むもので、ある篤志家(とくしか)が診療所の新設さえ申し出てくれるのだった。
 そして彼女が帰ってきてから2年目の春には、田舎としては設備・スタッフ共に充実した近代的な診療所として新たに出発することになった。
          つづく


2003年05月11日(日) 雪女”クローンA”の愛と哀しみーつづき

 彼女は両親が結婚して直後に誕生した、母に似て何事にも積極的に取り組む子供だった、また父に似て探究心が旺盛で、音楽、スポーツ、学業にも優れX国でも有名なS大学の理学部に入学した、と言う。しかし、入学して1年も経たないうちに性質(たち)の悪い悪性腫瘍を患い、両親の祈りもむなしく死んだ。その時、発生学者の父がせめて彼女の細胞だけでも生かせておきたいと彼女の体から細胞を取り出し冷凍保存した。
 彼女の細胞を培養器で増殖させるのが本当の目的だった、だから彼女の細胞の一部はS大学の発生学研究所に今なお保存されているはずだ、と言う。
 当時、父は既に下等動物ではクローンの作成に成功、人間にも適用可能なことを予想していた。ただ、世論はクローン人間の話に否定的な時代だった、と言う。しかし、短命だった彼女の人生をとても残念に思い(科学的興味がなかったと言えば嘘になるかも知れないが)、父は母を説得、クローン人間を誕生させる決心をした。何度も失敗を繰り返したが、最後に細胞クローンAを使った実験が成功、A子が誕生したと言うのだ。母は高齢だったが、自分が”クローンの母”になることをと熱望、彼女を産んだ。それが原因かどうかは知らないが、母は1年後に病気で亡くなった、と言うのだった。
 A子は親の命を犠牲にして誕生した人間、だから母にはとても感謝している。
 しかし私の為に母が死んだことはとても悲しく寂しい、
 本当は誰よりも母に会いたかった、と言った。勿論二度目の命を授けてくれた父 は私にとっては救世主キリストのような存在、と淡々と語った。
 彼女の話しは、私の想像をはるかに越える内容だった。静かな湖面にミサイルを打ち込まれたような衝撃で私の心は動転し、手のひらが汗ばむのさえ気付かぬほどだった。ふと彼女の方に目をやると、まだあどけなさが残る横顔、太陽に白く、眩しく輝く美しさ、しかしなお苦しみに耐える姿はいじらしく、純粋で思いっきり抱きしめ、慰めてやりたい!元気付けてやりたい!そんな押さえ切れない気持ち、衝動に駆られた。
 それは私が過去一度も経験したことがない情動の昂揚、破裂せんばかりの心臓の高鳴りだった。
 V
 山の高台にある村は秋の訪れが早いのか稲刈りはもう殆ど終了し、苅田のあちこちに稲穂の束が円錐状に形よく堆積されていた。一巡り村を歩いている間も、時々顔見知りの人々から声をかけられ、柿やクリの実をもらい、帰る頃にはリュックは一杯になっていた。そして苅田のそこかしこで煙が立ち昇る頃、太陽は西の空に傾きかけていた。
 彼女の話しに、私は驚き、何故か悔しく、憐憫の情なども重なって、言葉ではとても言い表せない感情に心揺れていたが、彼女の方は、もう何事も無かったかのように、笑い、出会う人々と陽気に会話を楽しんでいるように振舞っていた。そんな姿からは、彼女がクローン人間だなどと私には俄(にわ)かには信じがたく、
 彼女は普通の人間! 先ほどの話しはきっと夢の中の出来事!否、今は夢を見ているに違いない! と、自分を納得、冷静にさせるよう努めた。がしかし思考は完全に停止、同じ場所を堂堂巡りしているようだった。
 暮れようとする峠の頂上から望む眺めは、深く落ち込む私の心とは裏腹に、今日は特に壮観で、今まさに沈まんとする太陽が西空をきらきらと黄金色に染め、その後に続くいわし雲が真っ赤に輝く有様は、背景の墨絵のような山との対比が見事で、この世に実在する光景とは思えず、さながら曼荼羅の世界のように思えた。
        つづく


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